34 / 52
第33話
アダマスが部屋を飛び出す少し前のこと。テイルラはアダマスの寝室を抜け出し、二階の廊下に立っていた。そこは、先日案内されたちょうど屋敷の庭を見渡せる位置。そこでテイルラは一人ぼんやりと外を眺めていた。
星の光る夜空。きっとそれは多くの人々にとってはいつもそこにある当たり前の存在。しかし、普段は娼館の地下にある一室で過ごすテイルラにとって、それは当たり前のものではなかった。ここに来てからも夜はアダマスの元に行っていたから、ここまで静かに空を見上げるのは久しぶりのことだった。
小さな光が瞬く澄んだ空。よく、テイルラの瞳はこんな星空のようだと称された。
「こんばんは」
「ん、こんばん、は? へ? あっ!」
「おや、驚いた。ただのスカーレットかと思ってたらお前は混血種か? へぇ、兄さんも面白いものを拾ったねぇ」
意識外から声をかけられ、テイルラは反射的に挨拶を返し、慌ててそちらを見やる。薄暗い廊下に立っていたのは、雪豹の姿をした獣族だった。だが、アダマスの声ではない。つまり、今ここにいるのはペルナであると、テイルラは瞬時に察する。同じ雪豹なだけあって、確かに僅かに垣間見ただけの容姿はほとんどアダマスと同じように思えた。だが、よく見れば顔つきが違う。見せる表情もアダマスのものとは完全に異なっていた。
「アダムと仕事の話してたんじゃ、」
「あぁ、なんか集中できないみたい、なんでだろう。……ところで、この耳は垂れているけど、兎のものか?」
「ッ! 引っ張るな!」
「……なんだ、まだ調教もしてないのか」
何の前触れもなく伸びた手が、容赦なくテイルラの長い耳を鷲掴み引き寄せられる。走る痛みに、テイルラはその手を鋭く叩き落とした。すると、ペルナの瞳は不快そうにテイルラを睨みつけた。次いで、冷ややかな目が値踏みをするように全身をねめまわしてくる。まるで全身舐め回されるような気分の悪さに、思わず一歩後ずさったテイルラの耳をペルナは再び強く引っ張り次いで腰を撫でられる。
「いッ!」
「可愛らしいリボンだね、随分とアダマスに気に入られているようだ。……いいね、混血種ってだけでも面白いのに調教前とは言え貴族を睨む胆力があるなんて、躾がいがありそうだ。ねぇ、アダマスのところなんて離れて、うちに来ない? アイツは勃たないからさ、ここ満足させてくれないでしょ?」
「おあいにく様、そっちは困ってない。アイツはオレになら勃つそうなんでね」
「……あぁ、やっぱり、そうなんだ」
ペルナが僅かに眉を潜める。それはテイルラが想定した反応とは異なるものだった。アダマスの生殖能力が養われることは、身内であるペルナも望んでいるのではないのか。話が飲み込めないテイルラに、ペルナは再び強い視線を向ける。
「単刀直入に言わせてもらうとさ、お前、邪魔なんだよ。……困るんだよね、アダマスに生殖を覚えさせられると、つがいを作れるようになられるとさぁ」
「…………」
「なぁ、お前もスカーレットなら欲しいんじゃない? アダマスよりも断然良くしてあげるよ。だからさぁ、あんなやつ捨ててぼくと一緒に……」
「違う」
「……違う?」
「いや、……同じ、なのか。アダムと、同じ目だ。……寂しいのか? そんな悲しそうな目をするなよ。本当はオレにそんな魅力感じてないだろ? 好きでもないやつとそういうことするもんじゃないよ」
「おなじ、だと?」
「同じだよ。アダムも、寂しくて、苦しくて、辛そうだ。そんなに貴族っていうのは痛いのか?」
「なんだよ、……なんだよッ! お前に何が分かる!」
突如激高したペルナが声を荒らげながらテイルラの首を掴み、壁に背中を叩きつける。ペルナはそれだけでは止まらず、強い力でテイルラを壁に押さえつけた。首を圧迫され、呼吸が苦しくなる。痛みにテイルラは顔を顰めるも、ペルナには通用しない。
「ぐ、う……ッ!」
「アダマスと同じ? ふざけるなよ、あんな臆病者と一緒にするな! ここで孤独にしてやるはずだったのに! お前が、お前なんかがいたせいで!」
「…………っ」
「なんでなんだよ、……なんで、クリスは、あんなヤツが……」
ペルナの表情が歪んでいく。それに従い、ペルナの手は緩んでいった。押さえつけられていた喉が解放される。その気になれば、ペルナから逃げることも容易な状況ながら、テイルラはその場を動かない。深く呼吸をするテイルラの瞳は、暗い深淵を湛えていた。
「だから貴族は嫌いなんだ」
