38 / 52

第37話

 まるで水底にまで沈んだような息苦しさから、呼吸がしやすくなるまではそれなりの時間を要した。己の身を覆う黒い侵食から逃れるように日の下に這い出したことで気を落ち着かせる。ようやく屋敷前に戻ったときには荷造りは完成しており、すでに幌も下ろされていた。御者席の方にはペルナの従者がすでに乗り込んでおり、ペルナも身支度を整えてしまっている。 「じゃあ、ぼくらは帰るから。騒がしくして悪かったね」 「あぁ……」 「兄さん、一週間以内に返事を父さん宛に送ってね」 「……そんなことお前に言われずとも分かっている。さっさと帰れ」  ペルナと目を合わせることができず、つい視線を彷徨わせてしまう。すると、逸らした先でこちらを見つめていた従者と目が合った。従者はジッとアダマスを見ると、唐突に目を細め笑みを作る。  瞬間心臓を撫でられるような気味の悪い心地が身を覆う。気づけば即座に目を逸らしていた。いつもペルナの背後に隠れてばかりで、思い返せばこの従者の名前すら聞いたこともなかった。見た目も平凡な人族のなりで、印象に残っていなかったというのもあるが、そもそも屋敷内でほとんど姿を見かけなかった。今さらそんなことに気づいたところで、もう去るのだから意味はないが。  大地の上を車輪が回り、幌馬車が敷地の外へと走り出す。ガラガラと音を立て、荷台を上下に揺らしつつ幌馬車は屋敷の庭を抜けていく。見えなくなるまで見送る、ということをするはずもなく、アダマスは深々と溜息をついて早々に屋敷へと戻る。  ペルナがいたのはほんの二日程度の滞在だったはずなのだが、こんなに気を焼いたのは久しぶりだ。去って早々どっと疲れが押し寄せてくる。 「俺はもう一度寝なおす。お前らも朝早くから苦労をかけた。今日は、正餐は多少遅れても構わないから休め」  モズとフブキにはそれだけ告げ、アダマスは三階の自室へと戻っていく。起き抜けに肉体労働を任せてしまったことで疲労も溜まっているだろう。二人もそう若くはないのだから、無理をして怪我でもさせたら取り返しのつかないことになる可能性もある。  執務室を通り抜け、真っ直ぐ寝室へ向かおうとアダマスは扉に手をかける。そこで、アダマスはドアノブにかけた手を、まるで背後から糸で操られたかのようにぴたりと止める。  無言で手を引いたアダマスは、己の執務机へと首を回す。ほとんど引きずるような重い足取りで机へと向かう。机の前に立ったアダマスは、己を落ち着けるように大きく息を吸う。意を決して最上部の引き出しに指をかけ、そっと手前に引く。  そこには一枚の赤茶けた手紙があった。赤茶、といっても、それは羊皮紙特有の色とは異なる。あちこちに付いたその赤茶は、血の色だ。  アダマスはその血に塗れた手紙を手に取り裏返す。手紙は随分と古く、血もとうの昔に滲んでおり羊皮紙も傷んでいた。それだけ年季が入っていながら、手紙は未開封のままだった。アダマスは机上のペーパーナイフを手に取り、手紙に向ける。刃を立て手を傾け、折り目へ持ち上げる。 「……っ、くそ……」  アダマスの手は、酷く震えていた。ぎりと歯を噛み締め、叩きつけるようにペーパーナイフを机に置く。アダマスは幾度めかの溜息を吐き、汚れた手紙は破れぬように大切に机にしまい、引き出しを閉じる。それから机を離れて寝室へと向かう。  今日も無理だった。いつか読まなければいけないことは分かっている。だが、今日もまた、その勇気は出せなかった。  中で寝ているであろうテイルラを起こさないように、音を立てないよう寝室の扉を開き、摺り足で部屋に入る。カーテンを完全に閉め切った部屋は明朝ながら薄暗い。だがそれでも、アダマスは室内の違和感に気づいた。 「テイルラ……?」  この位置からでも、ベッドの上がもぬけの殻だと分かった、ベッドの上にあったはずの掛け布団が下に落ちてしまっている。足早にベッドに近づきつつ、逸る鼓動を落ち着けようと強引に悪い考えを振り払う。どうせまた一人で抜け出したのだろう。テイルラの悪戯だろうと、どうせ裏にでも隠れているのだろうと、アダマスはベッドへと足を進める。  その足が、何か軽いものを蹴った。  なんだ、と、アダマスは視線を落とす。爪先にあったのは、白く細い紐のような。 「な……、テイルラ、テイルラッ!」  呼吸が、心臓が止まったかのような冷たさが身を覆う。目の前に落ちていたのは、あの日テイルラに与えたリボンだった。  叫ぶように名前を繰り返し、アダマスは部屋を飛び出す。廊下を、客室を、アダマスは手当たり次第に駆け回りテイルラの姿を探す。だが、ペルナに渡していた一等客室の他の客室にも、ペルナと会っているのを見つけた廊下にも、テイルラの行きそうな場所はもちろん、他の客室の中にもその姿はどこにもなかった。  ただならぬアダマスの声に起きてきたモズとフブキも、今日はテイルラの姿は見ていないと返した。二人には「テイルラがいない」と伝えつつ、アダマスは二階の手摺を飛び越え一階に飛び降りる。階段を降りることすら煩わしいほどに、ただならぬ切迫感に駆られていた。  サロンも食堂も厨房も、厩舎すらも探すがどこにもテイルラの姿はなかった。つい先ほどまでは玄関前に全員揃っていた。外に出ることなどできないはずだ。ならばテイルラはどこに消えた?  厩舎からエントランスに向かうと、屋敷内を捜索していたモズとフブキの二人がちょうどその場にいた。二人の物憂げな表情からして、テイルラを見つけられていないだろうことを察する。  アダマスの胸中を、ひりついた感覚が侵していく。まさか、と、震える手を握りしめる。アダマスに過ったのは去り際にペルナの従者が見せたあの不気味な笑み。もう、心当たりがそれしかなかった。 「お前ら、小間物の運び込みは三人でやったのか」 「三人? いえ、フブキと共に二人で搬出致しました」 「その間、あの従者はどこで何をしていた?」 「従者……? ごめんなさい、そこまで気が回らなくて……、いつの間にか馬車に乗り込んでいたけれど、っわ!」  纏っていたコートをフブキへと放る。次いで履物も脱ぎ捨て、アダマスは裸足で屋敷の扉に手をかける。この推測に確証など一切ない。あるのは、本能的な疑念だけ。  だがアダマスは、確信を持って素足を大地に乗せる。 「アダマス様」 「モズ、悪いが止めても聞かんぞ」 「いえ、そうではなく。できる限りすぐさま馬を手配します。ですので、帰りのことはご心配なく」 「ふっ……、あぁ、頼んだ」  返事の直後、アダマスは足の爪を立て、弾くように大地を蹴る。馬車の時速はせいぜい七マイル。瞬間的な速さは豹の血を引くアダマスと比べ物にもならない。だが、馬車が屋敷を出て時間が経っている。問題は持久力。追いつくまで、足が持つか。  ——いや、追いつくまで、テイルラをこの手に取り戻すまで、止まるものか。  大地を駆け抜ける雪豹、その研ぎ澄まされた気迫は、本物の獣の狩りと見紛うほどのものだった。

ともだちにシェアしよう!