20 / 52

第19話

「へぇー、貴族のお屋敷ってカフェまであるんだな」 「ここはカフェではなくサロンだ」 「さろん? って、なにするとこだ?」 「応接室とも言う、客人を招いて談笑する場だ。まぁ、こんな郊外の別宅にあっても集めるべき知識人や文化人もいないし、使ったことはないがな」  二時間後。アダマスとテイルラは並んで屋敷内を散策していた。正餐が終わるや否や、「アダム! 探検しよう!」と跳ねるテイルラに息つく間もなくアダマスは屋敷の案内に駆り出され、一階のサロンへと案内するに至っている。屋敷に来てからテイルラがやたらと落ち着きがないように感じるのは気のせいではない。経験したことのない貴族の生活、というものに気分が盛り上がっているのだろう。そんなに一日で体力を使い切って、明日から体調を崩したりしないか心配もあるが、本人が楽しそうにしているのだからそれに水を差すのも悪い気がして、せめてアダマスはテイルラが行き過ぎないよう舵を取る。  サロンという間にあまり親しみがないのか、テイルラは興味深そうに一つ一つの家具を覗き込んでいる。バロック模様の洒落たデザインの椅子を撫で、金属製の縁をちょんちょんと突く。アダマスにとっては特段珍しい品物ではないのだがテイルラにとっては違うのだろう。確かに、相当な地位の貴族しか所有しない家具である。異国で生まれたバロック様式の物はアルルカンド国でも珍しく、商家の一族であるヴェルデマキナ侯爵家だからこそ所有しているものだ。  テイルラは見慣れない家具を観察した後、壁に並んだ絵画を前に視線を滑らせ、最後に部屋の隅のグランドピアノへと目を向ける。それからそのピアノへとテイルラは向かって行った。 「アダム、ピアノ弾けるのか?」 「聞きたいならモズに頼め」 「なんだ弾けないのか」 「弾けはするが、人に聞かせるほどのものではないだけだ」  テイルラは「ふーん」と生返事をしつつ、白鍵を撫でる。基本的に音楽や絵画が含まれる芸術的な分野は人族が得意としているものである。獣族もアダマスのように生まれつき教育を受けていれば多少の才は得られるが、人族には到底及ばない程度だ。アダマスも幼少の頃に多少知識として音楽を嗜んだ経験はあるが、もう久しく楽器には触れていない。  テイルラは白鍵に指を乗せたまま、何か逡巡するように鍵盤を眺めていた。その指は譜面をなぞるように白鍵をとんとんと跳ねるが、決して音を出すことはしなかった。 「テイルラ?」 「ん、次に行くのか?」 「あぁ……、ついてこい」  指の動きだけで音色を想像できるほど音楽に精通していないアダマスには、テイルラの中で流れていた音色を知ることができない。視線が奏でていた音色を共有したい気持ちはあったが、テイルラは結局一音も出すことなく鍵盤から指を離してしまう。主旋律だけでも音色を刻めるのなら聞いてみたいところだが、たった今自分が断った矢先、簡単にでも構わないから弾いてくれなどと頼むことはできなかった。  先にサロンを出ていくテイルラを追って、アダマスも部屋を出る。扉の前で待っていたテイルラを抜かし、アダマスは次にサロンと同じく一階に設置されていた浴場へとテイルラを案内する。アダマスの後ろを素直にひょこひょこ着いてくるテイルラの頭部ではあのふわふわとしたロップイヤーが揺れていた。屋敷にいるのはアダマスの他にモズとフブキのみ。耳を隠す必要もないため、テイルラはいつものローブを脱いで軽装で過ごしていた。  こうして改めて見てみると、多少毛並みが荒れているようにも見える。あまり手入れをしていないのだろうか。そもそもテイルラが混血種であることを知っているのは診療所の二人と、シャトンの一部の人間、それからテイルラを買う客だけだという話だ。その中にいる獣族はアーティとイオルバくらい。十分に毛づくろいしてやれないのも仕方ない。後でフブキに整えるように頼んでおこう。 「ここが浴場だ」 「浴場? え、おふろ? お前の家、風呂あるのか!」 「ヴェルデマキナ侯爵家の別宅ならばどこでも備え付けられている。お前のその身では公衆浴場に行くのも大変だろう。まぁ、当然個人のものだから規模は小さいがな、……あ、おい!」  アダマスがわざわざ説明しているにもかかわらず、テイルラは浴場の中へと駆け込んでいく。個人の家の中に浴場があることを珍しがる気持ちは分かるが、もう少し落ち着いて行動はできないものか。アダマスは呆れつつもテイルラを追いかけて浴場へと向かう。  公衆浴場とは、個人の浴場を持たない庶民たちに身を清めるための場を提供する施設を指す。通常は性や種族で区分けされておらず、限定するならば貸し切るなど高い金を払わなければいけない場であり、誰もが安心して利用できる場ではない。テイルラのようなものならばなおさらだ。  屋敷にある浴場は公衆浴場ほどとは言えないが、それでも立派な浴場が備え付けられていた。住んでいる人数に見合わない規模の風呂は完全に持て余されており余計な設備だとばかり思っていたが、こうして喜ぶ人間がいるのならば無駄でもなかった。 「おぉー! 本当にお風呂だ! な、一回だけでいいから入ってみてもいいか?」 「別に、一回と言わず好きに入ればいいだろう」 「いいのか? オレいっつも浴場は危ないからって体拭いてもらったり先生のところで水浴びしたりしかしたことなかったから一番風呂って夢だったんだ!」 