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第34話

 テイルラが屋敷を訪れて五度めの正餐。昨日まではモズとフブキも含めて四人で食堂を囲んでいたが、今朝の食堂にテイルラの姿はなかった。代わりにペルナとその従者の二人がそこにいた。ペルナは顔を合わせるや否や、「彼も連れてきたらいいのに」とアダマスにクスクスと意地の悪い笑みを向けた。昨晩のことがあった矢先、ペルナとテイルラを会わせるわけがないというのに。そんなアダマスの心情を分かった上でペルナが茶化していることくらい読めている。言い返すことも面倒で、アダマスはペルナをひと睨みして距離を取る。  食後はモズとフブキが事前に分けていた食事を寝室で待たせているテイルラの元へと届ける。また一人で抜け出したりはしていないかと案じていたが、テイルラは大人しくベッドの上に座っていた。シーツの上で膝を抱えていたテイルラは、僅かに開いたカーテンの隙間から外を見つめていた。その目はどこか曇っており、まだ本調子でないように見える。 「悪いな、閉じ込めるような真似をして」 「ヘーキだよ。部屋の中でじっとしてるのには慣れてるから」  寝室のテーブルにトレーを置くと、テイルラはベッドから立ち上がりひょこひょことアダマスに向かって来た。アダマスはさりげなく椅子を引くが、テイルラはそこには座らずアダマスの背中を掴みくいっと軽く引いた。  「なんだ」とアダマスが振り返ると、テイルラは何か言おうとして飲み込むように口を噤んだ。代わりに何か言いたげに耳がゆらゆらと揺れていた。まるで甘え下手な子どものようだ。アダマスは片手をテイルラの頭に乗せ、耳の付け根へと滑らせる。そこを摘まむように弄るとテイルラはくすぐったそうに頭を振った。 「そこ止めろって……」 「言いたいことがあるんだろう? 言ってみろ」 「……、……いっしょに、来て欲しい場所があるんだ」  そう呟いたテイルラの瞳は、ただ真っ直ぐにアダマスを見つめていた。  それから数時間後。アダマスはテイルラと共にミラビリスの町の中にいた。テイルラを外に連れ出すことにはまだ不安があったが、屋敷にいればまたペルナに手を出される危険があった。アダマスの脳裏に、昨晩目撃した二人の姿が蘇り、気づけば二つ返事でテイルラの要望に応じていた。テイルラの目的地にもよるが、どこかで昨日話すことができなかったつがいの話をするチャンスも得られるかもしれないという期待も僅かに抱きつつ、アダマスはテイルラと共に屋敷を出た。  テイルラは町に出るや否や、アダマスが目的地を尋ねる前に「花屋に寄りたい」と告げた。それに従い、まずは花屋へと向かう。そこでテイルラはいつか見かけた日のように、数本の切り花を選び購入していた。買うのならば金を出そうかというアダマスの申し出に、テイルラは静かに首を横に振った。「これは自分のお金で買いたい」。テイルラはそう告げて、自らがシャトンで稼いだ金を使って花束を手にする。花束を大切そうに抱え、「行こう」と一言声をかけたテイルラは花屋を出ていく。アダマスも不思議そうにしている店の主人に向け「また来る」とだけ残し、テイルラの背中を追いかける。  そしてテイルラは花束を手に、次の場所へと向かって行く。その方角はシャトンともリヒテルヴェニアの診療所がある方角とも異なっていた。テイルラは中心街を抜け、住宅街までもを抜けていく。建物どころか人の気配すら無くなっていき、ついには町の端にまで来てしまうがそれでもテイルラは止まらなかった。  眼前に広がるのは、ミラビリスの北東に位置する深い森。整備されていない獣道へと、テイルラは躊躇いなく入って行く。 「おい、どこまで行く気だ」 「嫌なら先に帰る?」 「馬鹿を言うな」 「なら黙ってついてきてよ」  森の中には人の痕跡が少なく、先を進むテイルラを見失えば迷ってしまいそうなほどだった。そもそもテイルラも同じ条件であるはずなのに、テイルラは道が見えているかのように迷いなく森の中を進んでいく。森は途中から山になり、平坦な道から坂道に変わった。時折木の根や軽い砂に足を取られ躓きつつ、比較的安全な道を選んで山を登っていくテイルラを追いかける。途中、道程を振り返ってみると小高い山の斜面からミラビリスの町が見渡せていた。随分と登ってきたらしい。それでもテイルラの足は止まらず、前へ前へと進んでいく。  時間にしてみると一時間もないものであったが、アダマスには半日経ったような疲労が滲んでいた。獣族とはいえど、普段山登りなどしないアダマスには慣れない獣道を歩くことは容易ではなかった。何食わぬ顔で険しい道を進んでいくテイルラを何度も呼び止め、対照的に肩で息を繋ぐアダマスは必死で足を前に進める。その足が止まる瞬間は、前触れなく訪れた。 「ほら、着いたぞ」 「あ?」  不意に、テイルラはそう告げた。アダマスは足元ばかり見ていた視線を、ようやく持ち上げる。周囲はどこをどう見ても明らかに森林に囲まれた森のど真ん中で、一見するとこんなところに目的地があるようには思えなかった。特段目に付く植物があるわけでもないその場所で、テイルラは木々の隙間を指差す。  その指の示す先には、まるで森の中に隠すようにして建っている、廃れたログハウスがあった。 「あれは……」  ログハウスはミラビリスで見かけた家々と比較するとこじんまりとした印象があった。実際、なんとか一家族が暮らせるだろうかという大きさである。アダマスの中で「こんなところに人が住んでいるのか?」と疑問が浮かぶが、ログハウスの様子からすぐにそれは違うと気づく。ここに人は住んではいない。正確には、人が住んでいたというべきだ。少なくとも、現在は人が生活している様子はない。  ログハウスの木材には経年劣化が見られた。こんな森の中で雨風に晒されていたのならば当然ではあるが、その劣化に対して人が手を加えた形跡がなかった。玄関前に積もった落ち葉の様子からしても、この家に数年誰も立ち入っておらず、ここの住民がこの家を離れて数年は経過していることが見て取れる。 「こっちだよ」  テイルラはそのログハウスには入らず、家の側から続いていた小道を進んでいく。そこはここまで道とは異なり、僅かに人が通っていた形跡が残されていた。ログハウスのことも気になるが、今は大人しくテイルラに着いていくことにしてその背中を追いかける。  小道を進んですぐのこと、あれだけ深かった森が終わり、眼前に空が広がる。久しぶりに視界に入る太陽の照らす先には、美しい空色が広がっていた。 「これは……」  その空色は、辺り一面に咲き誇る花の色だった。まるで本物の空を映し込んだような幻想的な光景に、アダマスは思わず言葉を失う。青みがかった白色の花は、鮮やかな花弁を風に揺らしている。その空色の花はアダマスも初めてみる花だった。  まるで地上の空と、そう呼べるような青を揺らめかせる、その花畑の奥。  太陽を背にした崖の手前には、一つの墓標が立っていた。

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