39 / 52

第38話

 白銀の風が一閃、ミラビリスを飛び出したその頃。  星空の瞳は、額を何か固いものにぶつけた痛みによってその紺碧を覗かせる。瞼をぱちぱちと瞬かせ、テイルラの思考は徐々に覚醒していく。次の瞬間、テイルラの胸中で芽生えたのは言いようのない恐怖と焦燥だった。  目覚めたテイルラは胸の前で両手を縛られていた。咄嗟に声をあげようとするが、口には轡を食ませられており唸るような声しか出すことができない。そんな状態で、テイルラはどこか真っ暗で身動きが取れない場所に閉じ込められていた。  幸い足は拘束されてはいなかったが、立ち上がることすら叶わず、足の自由は意味を成さない。僅かに手足を動かしただけで、肩や膝などあちこちが壁にぶつかる。体を起こすことはもちろん、足を伸ばすことすら叶わない。随分と狭い空間に閉じ込められているようだ。下にしている右半身には、目覚めた瞬間から絶えず振動が伝わってきていた。小さな揺れの中で、時折体が跳ねるような大きな揺れもある。  だが、それだけで自分の身に何が起きているのか判別することは難しく、委縮した胸が不安で覆われていく。ここはどこなのかと、せめて場所を探ろうとテイルラは耳を澄まし優れた己の聴力を利用する。聞こえる音はガラガラというような知らない音。その音に紛れて、人の声がテイルラの耳に流れてくる。 「……本当に良かったのかな。今からでも、戻った方が……」 「何を弱気になる必要があるのです? 我らはあの屋敷から商品を預かってきただけ、違いますか?」 「…………」 「ペルナ様、貴方は兄君と違って優秀な商人のはずだ。あんな商品を見落とすはずがない。それに……兄君がつがいを作れるようになってしまったら、最も困るのは貴方でしょう。そのためにはアレは排除しなければならない。違いますか?」 「いや、……違わない。そうだ、そうだよね。これでいいんだ。これで、クリスも侯爵家もみんな……」  聞こえてきた声は、決して大きなものではなく集中していなければ聞き落としてしまいそうなほどの声量だった。それでも、テイルラがその声の主を特定するには十分なもの。傍で交わされているこの声は、テイルラが知っている声で間違いなかった。特定するのと同時に、テイルラはその声の主の姿を浮かべる。浮かんだ影は、テイルラに直前の出来事を思い出させた。  あの後、アダマスが見送りに行くと出ていった後のことだ。言われた通りに大人しく寝室でアダマスを待っていたテイルラの前に、従者の男が現れたのだった。男は別れの挨拶をしに来たにしては様子がおかしく、テイルラは思わず掛け布団を抱き寄せ、身を隠すような素振りを見せた。そんなテイルラに対し、男は無言で懐からハンカチを取り出した。  身の危険を感じたテイルラは、咄嗟にベッドから降り、男の隣をすり抜けアダマスを追いかけようとした。だが、男は素早くテイルラの腕を掴むと、容赦なくハンカチをテイルラの顔にあて鼻と口を塞いだのである。  襲う刺激臭に、テイルラは反射的に男を突き飛ばす。「いやだ」「やめろ」「触るな」、そう叫びながら床を這って、咄嗟にベッドの上から掛け布団を男に投げつけるが、そんなものは難なく投げ捨てられる。テイルラは己が可能な精一杯の抵抗をしたつもりだった。本来なら人族の男一人程度に負けるほど貧弱ではないはず。だが、テイルラの身体は末端からじわじわと痺れに侵食されていっていた。あの刺激臭のせいであることくらい察せていた。  男はそんなテイルラに馬乗りになると、狂気的な笑みを見せた。それから、すでに指一つ動かなくなりつつあるテイルラの顔に、あのハンカチをもう一度押し付けた。それが、ここで目覚める前の最後の記憶だった。  聞こえてくる会話の内容、それと自分の中にある記憶。それらを噛み合わせて導き出される答え。