「……先生のところで水浴び?」 「うん、先生のところって小さい浴槽が一つあってさ、週に一回くらい……、客取った日とかはそこで『丸洗いしてやるから』って。先生荒いからオレのこと野良犬みたいに洗うんだよ」  そう言いつつも、楽しそうな柔らかい表情を浮かべる辺りそれが嬉しかったのであろうことが窺える。アダマスとしては、「リヒテルヴェニアと風呂に入っていたのか」と問いたいところだが、この様子ではそんな問いは野暮であると察する。どうしても引っかかってしまうが、二人の間で身体に触れたことや、全身を見たことだとかは今さら気にするでもないことなのだろう。だとしても、ただの医者と患者の間柄とは、到底思えないが。 「客といえば、……店を開けても良かったのか?」 「なんだそれ、本当は一週間以上引き抜くつもりだったくせにお前がそれ言うのか?」 「それはそうだが、俺はもう多少かかると思っていた。三日やそこらで客に話をつけたのか?」  アダマスの問いかけにテイルラは暫し黙り、微かに上目でアダマスの表情を窺う。いわく、テイルラは裏メニューとのことだったが、これまでの話しぶりからしてアダマスが来る前に多少なり客を取っていたことは分かっている。店を抜けるとなると、多少の準備期間があるだろうとアダマスは踏んでいたが、予想に反してテイルラはほんの三日で店を休む準備を整えた。 「……オレは、ね。実は、ほとんど客は取ってないんだ。店の男娼として客取るのは本当に稀だよ。オレさ、長く誰にも抱かれてないとこの間までみたいにフェロモンが溜まっちゃって、発情期でもないのに盛って大変な時に、抱いてもらうんだ。だから客が来るっていうよりは、こっちから呼ぶの」 「フェロモンの発散のためにわざわざ? それだけなら、アイツらでも構わないんじゃないのか?」 「んー、アイツらって、イオルバとか先生のことか? 無理だよ。イオルバは、そういうとき部屋に入って来なくなるんだ。昔、発情期のスカーレットを襲おうとして殴っちゃったことがあって、それから怖いんだって。先生も、ダメ。発情期が来てる時にオレから誘ったこともあるけど、振り払われた。オレとはシたくないんだって」  そう語るテイルラの視線は寂しげに伏せられていた。確かに、テイルラは明らかに不特定多数と性的な関係を持つべきではない体質である。本来の娼婦と同様の働き方をしていれば、まず間違いなく体に不調を来す。ならば、それこそフェロモンの処理も身内がすればより安心ではないのかと思うが、どうやらそううまくはいかないらしい。  シャトンに行った際に覗き見た領収簿からしてテイルラの値は他のスカーレットの十倍以上のものだった。そのため一週間に一人でも客を取ればそれで店の利益としては十分なのだろう。  それにしても、イオルバもリヒテルヴェニアもあれだけテイルラのことを気にかけて置きながら男娼というやり方は見逃しているのか。そこまで身体を気づかうならば、無防備になる性行為を他人に託すべきではない。恐らく、テイルラを気づかうからこそ、己の手でテイルラを犯せないのだろう。その心情は、テイルラのフェロモンに狂わされかけたアダマスだからこそよく理解できる。 「よっぽどお前のことが大切なんだろうな」 「そうかな、……二人とも、優しいよ。優しいけど……たぶん、オレのことが怖いんだと思う。アダム、今日までに二人と、あとアーティにどうせ釘刺されまくったろ? みんな過保護なんだよ、……みんなオレが簡単に死んじゃうって思ってるんだ。馬鹿だよな、そんな蝶よ花よと愛でたところで、死ぬときは死ぬんだ。そのリミットが純血よりも……少し、短いだけ。それだけなのに」 「…………」  ――難しいものだな。  アダマスは黙り、胸の内でテイルラの言葉を受け止める。過保護な奴らだと、アダマスも最初は感じた。だが、それはテイルラを想うが故の愛情であったと今なら分かる。純粋な心配からくる、行き過ぎた優しさ。それによって本人は不自由を背負っている。二つの感情の行き違いに、アダマスはそっと息を吐く。  リヒテルヴェニアたちを責めることもできない。アダマスもテイルラの身体のことを初めから知っていたなら、同じようにしていただろう。かといって、テイルラの捉え方を間違っているとも言えない。ただ混血種であったというそれだけで、テイルラはいくつもの制限に苦しめられてきたのだろう。その心根は、純粋な人族、獣族と何も変わらないというのに。 「ま、店の話はいいだろ? なぁ、一階はあと何があるんだ? てかアダムの部屋は? どこだ?」 「あ、あぁ、一階はあと厩舎があるくらいだ。今は馬もいないし見る必要もないだろう。それと俺の部屋は三階だ。その前に二階を案内しよう」 「三階! 行こう!」  落ち込んだ空気を振り払うように笑顔を作ったテイルラは、アダマスの手を引いて浴場を飛び出していく。その横顔は、やはりまだ幼い子どもを彷彿とさせる。  テイルラがこれまで生きてきた環境をアダマスは知らない。だが、テイルラにとっての世界が、ひどく小さく、狭いものだろうことは察せられる。こうやって好きに行動できることなんて、ほとんどなかったのだろうか。はしゃぐテイルラの瞳、その星空の奥底にある深淵が微かに覗いたような、そんな気がした。

ともだちにシェアしよう!