「なん……!」
「そうやって、都合が悪くなると人のせいにして逃げるんだ。それで一生消えない傷を抱える人がいることも知らずに、お前らに付き合わされる人は大変だな」
「違う、ぼくは……!」
「ほら、認めない。たった今責任転嫁した癖に。なにが上手くいかなくて憤ってるのかは知らないけどさ、どうせそれも上っ面なんだろ? そんな顔したらオレが同情して身を引いてくれるとでも? それとも畏怖して裸足で飛び出すとでも? そのクリス、とかいう人も可哀想だ。本当は誰かを愛する勇気もないくせに、足枷になった時に躊躇わず捨てるくせに、言い訳に使われるなんてな」
「黙れッ! お前に何が……ッ!」
「分かるよ! オレは何もしてないのに、ただ生きてただけなのに、『お前がスカーレットだったせいだ』『お前が混血種だったせいだ』って何回も言われてきた! オレを言い訳にするな! 性を言い訳にするな! どいつもこいつも、みんなそうだ! 誰かのせいにして逃げるな! 愛したなら、逃げるなよっ……!」
「……違うよ、お前は何も分かってない。お前のせいにしようとしたことは謝るよ、悪かった。……でも、ぼくたちは、貴族なんだ。逃げたくなくても、捨てたくなくても、己を殺すべきことがある。それが貴族の、ヴェルデマキナの家に産まれた者の、宿命なんだよ」
「……わかってるよ。だから、貴族は嫌いなんだ」
「お前……、っ!」
テイルラが吐き捨てた一言に、ペルナは再び何か言い返そうと口を開く。だが、ペルナは言葉を紡ぐことはなくハッとしたように暗い廊下の奥を見やった。何事かとテイルラも長い耳を傾かせて音を探す。
直後、ペルナは突然テイルラを壁に押さえつけ、片手を顎に添え上向かせた。
振り払う間もなく、テイルラは唇を塞がれる。視界に満ちる真白い豹紋。ペルナの唇を奪われたと察するには、十分だった。
「……テイルラ?」
硬直するテイルラの耳に、呆けた声が入り込む。それは、間違いなくアダマスの声だった。
「貴様、ペルナッ! 何をしている!」
これまで聞いたこともないほど声を張り上げたアダマスは、すぐさま二人の元へ走りペルナをテイルラから乱暴に引き剥がした。アダマスは背中にテイルラを庇うと、ペルナを鋭く睨みつける。まるで獲物を横取りされた獣のような視線に、ペルナは唇を舐めつつ肩を竦める。
「何って、キスしてたんじゃん? 見て分かるでしょ」
「コイツには手を出すなと昼間に言ったはずだが」
「手は出してないよ、唾つけただけ」
「減らず口を……、っ、もういい。テイルラ、部屋に戻るぞ」
「あ、あぁ……」
アダマスは憎々しげにペルナをひと睨みした後、テイルラの腕を掴むと強引に引きずるようにして歩き出す。去り際、テイルラは僅かに振り返り、残されたペルナの姿を一瞥する。ペルナは指先で唇を撫でると、窓の外へと視線を移す。その目は、やはりアダマスと同じだった。
「馬鹿だな、だから好きでもないやつとこういうことすんなって言ったのに」
テイルラの細い声は、アダマスにも届かない。ただ暗闇の中に、誰にも届かず消えていく。
その後、テイルラはアダマスの寝室へと連れ戻される。断りなく部屋を抜け出したことを説教でもされるだろうと、テイルラはもともと垂れている耳をより下げて、アダマスの一歩後ろに控えていた。アダマスの背中が明らかな不機嫌を物語っており、毛が逆立っているようにも見える。しばらく黙って背中を向けていたアダマスが、言葉もなくテイルラを振り返る。コツコツと鋭い足音共に、アダマスはテイルラへと近づく、そうしてテイルラの目の前で、手を上げた。
「っ! ……、ぅ?」
打たれると、咄嗟にテイルラは目を瞑る。だが、体に痛みは訪れず、ただ温かい掌が優しくテイルラの髪を、耳を撫でていった。
「俺は少し仕事をしてから寝る。お前は先に寝ていろ」
「……うん」
テイルラが素直に頷くと、アダマスは隣をすり抜け執務室へと向かって行った。テイルラはベッドへと倒れ込み、隅で身を丸める。テイルラを見下ろしていたアダマスの視線が離れない。あんな目を向けられるくらいなら、頭ごなしに怒鳴られた方がよっぽどマシだ。怒られるのなんて慣れている。過剰に心配されるのなんていつものことだ。だけど。
テイルラはベッドの中で固く目を閉ざす。暗闇の中はテイルラに孤独を灯す。
——このまま、黒の中に落ちていけたらいいのに。
そんなテイルラの闇を、アダマスはまだ知らない。
ともだちにシェアしよう!