すべてを察したテイルラは、無意識に震えてしまう体を抑え込むように強く身を丸め、縛られている手で両耳を握る。  ——落ち着け、落ち着かないと、怯えている場合なんかじゃない。  テイルラは何度もそう繰り返し、自分に言い聞かせる。あれからどれくらいの時間が経っているのかは分からない。だが、今すぐに逃げ出せばまだ間に合うかもしれない。それに賭けるしかない。そうでないと、ここで逃げないと、売られる。  テイルラは自分の身に迫った絶望によって震える呼吸を必死で整える。落ち着いて、テイルラはまず前後左右の壁に順番に足や手を当ててみる。力を籠めてみると、その中で一面だけ力を籠めると壁が浮くような感覚があった。ここだ、と。テイルラはその一面を思い切り蹴りつける。 「な! 今の音は……」 「あぁ、起きてしまいましたか」  テイルラの強い蹴りによって、壁の一面は吹っ飛んでいった。それは壁、ではなく木板だった。周囲が明るくなったことによって、テイルラはようやく自分が木箱の中に閉じ込められていたことを知る。周囲には同じような木箱が複数ある。それを覆うのは白い布。テイルラはその場を一瞬テントかと勘違うが、声のした方角を見てみるとそこにはこちらを見る二人と共に馬の後ろ姿が見え、この場が馬車の荷台であると理解する。口を覆っていた麻布に縛られたままの両手を触れさせ、強引に轡を外し首に下ろす。  御者席にいた二人の姿は、テイルラが声を聞き取った二人に間違いなかった。怯えていることが見抜かれないように、テイルラは精一杯の虚勢を張る。ギラリと鋭い目付きで二人を睨み付けつつ、ようやく解放した口から音を出す。 「……なんのつもりだよ、どこに連れていく気だ」 「何って、商品を積み込んだだけだよ。知ってる? アルルカンド国では表向きには奴隷商は禁止されているけどね、そんなの便宜上のものだよ。人間は金になる。養子、なんて都合のいい言葉を使って、買いたがるヤツなんていくらでもいる。その中で最も需要が高いのが珍しい混血種。その次は見目麗しいスカーレット。それら両方を併せ持った周囲から一目置かれる珍種、お前は相当の値がつくよ。下手すりゃ都市の一つや二つ買えるんじゃない?」 「そんなこと知るかよ! 馬車を止めろ! オレはミラビリスに帰る!」 「帰すわけないでしょ、屋敷で伝えたはずだよね? お前が邪魔なんだよ」  御者席を立ちあがったペルナはテイルラの目の前で膝を折る。冷えた瞳が、テイルラを見下していた。ヒュッと息を呑み、呼吸すら震えそうになってしまうのを必死に堪える。自分が珍種であることくらい、痛いくらい理解している。だが、アダマスは今日までそんなこと一言も言わなかった。「売る」なんて、そんな素振り見せなかった。だから、警戒を怠っていたのかもしれない。 「安心しなよ、ちゃんと可愛がってくれる人に売ってやるから。……あぁ、それともぼくが飼ってあげようか」 「ッ、ふざけるな! そんなの、アイツが許すはず、」 「アイツ? まさかアダマスが助けに来てくれるとでも?」 「アダムは、アイツはきっと……」 「健気だねぇ。でも、それ以上に愚かだ。強引にアダマスに付いて回ってたんだって? アイツ迷惑そうだったよ。お前はね、利用されるためだけにあの屋敷に連れ込まれたんだよ。お前は誰でも良かったのかもしれないけどね。そんなに欲求不満なの? さっきからずっと香ってるよ」 「違う! これは、勝手に……」 「あぁ、もしかして。惚れてたのはお前の方?」 「——ッ、あ」  違うと、声が出なかった。否定しないといけないのに。言葉は音にならなかった。自分の気持ちに、嘘が吐けなかった。  固まるテイルラを尻目に、ペルナは緩く目を細める。荷台に満ちたテイルラのフェロモンの香り。それは熟れに熟れた花の蜜のような誘う香り。本能にまで届く甘ったるい香りは、ペルナの欲を呼んでくる。

ともだちにシェアしよう!