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第24話

「アダムー? おーい、あーだーむー?」 「そんなに何度も呼ばずとも聞こえている」 「なら返事しろよ」  ランタンの灯りが、机上の葡萄酒の水面で揺れている。今晩の空を写し込んだような、濃く渋い色をした赤黒い葡萄酒。テイルラがまたしてもアダマスの呼ぶ前から部屋に飛び込んできたのは、本宅から持ち込んだそれを嗜んでいる時だった。むぅと唇を突き出すテイルラを横目に、アダマスはグラスを手に取りくるくると弄ぶ。  今宵は、アダマスも呼ぶつもりではあった。だが、いざ自室に呼び出すとなると妙に緊張してしまいなかなか腰が上がらず、そんな理性を吹っ切るためにアルコールを入れようと葡萄酒を開封することにしたのだった。結局、酔いに身を任せる前にテイルラが自らアダマスの部屋を訪れたため、意味はなくなったわけだが。むしろテイルラには自分を放っておいて嗜好品に酔っていたことが不服だったようで、空いたボトルを見た瞬間に明らかに眉間に皺が寄った。テイルラを放置していたつもりはないと誤解を解こうにも、まさか誘いに行く勇気が出なかったため酒に頼ったと言えるわけもない。引き際を見失ったアダマスは、机を挟んだ反対側でしゃがみ込み、机上に両腕を倒しその腕を顎を置き物言いたげな視線を送ってくるテイルラを無視してグラスを傾ける。 「なぁ、アダム」  こくりと喉が上下するのを見つめるテイルラは、微かに声のトーンを落とした。先ほどまでの軽い調子の呼びかけとは違う音に、アダマスはつと視線をそちらへと向ける。 「今日は、してくれるよな?」 「……そうだな」  真っすぐとこちらを見ていたテイルラと、目線が絡まる。紺碧の夜空の中で、ランタンの焔が揺れていた。いや、そこで燃えているのは、それだけではない。テイルラの瞳は、どこか期待するような色を、鮮やかな焔を湛え、誘うように揺らめかせていた。  酒を飲んでいるのはアダマスだけだと言うのに、その目には熱が宿っている。ごくりと生唾を飲み込んだ喉が熱いのは、アルコールの熱のせいだけではない。身体の奥、主に腰の辺りが疼くのを感じる。この程度で絆されてしまうほど、自分は堪え性がなかったと思いたくはない。アダマスはテイルラの張った糸の中で身を捩り、ぐっと己の欲を飲み込む。 「悪いが、少し仕事が残っている。すぐに済むから待っていろ」  空いたグラスを置いて、アダマスは机上の封書の山から数枚を手に取る。視界の隅でテイルラが「ふーん」と不服そうに鼻を鳴らしているのが見えていた。と、テイルラはその場で立ち上がり、机に半分腰かけながらたった今アダマスが手を伸ばした封書の山を覗き込み、上にあった一枚を手に取る。宛名と送り名を見ているが、どうせ理解はできないだろうとアダマスはテイルラから手紙を奪うことはしなかった。  この国では読み書きのできる人間は限られたもので、教育の水準は高いとは言えないものだった。貴族の階級の出で、幼い頃から十分な教育を受けてきたアダマスには読み書き以上の能力があるが、それは自分が特別なのだと自覚している。娼館で働くことを余儀なくされるような、そんなテイルラが字を理解することはないと、そう高を括っていた。 「仕事、ね。オレよりもこっちのが優先なんだ。なになに? 親愛なるアダマス様へ、だって。宛名にそういう敬称つけるなんて、この……クリス・ウェルディさんはお前の恋人かなんかなの?」 「な……! それは触るな!」 「わっ! な……、なんだよ、なんで、否定しないの?」  思わぬ名前に、アダマスはテイルラの手から手紙を奪い取っていた。戸惑っているのか、覇気のないテイルラの問いかけに、何と答えるべきかとアダマスは視線を伏せる。「クリス」。それは、あまりテイルラといる時に聞きたくない名前の一つだった。 「お前には関係ないだろう。……というか、お前字が読めるのか?」 「話逸らすなよ」 「逸らすも何も、お前に話しても詮無いことだ。それよりお前は、」 「うるさいな、オレの質問に答えてくれてないのにお前のに答える気はないよ」  余計なことを言えば、またテイルラに誤解されてしまう。それを避けるため、アダマスはテイルラに何も言わないことを選んだ。だが、それがまたテイルラの気に障ったのか、さらに機嫌が悪くなりぷいとそっぽを向いてしまう。これ以上機嫌を損ねたら部屋に帰ってしまうかもしれない。いっそ店に戻ると言い出すかもしれない。それは困る。アダマスは慌てて手紙を置き、椅子から立ち上がりテイルラの傍に回り込む。 「この書き方はただの形式上のものだ、別に恋人ではない」 「……本当に?」 「本当だ。お前には嘘は吐かん」  真意を探るかのような視線が、細められた瞳から覗いている。テイルラはまだ疑っているのか、思案するように視線を宙に彷徨わせ、指先で垂れた耳の毛を撫で先端を握り弄ぶ。 「ほら、俺は答えたぞ。今度はお前が答える番だ」 「やだ、オレの機嫌良くしてくれなきゃ答えてやらない」 「機嫌? なんだ、何が欲しい」 「性根の悪い貴族みたいなこと言うなよ」  テイルラは両手を耳に添え、それを後ろへ持っていく。そうしてアダマスの胸元を掴み、ぐいと引き寄せると両手を背中に伸ばした。決して強い力は込められない。ただ、テイルラの熱が重なる。それでも、抱きつかれたと認識するには十分だった。 「まぁ、しいて言うなら、快感?」 「な……っ」 「こないだ抱き方は教えてやったろ? 今度はお前の力だけでオレのこと満足させてよ」  頭部についた耳に口を寄せ、熱を乗せて放たれた吐息にアダマスは抵抗する術を持たなかった。もう、頭を飲んだこの熱が酒によってもたらされたものか否かなどどうでもよかった。アダマスはテイルラの腕が首に回されているのをいいことに、そのまま机に乗っていた美しい曲線を描く腰に手を回し、テイルラを抱え上げる。するとテイルラは落ちないように一層アダマスに身を寄せ、抱き上げられることに素直に従った。

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