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第30話

「……ペルナ、お前なぜここに」 「なぜってぼくは兄さんと同じ侯爵家の人間だよ? 侯爵家所有の屋敷に来ることの何がおかしいの?」 「そういうことを言っているんじゃない!」  我が物顔でエントランスホールを闊歩するペルナから隠すようにテイルラを庇うが、視線は明らかにこちらを向いていた。こんなところで言い争いを繰り広げている場合ではないというのに。アダマスが声を荒らげたことに驚いたのか、腕の中のテイルラが僅かに身動ぎする。話し相手を見ようとしているのか、テイルラの頭が傾く。 「ねぇ、そんなことより、それ誰? モズ……なわけないよね」 「……お前には関係ない」 「あ、そうか。それが、スカーレットか。屋敷にやたらとスカーレットのフェロモンの匂いが漂っているから何かと思えば……、抱けもしないくせに買ったの? やけにぐったりしてるけど、まさか腹いせに殴ったりした?」  テイルラの指先がアダマスの胸元に触れる。その指が、震えていた。聞くなという意を込めて、さりげなくテイルラの耳を塞ぐように頭を抱え直す。 「黙れ、要件はなんだ。嫌味だけ言いに来たのならさっさと帰れ」 「怖いなぁ、そんなだから取引先に逃げられるんだよ。ちゃんと用事はあるよ」 「ならば早く言え」 「急かさないでよ、ぼくも昨日までこき使われて疲れてるんだからさ。あ、今日ここに泊まっていくから。フブキ、部屋用意しといてね」 「いや、部屋はモズに頼む。フブキは……」 「えぇ、分かったわ」  皆まで言わずとも察したフブキが抱えていたテイルラの下に己の手を差し入れる。そうしてアダマスに代わってテイルラを抱えた。ペルナが来ているとなると、アダマスが屋敷を開けるわけにはいかない。放置して出かけたとなれば、後で何を言われるか分からない。さらにそれが、配偶者でもないスカーレットのためだと知れたなら。血を分けた兄弟よりも優先するものがあるのかとさぞかし煩いことだろう。  となると、テイルラを診療所まで連れていくことが可能なのはフブキのみとなる。老いた人族であるモズではテイルラを抱えて診療所まで行くことは難しい。フブキもモズと同じく年齢は重ねているが、獣族であるためテイルラを抱えることは容易であった。何も言わずとも察してくれたフブキに内心感謝しつつ、アダマスはペルナと向き合う。  ペルナはアダマスよりもよっぽどヴェルデマキナ侯爵家の考え方に染まった人間だった。ペルナが異常なわけではない。先ほどのも、冗談で言っているわけでないことを重々承知している。侯爵家にとっては、その考え方が正常とされるのだ。せめて、テイルラが混血種であると気付かれていないことが幸いだった。  一階まで下りてきたモズに、ペルナとその従者を部屋へと案内するように告げる。一等客室はテイルラに渡していたが、そこに通すしかないだろう。娼館のスカーレットを一等客室に通しているなどとペルナに知られてたら、面倒なことになるであろうことが目に見えていた。テイルラは結局あの部屋はほとんど使っていないようだし、要領の良いモズならば上手く誤魔化せるだろう。  階段を上っていく背中を見ながら、アダマスは深々と溜息をつく。本宅でも手を焼いていたあの弟が一日で帰ってくれるとは思えない。ようやくテイルラに近づけてきたというのに。残りは四日しかないというのに。  一度シャトンに返すべきだと、アダマスにも分かっていた。ペルナが来ている上に、テイルラが体調を崩してしまった。ペルナが帰るまで、調子が良くなるまで、安全な場所に逃がすべきだと分かっている。だが、そんな判断をした結果、もしテイルラが「もう来ない」と言い出してしまったら。もともと一週間だけという話だったのだから、二回目はないと言われてしまったら。  そんな不安に駆られたアダマスに、テイルラを帰す勇気はなかった。  せめて今は、テイルラの体調の変化がただ疲労であることを願おう。そう思いつつ、アダマスは息の詰まる正餐の時間を過ごす。テイルラとフブキを含めて四人分であった食事はペルナとその従者が現れたせいで不足してしまった。だが当然ペルナがそれを気にすることはなく、「人数ぴったりだ」とほざいた。わざわざモズがテイルラを思ってアレンジを重ねてきたメニューであったというのに。最も思うことがあるはずだろうに、モズは正餐の最中、それを口に出すことはもちろん表情一つ歪ませなかった。さすが長年にわたりバトラーを務めただけはあるものだと、言うべきなのだろうか。  ペルナは「正餐の後、話がある」とアダマスに告げていた。勿体ぶるなといい返したいのを堪え、素直にペルナが正餐を終えるまで待ったアダマスは紅茶を淹れるためキッチンへと向かう。ペルナのこと、どうせ何も出さなかったら客に茶も出さないのかと言い出すことだろう。保管されていた茶葉の中でもより良いものを選び、アダマスは自ら茶を用意する。モズは今正餐の片付けで忙しいのだからアダマスがする他ない。ティーポットと共にソーサーに乗せたカップをトレーに集め、サロンへと運ぶ。アダマスが茶を持っていく頃には、すでにペルナが部屋で寛いでいた。 「さすがモズだね、掃除が行き届いてる」 「……それで、何の話だ」  テーブルにトレーを乗せ、ペルナの分の茶を注ぐ。細い湯気が立つのを眺めながら、ペルナはテーブルに肘を突いた。こちらを見下すような視線は気に食わないが、ペルナのこれは環境によって根付いてしまった癖だと知っているアダマスは最早腹を立てることもなかった。 「昨日までドゥエラで研究者たちによる定例会が開催されていたことは知ってる?」 「あぁ、話には聞いている」  ドゥエラのというと、リヒテルヴェニアが出席すると話していたものだ。ペルナはそれに駆り出されていたのだろう。これまではアダマスも行っていたものだが、今回はアダマスに代わりペルナが行っていたのか。ペルナは言葉を続けていく。 「そこで興味深い研究の発表があってね。発表者はスカーレット研究で敬意のある医者。以前から一部のスカーレットのうちで、発情期のフェロモンが特定の対象にしか効果がなくなるという事例が報告されていたでしょ? その理由を特定したっていう話でね。いわく、特定の条件下でスカーレットのうなじを噛むと、そのスカーレットとの間で目に見えない繋がりが生まれるらしい。その繋がりを持つと、フェロモンはその相手にしか通じなくなるし、さらに妊娠率の低いはずのスカーレットがその相手との行為において確実に孕むとか。医者はその繋がりを『つがい』と名付けることにしたそうだ」 「つがい……?」 「で、その特定の条件下っていうのが、発情期のスカーレットとのセックスの最中だそうだよ。ただし、その条件でうなじを噛んだとしても必ずつがいが成立するわけではないらしい。スカーレットをつがいにできるのは一部の人間だけ。つがいにできる人間とできない人間の差異はまだ特定されていないそうだ。ただ、スカーレットのフェロモンに比較的惑わされやすいことが特徴だそうだよ」 「…………」 「で、ここからが本題だ。……父さんから本宅に戻れとのお達しが出た。つがいとなれば、必ず相手はお前の子を孕む。お前がつがいを作れるかは分からないが、試してみる価値はある。あの子を、……クリスを、つがいにして子を産ませるために、実家に戻れ、……という伝言だ」

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