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第44話
「家族が出来たと言っていた。妻と子どもと、遠くに引っ越すと。当時の俺はそれに何の疑問も持たなかった。だが、それは侯爵家が認めていない婚約で、あの人は強引に押しきって爵位を捨てようとしていたらしい。その人が家を発つ日、俺は周りの大人に言われるがままに、別れの挨拶のためにあの人を呼び出した。利用されていることも知らず、馬鹿正直に。……物陰に潜んでいた同族の手であの人は撃ち抜かれた。目の前が鮮血に染まった光景は、今でも覚えている」
瞼を閉じると、目の裏を焼いた赤が視界を埋めるようだった。驚愕で見開かれた瞳が歪んで、膝から崩れ落ち、床に倒れ伏した。何度も忘れようとした。だが、消えなかった。忘れようとするたびに、これはお前の罪だとでも言うように何度も夢に現れた。
「これはその時、あの人が死の間際に最後の力を振り絞って俺に託した手紙だ」
「……中身は」
「見たことはない。……これを見ると駄目だ。目の前が赤くなり、手が震えて仕方ない」
これまでにも何度も自らを奮い立たせて来た。この手紙はアダマスに託された、あの獣族の最後の言葉である。責任持って、中を確認しなければならないことは分かっている。それでも、封を開けようとする手は動かなかった。
「俺はそれから誓ったのだ。あんな結末を辿るくらいなら、俺は誰も愛さないと。あんな選択をするような貴族の一部になど、ならないと」
「……なるほどな」
あの日から、アダマスは愛を捨てた。そうしなければ、あの人と同じように殺されると知ったから。だから愛してはいけないのだ。例えそれが苦しかろうと、辛かろうと、認めてはならない。そうしてアダマスは己の感情を飲み込んだ。愛も性も、拒み続けた。
同時にアダマスは、貴族を嫌った。貴族である、自分を嫌った。愛する人を残して死んだあの人が、もし貴族ではなかったら。今頃家族と幸せに生きていただろう。貴族だったせいで、あの人は死んだ。「貴族」という生き方に、殺されたのだ。
——そうだ。だから、あの人が死んだのは、俺のせいじゃない。
例えあの日アダマスが呼び出さずとも、あの人は殺されていた。だから、あの死は自分のせいではないと、幼い頃から繰り返した。そうしなければ耐えられなかった。責任転嫁と言われようと、臆病者と言われようと、そうやっていつも逃れてきた。本心を飲み込んで、侯爵家という残酷な場所で、擬態してきた。
それが、アダマス・ヴェルデマキナという男の生き方だった。
「誰も愛さない、か。それならお前はどうしてテイルラを屋敷に誘った?」
「っ、それ、は」
それは、テイルラに触れてみたかったから。もっと、テイルラを知りたかったから。
いや、違う。
「あれは、アイツが混血のスカーレットとかいう特別な存在だったから、そのせいで」
「まだ言うか。いい加減に認めろよ、お前はアイツが混血だったから惚れたのか? スカーレットだったから抱いたのか? 違うだろ、なぁっ、アダマスッ! 過去に何があったのかなんて関係ねぇ、そんな言い訳で逃げるな、人を愛することから逃げるなッ! 臆病者!」
もう、言葉は出なかった。リヒテルヴェニアがすべて言ってくれたからだろうか。
——そうだ。その通りだ。俺はずっと、逃げてきた。あの日のことを言い訳に、貴族という在り方からも、誰かを愛することからも、逃げてきた。侯爵家のためなんて、生殖能力なんて、最初からどうでもよかった。俺はただ、テイルラに近づきたかった。
確かに、最初惹かれたのは彼が纏ったフェロモンにだったのかもしれない。混血のスカーレットに惹かれ、抱きたいと強く思ったのかもしれない。それでも、次に会った時、本当はどうでも良かった生殖能力の向上を言い訳にして、テイルラを誘ったのは。あの日、初めてテイルラを抱いたのは。テイルラが混血種だったからでも、スカーレットだったからでもなくて。
——テイルラのことが、好きだったから。
「なぁ、アダマス。テイルラはいつか俺にこう言ったんだ。『アダムには人を愛する勇気はない』ってな。……お前がそのまま変わる気がないならテイルラにはもう近づくな。もし変わる気があるなら、この俺の期待に応えて見せろ。……俺はお前ならきっとテイルラを救ってくれると、信じたんだ」
「…………」
「その気があるなら、……そうだな、その手のもの開けてみろよ。それと逃げずに向き合えたら、俺はもう一度手を貸してやる」
アダマスは黙って手にしていた手紙を見やる。何十年もこびり付いたままだった血は完全に染み込んでいる。その血を見ていると、やはりあの日の光景が蘇る。目の前に倒れたあの人が、震える手で懐から手紙を取り出し、それを震える幼いアダマスにしっかりと握らせた。震えた唇は、何を紡いでいたのか。考えたくなくて、結局今日も知らないままだった。
もう、臆病者ではいられない。いつまでも、あの日の震えた子どものままではいられない。
大きく息を吸って、ペーパーナイフを握る。封に差し込み傾けると、古い手紙は僅かに切れる。鼓動が煩い。指が震える。
逃げるな、向き合え。
歯を嚙み締め、アダマスは一気に封を開く。いつの間にか全身に汗が滲んでいる。ペーパーナイフを手から取り落とし、机上に落ちる。中には一枚の羊皮紙が入っていた。二つ折りになったそれを、アダマスは覚束ない指先でようやく取り出す。
リヒテルヴェニアはただ厳しい目付きでアダマスを眺めていた。その視線は「読んでみろ」と告げている。震える指を、心臓を止めるため、アダマスは呼吸を止める。
そして、二十年かけて、ようやくアダマスは手紙を開く。
「…………、」
「どうだ? 期待してたこと書いてあったか?」
「……、そ、んな、」
「あ? どうした?」
「まさか、それなら……ッ!」
手紙は二十年越しにアダマスに一つの真実を与える。奇しくも、その真実は今だからこそ理解できるものだった。
「アダムちゃんッ!」
そんなとき、町に買い出しに出ていたはずのフブキが部屋に飛び込んでくる。息を切らし、肩を上下させるフブキにアダマスはただならぬ気配を察する。リヒテルヴェニアもまた、不思議そうにフブキを見ていた。
その直後、フブキが発した一言によって、アダマスは屋敷を飛び出す。
——シャトンの前に侯爵家の紋をつけた馬がいた。
ただ、目指す先はたった一人。テイルラのもとへ。その足は動く。
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