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第39話

 ペルナの言葉で動揺していたテイルラは、自分を見つめるペルナの視線の色が変わったことに気づかない。伏せ目がちに睫を下げ、垂れた耳を揺らす姿。その輪郭が、ペルナにとって色を纏ったものに変わっていく。 「へ、っ……、んんッ!」  唐突に大きな影が、テイルラを覆う。見下ろす据わった瞳に獣を見たテイルラはハッと息を呑むが遅く、甘い蜜に食らいつくように、ペルナはテイルラの赤い果実を食んでいた。力任せに後頭部を抑えつけ、首を振って逃げようとするテイルラと深く口付ける。テイルラは縛られた両腕でペルナの胸を叩き、動きが制限されていながら全身で抵抗していた。するとそれが煩わしかったのか、ペルナは一度口を離す。その瞬間を見計らって、テイルラは体を転がしペルナから距離を取ろうとする。  その必死の抵抗も空しく、ペルナは荷台を逃げ惑うテイルラを腕を取り体を仰向けに返す。そうしてテイルラの片足に体重をかけ身動きを封じると、ペルナは容赦なく衣服をたくし上げ素肌に手を伸ばす。 「うぁッ! ひ……、いやだッ、触るなッ!」 「アイツにはたっぷりご奉仕したくせに? いいじゃん、具合良かったら本当にぼくが飼ってあげるよ」 「……っ、お前、他に好きなやついるんだろ! オレはそいつの代わりには……」 「代わり? 自惚れるなよ、そんなんじゃない。……あぁ、そうだ。ちょうどいいから教えてあげるよ。アダマスにはね、クリスっていうスカーレットの許嫁がいるんだ」 「……いい、なずけ?」  都合の良い口から出まかせだと、そう思いたかった。貴族のあれこれに精通していないテイルラでも許嫁という言葉の意味くらい知っていた。  ——でも、だって。  あの時、机上で手紙を見つけた日、アダマスは「恋人ではない」と、そう言った。歯切れは確かに悪かった。すぐさま否定してはくれなかった。そんな違和こそあったが、それでも否定していた。そのはずだった。 「お前はクリスと婚約するために利用されてたんだよ。いいよこの際認めてあげる。ぼくは確かにクリスが好きだ。でもお前がアダマスに余計なことをしたら、アイツはクリスと婚約してしまう。だから、お前が邪魔なんだよ」 「…………」 「アイツには、何も渡さない。クリスも、家も、お前も。……大丈夫、たくさん気持ちよくしてあげるよ。もう二度と、アダマスの元になんか帰りたいと思わないくらい」 「ぅ……、っ!」  大きな手のひらが足を左右に開かせ、するりと内腿を撫でていく。囁かれる声音から、テイルラはペルナが本気であると本能的に察する。ペルナは本気でこのまま誘拐するつもりであり、本気でこの場で抱こうとしている。  ——逃げないと。  アダマスに将来が約束した相手がいること。その相手と結ばれるために自分は取り込まれたこと。結局、本当に自分に尽くしてくれたのは「家」のためであった。その事実は縄となり、テイルラの首を絞めた。息苦しくて、胸の奥が痛い。  分かっていたはずなのに、どうしてこんなに苦しいのか。アダマスは何故嘘を吐いたりしたのか。何もかもが分からなかった。だけど、それでも。  ——ここから、逃げなきゃ。  思考を放棄しそうになる頭の中で、テイルラは何度も繰り返す。  しかしその最中も、ペルナの指先が奥まったところへ伸びていく。アダマスと眠るから平気だろうと薄手の寝着一枚しか纏っていないことが仇となった。 「い、やだッ、やめろ! 触るな!」 「あ、そうだ。まだ調教されてないんだったね。どこから躾けようか、口がいい? それともここ?」 「ぃッ……、ぁ、いや、いやだ……! だれか……」 「誰も来ないよ。ほら、濡らさないと裂けるよ」  指先が強引に秘孔を押し開いていく。それはまだ浅いところで止まっているが、まだその気にもなっておらず、潤滑油も用いていない状態で、テイルラには痛みしか襲わない。体内に他人の体温を感じる。それは首を左右に振るうテイルラを嘲笑うように徐々に奥へと進んでいく。  今すぐにでもペルナを蹴り飛ばすか、突き飛ばすかしてやることは簡単だった。テイルラは人族ではなく、混血だ。獣族と対等に渡り合えるだけの身体能力は秘めている。だがここで抵抗したところでどうなる。たった一撃ペルナに反抗したところで、逃げ場のない馬車の上ではまた押さえ込まれるのが関の山だ。だがもはや尻込みしている時間はなかった。テイルラはこの場から逃げ出す算段を必死で探す。  そんなときだった。テイルラは荷台に散った耳を微かに跳ねさせる。遠くの音もよく拾う、父親譲りの兎の耳。聞こえるのは、地を駆り回転する車輪の音。それと。  やるしかないと、テイルラは自らを奮い立たせ、強く歯を食いしばる。