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第21話

 その夜、夕食を終えたアダマスはフブキにテイルラを自室で薬を飲ませて休ませるように伝え、自らは執務室に籠り仕事を進めていた。これからしばらく昼間はテイルラに付き合わなければならない。だがだからといって卸を止めるわけにはいかない。アダマスが来る以前は各露店の店主たちが各々行っていたことだが、アダマスがミラビリスに越してきてから露店の回転率は著しく変化した。売ることを生業としている店主たちと、生産者と売り手を結びつけることを生業としているヴェルデマキナ侯爵家とではそもそも買い付け先の選択肢の幅が違う。種類も量も、アダマスが関わるようになって豊富になり、露店も大いに活性化している。そんな理由もあり、夜は最低限の仕事を済ませなくてはならない。  机に肘を突きながら、アダマスはふと背後の窓の外を見やる。雲のない空は、あの日テイルラと初めて出会った日と同じく美しい星空を黒いキャンバスの上に描いていた。あの日は、まだ手の届かない位置にあった星。それは、手を伸ばせば届く位置にまで引き寄せられていた。  同時に、アダマスはたった一日でテイルラという存在をいかに知らないか思い知らされた。共に過ごした時間がまだたった数日しかないのだから当たり前ではある。それでも、こんなにも誰かのことを深く知りたいと感じたのはアダマスにとって生まれて初めての経験だった。テイルラのことを知らずにはいられない、放っておけない。  未だ暗闇の中にいるアダマスは、溜息と共に視線を落とす。何故、自分はこんなにもテイルラに惹きつけられるのだろうか。一挙一動に視線を、言葉を奪われるのだろう。この感情を表現する言葉が浮かばない。もっと、もっとテイルラを独占してしまいたい。それは、まるで好きな玩具を独り占めする子どものような感情で。  ——好き……? 「アダムー? いるかー?」 「うっ! て、テイルラ?」 「なんだよ、そんなに驚かなくてもいいだろ」  突然執務室の扉が勢いよく開き、アダマスは大きく肩を跳ねさせる。テイルラはそんなアダマスの大きすぎるリアクションに対し、目を細めつつ開けた扉を閉じる。アダマスは未だ跳ねる鼓動を落ち着けるために深呼吸をしつつ、部屋の中に入ってきたテイルラへと言葉を投げかける。 「お前、もう寝たんじゃなかったのか」 「……え? 本当に寝て良かったの?」  きょとんとして目を丸くするテイルラに対し、今度はアダマスが訝しげに視線を送る。アダマスは確かにフブキにテイルラを休ませるように頼んだ。それはあの客室で就寝させろという意味だ。 「だ、って……、しないのか?」 「俺が呼んだら、と言っただろう」 「でも、オレそのためにここに来たんじゃ……」 「そうだが、今日は疲れたろう。慣れない環境は体を壊しやすいという。だからもう今宵は部屋でゆっくり休め」  テイルラとの間に設けられた時間はたった七日間。時間は限られているが、だからといって事を急いて体に負担がかかるのは主にテイルラの方である。それでテイルラが体調を崩して七日持たないという可能性も大いにあり得る。それでは元も子もない。一番はテイルラの体調である。テイルラ自身は過保護にされるのは好かない様子だったが、無理をさせてしまうのを避けるためにはそうするしかない。 「そう……なら、おやすみ」 「あぁ……、あ? おい、どこに行く」 「だから、部屋で休むんだろ」 「そっちは俺の寝室だが? おい!」  テイルラはたった今入ってきた扉とは違う方向へと進んでいく。アダマスの制止も聞かず、テイルラはアダマスの寝室の扉を開けてそちらへと向かって行く。アダマスは慌てて机上の蝋燭を消し、テイルラの背中を追いかける。開けたままの扉の向こうで、テイルラはアダマスのベッドの上に座っていた。 「だからしないと言っているだろう。部屋に戻れ」 「やーなこった。だってお前のベッドの方が気持ちいもん。こんだけでっかいなら二人くらい眠れるだろ? な、アダム、オレ一緒に寝たいな」 「……、……全く、潰れても知らんぞ」 「オレそんな貧弱じゃないですー」  アダマスの脳裏に、テイルラの提案を断るという発想が浮かぶことはなかった。ベッドに腰かけて悪戯っぽく上目で微笑むテイルラの悪魔的な魅力に、憑りつかれていたのだろうか。アダマスは誘われるようにベッドへと歩みを進める。先にベッドの左側に寝転がるテイルラの隣に、アダマスは腰かける。沈むマットをなぞるように、テイルラの髪と耳が流れていく。細い糸が、白いシーツに線を引く。寝転がる前に、アダマスはその鮮やかな糸に指を通す。 「アダムの手、あったかいな」 「そうか」 「うん。……こんな風に撫でてくれたの、母さんと先生だけだったから」  穏やかに瞳を閉ざすテイルラの傍ら、アダマスは複雑な表情を浮かべる。すでにいない母親と、アダマスの知らない深い関係であるリヒテルヴェニア。アダマスには、テイルラの中での「アダマス」という存在がその地位にまでたどり着ける気がしなかった。  優しく撫でていると、いつの間にかテイルラは穏やかな寝息を立てていた。柔く閉じた瞼は、無防備な寝顔の中で幼さを見せる。それを暫し見つめ堪能した後、アダマスも体を折りベッドに横になる。胎児のように身を丸めて眠るテイルラの表情がよく見えていた。  先ほど、テイルラが入ってきたことで有耶無耶になってしまったこと。その感情が再び込み上げてくる。  ——違う。これは、こいつが……、  テイルラが、特殊な性をしているから。だから、惹き付けられるだけ。テイルラが混血種だから、スカーレットだから。そこにアダマスの個人的な想いなんて、好意なんて、存在しない。  トクトクといつもより早い鼓動の音が、静かな部屋の中で煩くて。初めて抱いた知らないその強い感情に、衝動に。アダマスは白い毛皮の下に、熱を抱く。その熱は、アダマスの身を焦がすように。雪豹の身体に燃え広がっていった。  それでもアダマスは、その感情の名前を認めることができなかった。

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