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第40話

 シンと静まり返った空間にただ蝋の溶けた香りが満ちていく。汗を流す蝋燭の背は低い。いつの間にか相当の時間が経過していたようだ。  静かな空間に、ギィと木の軋む音が鳴る。手にしていたペンを置いたアダマスは、数時間前から全く減っていない書類を前に深く息を吐き出した。もう夜も更けている。時間も仕事も忘れるほど物思いに耽るなんて、いつぶりだろうか。アダマスはとうにインクの乾ききった書類の上に両肘を突いて指を組み、その上にゴツンと額をぶつける。  早朝のあの一件から無事にテイルラを屋敷まで連れ戻した後のこと。屋敷に着く頃にはすでにフブキがリヒテルヴェニアを呼んでおり、そのままテイルラの足の傷を診せることになった。テイルラをアダマスの寝室へと運ぶと、リヒテルヴェニアに「処置をする間は部屋を空けていて欲しい」と告げられた。同席したい気持ちは山々だったが、珍しく真剣な様子のリヒテルヴェニアにそう言われては押し切ることが出来なかった。  それでも処置を任せている間は昂った気分が落ち着かず、大人しく待っていることなどできるはずもなかった。無性に気が立って黙っていられず、何度部屋に入ろうと考えたことか分からない。リヒテルヴェニアに同行してきていたアーティが、そわそわと屋敷内をぐるぐると回り続けるアダマスを見かねてハーブティーを淹れるまで、足は止まらなかった。それはまるで何かに取り憑かれたかのようなもので、まるで自分が自分で無くなるかのような、そんな浮遊感すらあった。  ハーブティーを飲み終える頃に、リヒテルヴェニアは治療の完了を告げに現れた。すぐさま部屋に向かうと、テイルラはそのままベッドの上で眠ってしまっていた。深く寝入っているようで、音に敏感なテイルラには珍しくアダマスが部屋に入る物音にも身動ぎ一つしなかった。  リヒテルヴェニア曰く、精神的な疲弊が大きく限界だったのだろうとのことだった。テイルラは僅かな時間の間に拉致され、その上殺されかけたのだ。精神を消耗するのも当然だった。純白のシーツに埋もれて寝息を立てるテイルラは、アダマスがすぐ目の前まで近づいてもピクリとも反応しない。枕を抱き締め、鼻を埋めて眠るその姿はあどけない子どものようでもあるが、その表情には僅かに苦悩が滲んでいた。  屋敷に戻るまでの間の馬上でも、テイルラは相当落ち込んでいる様子だった。表情が暗く、視線が終始伏せられていた。多少アダマスを避けるような仕草すら見られたことからすると、間違いなくペルナに何か唆されたのだろう。何を言われたのか、それはテイルラにしか分からない。もし騙されているのなら誤解を解きたいところなのだが、テイルラは治療中リヒテルヴェニアの問いかけにも返事をしなかったということだった。  普段のリヒテルヴェニアならば、もしテイルラから話を聞けていたなら何かしら匂わせるはずだった。今日までリヒテルヴェニアと接してきて、彼がそういう回りくどい性格であるということは知っていた。しかしテイルラの治療後、リヒテルヴェニアの表情はアダマスにも分かるほど曇っていた。それは初めて見る表情で、彼も彼なりにテイルラのことを思っていることが窺えた。だがそれは同時に、リヒテルヴェニアにも不安があることを示している。  リヒテルヴェニア相手になら、テイルラは何でも話すと勝手に思っていた。だからこそ、リヒテルヴェニアは二人きりになったのだとも思っていた。しかし、テイルラはリヒテルヴェニアにも相談しなかった。ペルナはテイルラに何を言ったのか、何をしたのか。そんな疑問が頭から離れない。  あれからテイルラは寝室で眠り続けていた。テイルラがいつ目覚めても構わないよう、アダマスもまた執務室に籠りきっていた。アダマスは固くなった体を解すように両手を上げ伸びをする。  ふと振り返った窓の外はすでに日が落ち、漆黒が空を包んでいた。  今宵は雲が厚い。月も星も姿を隠しているため、いつもより室内も暗い。この様子では、もうじき雨が降り出すだろう。もしかするとミラビリスの一部ではすでに降り出しているかもしれない。  アダマスはつと視線を滑らせ、机上へと向ける。机の片隅に置かれた小瓶。中には白い粉末が詰められていた。  それは、ペルナから預かったもの。スカーレットに対してのみ効果のある薬。  ——強制発情薬。  つがいについてペルナから聞いた時に、同時に預かった代物だった。ペルナはただ薬について説明するのみで、誰に使えと具体的には言わなかった。直前に話の内容から察するにクリスに使えという意で渡したのであろうことは想像に容易い。しかし、あれから数日経った今日でも、アダマスにクリスをつがいにしようという気持ちは芽生えなかった。  クリスは、侯爵家縁戚の白虎のスカーレットである。血統を重要視する家の人間たちが勝手に決め、勝手に用意したアダマスの、所謂「許嫁」、というやつだった。そうやって親に決められた婚姻ではあるもののクリスの方はどうやらまんざらでもないようで、将来の関係を拒む様子はなかった。ただ一人、その婚姻を拒んだのは他でもないアダマスだった。  つがいというものを知ったその瞬間から、今この時まで。脳裏を過るものは変わらない。ゆらりと揺れる赤褐色と、豊かな喜怒哀楽を見せる星空。手に入れたいものは、ただ一人。  ——テイルラが、欲しい。  ただ、それだけだった。  実際のところ、テイルラは混血種という特異な存在であるため、スカーレットと言ってもつがいを作れない可能性もある。だが、もしテイルラも純血と同じくつがいを作ることが出来るのならば。  今朝テイルラが消えたあの瞬間から今まで、何故ペルナがテイルラを拉致するような真似をしていたのか考えていた。ただのアダマスへの当てつけだという可能性は十二分にある。実際、そういう感情も少なからずあっただろう。だがそれ以上に、もしペルナはテイルラに対して特別な感情を抱いていたとしたら。当人を捕まえて聞くことが出来れば良かったが、それは叶わなかった。そのため真実を知ることはできない。だが。  アダマスの心中で、記憶が鮮明にフラッシュバックする。それは、屋敷の廊下で見たあの光景。ペルナがテイルラの唇を奪っていたあの日の記憶。  ——ペルナは俺からテイルラを奪おうとした?  だからテイルラに手を出した? 強引に触れるような真似をした? クリスに意識が向かうように仕向けた? この手から連れ去ろうとした?  沸々と、何かがアダマスの中で目を覚ます。急速に神経が研ぎ澄まされていく。  テイルラは誰のものだ。  ——違う、まだ誰のものでもない。  アダマスはゆらりと椅子から立ち上がると、小瓶を手に取る。いつの間にか降り出した雨が窓を叩く音に足音を紛らわせて、寝室へと向かう。丸く膨らんだベッドが部屋の真ん中にある。アダマスの足は迷うことなくそちらへと向かっていく。

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