直後、テイルラは勢いよく体を起こしペルナに頭突きを見舞う。 「ぅぐ……ッ! こ、の……!」  テイルラの額はペルナの鼻頭に強い衝撃を与える。脳にまで届く衝撃は、ペルナを十分に怯ませた。反射的に指を抜いたペルナは血を零す鼻に手を持っていく。低い声をあげるペルナの下から這い出し、テイルラは身を翻しながら両足に力を籠め立ち上がり荷台の最奥へと足を走らせる。縛られたままの手で幌の端を開き、身を乗り出す。 「——ぁ、」  幌を開いた先に見えた光景に、テイルラは思わず、足を止めてしまう。想定していたよりも速度が出ている。所々で岩肌が露出し、凹凸している地面が眼下を勢いよく流れていく。それらはまだテイルラの想定内だった。叩きつけられることに対する恐怖はあるが、その程度ならば歯を食いしばる。  テイルラの足を止めたのは、視界の右側に広がる崖だった。  馬車は山中を走っている。左側には山肌が壁を作っているが、右側は完全な崖になっていた。急な斜面は底が見えない。左の壁側に転がることができれば良いが、テイルラは今手の自由が利かない。もしも、右手側に転がったならば。 「待て!」  ペルナの叫ぶ声がする。躊躇している時間はない。思い切って、左側に山肌にぶつかる勢いで飛ぶしかない。崖から落ちるのよりは何倍もマシだ。覚悟を決めて両足に力を籠める。 「ッ!? うぁッ!」  瞬間、後ろから伸びてきた手が風になびいていたテイルラの耳を思い切り引っ張った。急な痛みにテイルラはすぐさま後ろを振り返る。背後に立っていたのはペルナではなかった。 「え、」  直後、テイルラは背中を突き飛ばされる。瞳に映るのは荷台に立つ一人の男が歪に笑いながら言葉を紡ぐ様。従者の男は、ただ一言、「死ね」とだけテイルラに告げた。  すべての動きが遅くなったような感覚。体が宙を舞っている。しっかりと踏み切ることができなかったテイルラは当然受け身の体勢も整えていない。このまま落ちればもろに落下の衝撃が襲う。そしてもし崖から落ちてしまったなら。テイルラの脳裏では、「死」というただその現実が牙を剥く。  しかし、テイルラの身が宙に舞う様を見ていたのは、従者のみではなかった。テイルラが先ほど聞き分けた音。車輪の音に半ばかき消されながらも確かに聞こえた、足音。 「地面を蹴れッ! テイルラッ!」  咆哮と同時に、テイルラは反射的に体を動かしていた。考えている時間などなかった。  体が地面に付く直前、テイルラは咄嗟に足を差し出し、体より先に右足を落とす。その素足が地面に触れる時、テイルラは足を襲う衝撃と激痛に歯を食いしばり、地を踏み切った。その悪足掻きが稼げる時間は僅かな時間。だが、その時間は後方から伸ばされる手がテイルラを受け止めるのには十分な時間だった。  テイルラの身体は真白い腕に受け止められる。腕は素早くテイルラを守るように抱き締め、受け止めた反動で後ろに吹っ飛び地面に叩きつけられる衝撃を、残った勢いで地面を転がる痛みを、代わりに請け負った。固い地面を転がった二人は、山壁にぶつかりようやく止まる。 「っ、ぅ、テイルラ、生きてるか?」 「…………、」 「テイルラ? おい、どうした、どこか痛むか?」 「全身痛いに決まってるだろ。……いや、オレ混血で良かったって、初めて思ったなって」  テイルラの右足は悲鳴をあげていた。間違いなく足の裏は出血しているし、この痛みは骨にまで届いている。本能的にしばらく立ち上がれないと分かる。だが、それだけで済んだのだ。あの状況で地面を蹴るなんて芸当、テイルラが人族であったならば不可能だった。突いた足からそのまま地を転がっていただろう。右足は悲惨なものであるし、のたうったことで全身痛むが、生きている。それは、身体能力の高い混血種であったお陰だ。 「……ん、アダム? ぅぐ……、なんだよ、痛いって」 「テイルラ、」  無事で良かった。  アダマスの声は、震えていた。テイルラを抱く腕は強く、指先が緩やかに頭を、髪を、耳を撫でていく。その指先の心地よさに、テイルラは思わず唇を噛む。ほんの数時間前までは、この温かくて大きな手を無条件に信じていた。だが、今は。  ようやく取り戻した温もりを前に、張り詰めていた緊張の糸が切れたアダマスは、テイルラの変化に気づけない。テイルラと同様に、衝撃を受け止めたことによる体の痛みと、久方振りに全速力で駆け抜け、体力の限界も超越したことによる疲労で足が動かなかった。  数分後。アダマスの後を追ってきたモズが二頭の馬を引き連れて現れる。足を負傷しているテイルラはアダマスの前に乗せることにし、二人は屋敷へと帰っていく。  その後、ペルナと従者を乗せた幌馬車が引き返してくることはなかった。

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