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第42話
空を泳ぐ鳥の群れがぴーぴーと甲高い声で囀っている。まるで牙を無くし呆けた獣を笑っているようだ。積もりに積もった書類の山は、もう間もなく雪崩を起こすだろう。いい加減に手を付けなければ手に負えなくなる。いや、しかしここ数日朝市の市場視察もできていない。そろそろ顔を出して様子を見なければ、需要と供給のバランスが成立しているかの確認ができない。
雲一つない快晴の青空。視察には持って来いの天候。今頃市場は賑わっている時間。動かなければいけないのは分かっている。分かっているが、アダマスの足は動かない。今日もまた、ぼんやりと腑抜けた顔で空を見上げるばかりだった。
あの日から、三日が過ぎた。あの日、深夜に屋敷を飛び出したテイルラが戻ってくることはなかった。当然のことだ。テイルラが部屋から消えたことでようやく我に返ったアダマスは、その日の己の行動の異常さに気づいた。己が言動を省みた時、初めて自分がテイルラを強姦しようとしていたことを知ったのだ。身勝手だと言われても仕方ない。実際、その通りだったのだから。
あんなことをした以上、二度とテイルラはアダマスの元には帰らない。どれだけ詫びようと、許されはしないだろう。あの日アダマスはそれだけのことをしたのだから。
そうしてアダマスが行き着いた結論は、テイルラのことを忘れることだった。あの凛とした声を、揺れる赤褐色を、花のような笑みを、胸の奥まで温める体温を、酔うほどの甘い香りを、美しい星空の瞳を。忘れてしまおう。三日間、アダマスはただそれだけを考えていた。仕事に没頭して、テイルラのことを考える間など無くしてしまおうと、そう考えていたのに。その考えがうまくいっていない証拠が、アダマスの目の前に積まれている。
こんなに忘れようとしているのに。星空を見上げる度に、あの瞳が過る。喜怒哀楽だけでなくて、それ以上の深い感情さえも素直に映し出したあの瞳が。最後に見せた、涙が。焼き付いて離れない。
テイルラはあの日、無事に帰ることができたのだろうか。足を怪我していて、薬を盛られていて、その上豪雨に見舞われ、怪我なくシャトンまで辿り着いたのだろうか。心配したところで、アダマスにそれを知る術はない。テイルラとあんな別れ方をした以上、リヒテルヴェニアにもイオルバにも合わせる顔がなく、診療所にもシャトンにも顔を出せていないアダマスにテイルラの現状を知る術はなかった。
ただ無事を願って屋敷に引き籠ったアダマスは、あの日以降空の下には出ていない。ただ毎日、毎晩、こうして魂の抜けた顔で窓から空を眺めるばかりの日々。屋敷内に残っていたテイルラのフェロモンに香は日に日に薄くなっていく。もうじきすっかり消え失せるだろう。その日まで、こうしていよう。あの香りが惑わせたのだ。あの香りが、すべて。
「アダマス様」
ふと、執務室の扉が軽く二度ノックされる。扉越しに聞こえた声はモズのものだった。アダマスは椅子に凭れたまま「どうした」と一言返事をする。
「お客様です。アダマス様と話がしたいと」
「客? 商人なら忙しいとでも言って追い返せ」
「いえ、お医者様です。リヒテルヴェニア・アルモンド医師が来られています」
「っ……、リヒテルヴェニア?」
思わぬ名に、アダマスは姿勢を正す。リヒテルヴェニアからの話など、悪い話しか思い当たらない。テイルラに何かあったのか、もしくはテイルラがシャトンに帰った理由を問いただしに来たのか。良くない心当たりならいくらでもある。
「……追い返せ」
「しかし、」
「話すことなどない。帰らせろ」
話をする気にはなれなかった。そんな気力はなかったというべきか。リヒテルヴェニアのこと、どうせ話す内容はテイルラのことに違いない。だが生憎とテイルラのことは忘れることにしたのだ。アダマスから話すことなど、もう何もない。
扉の向こうは静かになる。モズは去ったものと、アダマスが深々と溜息をついたその直後。
「ッ!? な、お前……ッ」
「悪いが俺には話すことがあンだよ。臆病な貴族サマよォ」
執務室の扉が勢いよく開かれ、アダマスが肩を跳ねさせるのも束の間。堂々とした足取りで室内に立ち入ったのはリヒテルヴェニアだった。リヒテルヴェニアは執務室に入るや否や、室内全体を軽く見まわし、机上に溜まった書類の山を目に留め、軽く目を細める。
「……何の用だ」
「だから話があるつってンだろ」
リヒテルヴェニアはチラと自らが入ってきた扉の方へ視線を送る。すると部屋の外に待機していたモズが僅かに頷き、扉を閉じた。コツコツと、モズが去っていく足音が聞こえる。その音が聞こえなくなる頃、リヒテルヴェニアは執務机の前に立つとアダマスをジッと見下ろした。
「お前、アイツをつがいにしようとしたらしいじゃねェか。しかも怪我人に薬盛って、合意なしにレイプしようとしたとか? 大層な身分だな」
「なんだ、説教でもしに来たつもりか?」
「は、そんなんじゃねェ。で? 事実なのか?」
「あぁ、……そんなこともあったな」
「……あ?」
「もう、過ぎた話だ」
リヒテルヴェニアの鋭い視線と向き合えず、アダマスはわざらしくそっぽを向いて誤魔化す。口調こそいつもの気だるげなものだが、リヒテルヴェニアの言葉の端々は荒さが滲んでいる。まるで今にも声を荒らげそうなのを押さえ込んでいるようだ。リヒテルヴェニアは随分とテイルラを「大切」にしていたようであったことからすると、アダマスの行為に憤っているのだろう。
自らを嘲笑うように頬を吊り上げるアダマスを前に、リヒテルヴェニアは突如両手で机を叩きつける。次いでリヒテルヴェニアは机越しにアダマスの胸ぐらに手を伸ばし、力任せにアダマスの体を引き付ける。
「ふざけるなよ? その程度の覚悟でテイルラを噛もうとしたのか? その程度で諦めきれる安い気持ちでテイルラの一生を奪おうとしたのか?」
「……、さぁな、」
「ッ、答えろ! 思い通りにならなきゃ『はいさよなら』ってか? アイツのこと都合の良い性欲処理道具だとでも思ってたのか?」
「なっ……! そんなに大切ならお前がつがいになってやればいいだろう! テイルラもお前ならば受け入れる!」
「俺は……、俺は……ッ!」
激しい剣幕でがなり立てていたリヒテルヴェニアの勢いが怯む。あれだけ冷静で、かつ余裕のある振る舞いを見せていたリヒテルヴェニアがここまで感情的になるとは、余程テイルラのことを思っていたらしい。それなら、リヒテルヴェニアがテイルラを奪えばいい。アダマスに浮かぶのは、テイルラがいつか見せた穏やかな笑み。テイルラは間違いなくこの医者を心から信用していた。
しかし、リヒテルヴェニアの表情は見る見る歪んでいく。瞳に影を落とし込んだリヒテルヴェニアは、苦しげに言葉を吐き出す。
「っ、……っおれには、できない」
「どういう意味だ。……気づいてるぞ、お前がテイルラに向ける視線は明らかにただの医者と患者の関係を越えている。お前も、本当はあいつを我が物にしたいんじゃないのか」
フッ、と嘲笑を零したのは、リヒテルヴェニアの方だった。低く嘲笑うリヒテルヴェニアに、アダマスは「何が可笑しい」と眉を顰める。
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