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第36話
ミラビリスの朝は静かだ。空を泳ぐ鳥の群れが会話をする声が僅かに聞こえるだけで、馬車が地を駆る音も、人の声もしない。土地によっては朝早くから家畜の世話をしたり、海に出たり、腐りやすい食物を朝市へ運ぶ商売人たちがいたりと、こんな時間でも慌ただしいこともあった。ミラビリスにも当然そんな人々は存在するが、町の構造上、住宅街が木の枝のように外側に散っているためか、中心部から離れた屋敷の周辺は静かなものだった。
そんな早朝の透き通った空気で満ちた空の下。いつもの静寂を乱すかのように、屋敷の中ではモズとフブキが慌ただしく駆けまわっていた。
それは明け方近くのこと。侯爵家御用達の飛脚が、屋敷に一通の郵便を届けた。本家の紋で封蝋がなされた手紙は、ペルナに宛てられたものだった。飛脚から郵便を受け取ったモズは、急ぎの要件だろうと察し、すぐさまペルナに届けた。それからすぐ、手紙に目を通したペルナは「本宅に帰る」と言い出したのである。
それから、モズとフブキはペルナの帰り支度の手伝いに駆り出された。厩舎からペルナたちが乗ってきた馬車を出し、道中の食事を用意する。眠っていたアダマスも、間もなくその騒ぎに起こされた。騒ぎに、というより実際は耳の良いテイルラが先に目覚め、アダマスを起こしたというのが正しいが。「何かあったのか?」と不安そうにするテイルラを部屋に置いて、アダマスは騒ぎの理由を聞きに行く。ちょうど二階にいたフブキに話を聞き、アダマスは「俺もすぐに行く」とフブキに告げ、一度部屋に戻る。
「ペルナが帰るらしい。俺も見送ってくる」
「帰る? こんな急に?」
「おおかた本宅の方に呼び戻されたのだろう。心配するな」
部屋の中で落ち着きなく音を探るように耳を左右に傾けていたテイルラに事情を聞いて不思議そうに首を傾げる。昨日のペルナの話では、現在当主である父も家を空けているらしいかった。アダマスもこうしてここにいるわけで、現在本宅の方に当主の血縁者が誰もいないということになる。至急の確認事項があるが、責任者がいないため判断できない、ということだろう。アダマスが本宅にいた頃も、多々父がいないからと代わりを依頼されたことがあった。
アダマスは「お前はまだ寝ていろ」と残し、一枚コートを羽織ると部屋を出る。一階まで階段を下り、エントランスを抜け開いたままの扉から屋敷の外に出てみると、すでに馬車はそこに用意されていた。幌のついた馬車を引く芦毛の馬の傍にはペルナが立っている。後部の幌は巻き上げられており、荷台にはすでにいくつか荷物が積み込まれていた。モズとフブキ、それとペルナの従者の姿は見えない。まだ荷積みが終わっていないため、屋敷と馬車を行き来している最中なのだろう。
「随分と急だな」
「まぁね、どこかの誰かが本宅を空けたからその穴を埋めるために忙しいんだよ」
ペルナが吐き捨てる皮肉は無視して、荷台の荷物を確認する。そこには食物の他にミラビリスの職人が作成して小間物が積まれていた。これを積み込むために荷造りに時間がかかっているのだろう。フブキはともかく、モズには重労働だ。手伝いに行こうと屋敷に踵を返すと、不意にペルナが「アダマス」と名を呼んだ。珍しく名を呼ばれたことで、アダマスは素直にペルナを振り返る。その先では、やけに真剣な目をしたペルナがアダマスを見つめていた。
「なんだ」
「少し話がある……けど、ここでは言づらくてね。庭を案内してくれない?」
どうして俺がそんなことを、という言葉をぐっと飲み込む。そうやって蔑ろにしていい様子には見えなかった。気づいた時には実の兄であるアダマスを強く敵視し、事あるごとに賤しむようになっていた。それがペルナだった。こんなに真っ直ぐな瞳を見るのはいつぶりだろうか。
アダマスは「わかった」と一言返し、馬車をすり抜け庭へと歩き出す。ペルナはその背中に大人しくついてきた。ペルナがそこまで他者に聞かれることを拒むということは相当大事な話なのだろうと、アダマスも茶化すことはせず庭の隅へとペルナを案内する。樹木で隠れた角、体が大きい雪豹の獣族である二人でも完全に身を隠すことが可能だった。ペルナは一度屋敷を振り返り、こちらの姿が見えないであろうことを確認すると、改めてアダマスと顔を突き合わせる。
「兄さん、正直に答えてよ。あの混血のこと、どう思ってるの?」
「ッ、……どう、とは?」
咄嗟に表情を取り繕う。少しでも特殊な反応を見せれば、ペルナには見抜かれてしまう。目つきも声色も、変化を見せないように意識するが、ジッとこちらを見るペルナの瞳に、思わずたじろぐ。
「とぼけないでよ。同じ雪豹であるぼくとお前は人族には見分けがつきづらい。だから町の中で随分と声をかけられたよ。『今日はあの子はいっしょではないのですか』ってね」
追及するペルナの瞳から目を逸らす。テイルラと共に市場視察に出向いたことが、こんな形で悪手となるとは思ってもみなかった。通常、屋敷で飼っているスカーレットを仕事に連れ出すようなことはしない。屋敷の中に軟禁しておくことが当たり前なのだ。何も知らないペルナからしてみれば、わざわざスカーレットを連れて出歩く理由など、一つしかない。
「あの混血が身に着けていたリボンといい、やけに気に入っているようだね。……まさかとは思うけど、彼に惚れてるの? 身売りの混血種なんかを娶るなんて言わないよね? そんなことしたら苦しむのは……」
「何の話だ。……確かにここ数日アイツと共に町を回ったが、アレはアイツが望んだからやむなくやったことだ。屋敷に連れ込んでいるのもあくまでフェロモンを利用するためであり、俺からアイツへの特別な感情などは、一切ない」
「そっか、それを聞いて安心したよ」
話はそれだけだよ、と、ペルナは馬車へと戻っていく。軽い足取りは何故か上機嫌にも見える。その背を見送りつつ、アダマスはしばらく陰から動くことができなかった。
嘘など、吐いていない。テイルラを視察に連れて行ったのは、本人が一緒に行きたいとねだったからだ。テイルラを連れ込んだのは、あのフェロモンを利用し、勃起不全を解消するためだ。決して、そこに個人の感情など、ないはずだ。
それなのに、何故、こんなにも息が詰まるのだろう。
「違う……」
テイルラに触れたいと思うのは、彼が混血種という特別なスカーレットだったからだ。彼を甘やかしてしまうのも、喜ぶ顔が見たくなるのも、苦しむ顔を見ていられないのも、全て。
〈でもお前もきっと父さんと同じだ〉
〈オレを屋敷に連れ込んだのって家のためなんだろう?〉
〈オレに優しくしてくれるのも、家のためなんだろ?〉
〈貴族なんてみんなそうだ。目先の愛よりも、家の方が大事なんだ〉
〈邪魔になったら切り捨てるんだ〉
〈そうやってみんなオレのせいにして、逃げるんだ〉
「俺は、そんなつもりは……」
そんなのは言い訳だと分かっている。しかし、アダマスは自分の腹の底に宿った真実を認めるわけにはいかなかった。それを、テイルラへの本当の想いを認めてしまったら。
あの人のように、殺されるのだ。
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