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第28話

 テイルラから、ほんのりと甘いフェロモンの香りが漂っている。昨日抱いたばかりだと言うのにそれでもこんなに無防備な蜜を零すものなのかという疑問はさておき、その香りは実際に昨日ベッドの上で感じたほどの強さである。アダマスは咄嗟に欲の襲っていた己を正し、その場に立ち上がる。 「テイルラ、フェロモンが出ている。人が来る前に屋敷に帰ろう」 「え、出てる? 本当に?」 「俺が言うのだから間違いない。立てるか?」  アダマスが手を差し伸べると、テイルラはしっかりその場に立ち上がる。この様子ならば、発情期が来たわけではなく、いつもの無意識の延長戦であることには間違いないのだろう。テイルラ自身もつい昨晩発散させたはずなのにフェロモンが溢れていることに戸惑っているのか、不思議そうに己の身体をくんくんと嗅いでいたが自覚できないのかテイルラは首を傾げている。だが、その身から漂うものは本物であると、アダマスの身体が告げていた。  他の誰かに襲われる前にと、二人は人通りの多い道を避け、路地や裏道を選んで歩いて行く。露店が賑わっていることもあってか、そちらの方はいつも以上に人が少なく、うまくテイルラを人目から守りながら郊外へと抜けていくことが可能だった。その間もテイルラはアダマスに分かるほどのフェロモンを零していた。それこそまさに、撒き散らすという語が相応しいほどには。以前までのアダマスならば、間違いなく耐えられなかった。今はテイルラとの行為を多少重ねたことにより欲求不満が解消されているためか、多少ならば飲み込めるが、それでも気を抜けば飲まれそうなものではある。  意識を逸らさなければまずいと、アダマスは必死に思考を逸らす。そんな時に、ふと過ったのは先ほどのイオルバの言葉。 「お前、こんなにフェロモンを撒くのに以前から一人で外出していたのか?」  テイルラは混血種であるため体が弱く、容姿も特異なものである。さらにスカーレットであるため発情期があり、それでなくともフェロモンを無意識に垂れ流してしまう。そんな不安定な存在だというのに、テイルラはなぜ外出を繰り返しているのだろうか。娼館、ではあるが、そういう意味ではシャトンのあの部屋はテイルラの身を守るために適しているとも思えた。むやみに外出するよりも、可能な限り控え身を守るべきではないのか。そうでなければ、あの日、初めて出会った日のようにアダマスのように襲われてしまう危険性が高まってしまうだろう。 「よくあの花屋に来ていたとも聞いたが、お前、体が弱いだろう。今日もそうだが、できる限り出歩くのは控え、身の安全が保障される場にいた方がお前も安心できるのではないのか?」  その問いに、テイルラはぴたりと足を止めた。つられてアダマスも少し先で足を止め、「どうした?」とテイルラを振り返る。すると、テイルラは視線をあげ、フードからその眼を覗かせる。アダマスに刺さるのは、音のない静かな眼差し。その目は、どこか冷たく色のないもので。アダマスは思わず息を呑む。 「引き籠っていたら、オレの寿命は延びるのか? 絶対に、百パーセント長生きできるって、そう言えるのか?」 「それは……」 「なぁ、アダム。確かにオレは純血と比べたら弱いよ。だけど、病気はオレだけの脅威じゃない。暴漢はオレだけの危険じゃない。昨日も言ったろ? 誰でも、死ぬときは死ぬんだ。お前だって、今は健康でも、ある日突然重病に倒れるかもしれない。混血のオレよりも先に死ぬかもしれない。そんなこと絶対にないなんて言えない」 「…………」 「それを聞いて、お前はこの先の十年を生きるために一日を棒に振ったりするか? 明日、明後日、一週間後に死ぬかもしれない。そう思って部屋の隅っこに隠れたりするか? 普通はそんなこと考えない。……オレも同じだよ。どう生きたっていつか死ぬことには変わりないんだから」  テイルラの言葉になんと答えるべきか、アダマスには分からなかった。語られた言葉は、前向きなものだったのかもしれない。混血のスカーレットという自分の特異な性に向き合った上での、テイルラなりの向き合い方。それが正しいのかは分からない。だが、間違っているとも思わなかった。混血種のテイルラが言うからこそ意味がある言葉。引き籠って生きようが、空の下で生きようが、いつか死ぬという未来は変わらない。死ぬときは、死ぬ。  もしも、テイルラがこれを明るい笑顔で話していたなら、アダマスは「そうだな」と肯定し受け入れていただろう。そうやって混血種の持つ悲しい定めを、自分の中で割り切って受け止めていると、そう考えた。しかし、目の前のテイルラに、表情はない。ただ無感情に、アダマスを見つめていた。  その表情は、割り切れない複雑な感情を押し殺しているようで。テイルラが決してそう思うことで納得しているのではないと分かってしまう。むしろテイルラは、そう思うことで諦めているような、そんな諦観を感じ取ってしまった。テイルラの言葉には、もっと別の何かが隠れている。それを知るべきなのか。それを、テイルラに気づかせるべきなのか。アダマスには、分からなかった。  その夜、テイルラはまたしても呼ばれてもいないのにアダマスの部屋を訪れた。「今日は自分の部屋で寝ろ」というアダマスの言葉もまるで聞こえていないのかというように、断りなく部屋に入り込んだテイルラの耳では、昼間に買ったリボンが揺れていた。それを見たとき、誘惑しに来たと気付いていたというのに。  巧みな話術と愛らしい仕草で誘われたアダマスは、気づけばまたしてもテイルラの性に手を伸ばしてしまったのだった。

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