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第45話

 まとわりついてくる赤い景色を、何度も何度も、力強く振り払う。記憶の底の赤い海から這い出すように、アダマスはその足を動かした。ただ、吐き気を催すほどの胸騒ぎが止まらない。あの赤を纏ったテイルラの幻覚すら見えてくる。  フブキが目撃したのは、あくまでヴェルデマキナ侯爵家の紋をつけた馬だけだった。騎手が何者かまでは確認できていない。だが、侯爵家の人間が何故アダマスの元も訪れず、シャトンに向かう必要があるのか。偶然とは、到底思えなかった。  侯爵家の意向に沿わぬ者ならば、同族でも構わず命を奪う。そんな連中が、ただの娼館のスカーレットであるテイルラに手を出すことを躊躇うはずはない。その気になれば、奴らはあの星空の瞳から迷いなく星を奪い去るだろう。アダマスは例えこんな僻地に流されていようと、それでも正統後継者の一人である。そんなアダマスを、簡単に殺めようとはしない。もし、狙われる対象がいるとしたら、それは、”誑かした”スカーレット。それを懸念していたからペルナに嘘を吐いた。思ってもいないことを吐き出す自己嫌悪を堪えてまで、テイルラを守るための嘘を吐いた。全ては、テイルラを守るためだった。それなのに。  ギリと、アダマスは歯を嚙み締める。あの時諦めたものと思っていた。本気でテイルラを消すつもりだったなら、戻ってくるだろうと踏んでいた。まさかテイルラがアダマスの元を離れるまで機をうかがっていたのか。  切迫感に追い詰められなりふり構わず足を踏み出し続けるアダマスに対して、ミラビリスは驚くほどいつも通りだった。まさか今この時、命の危機に晒されている人間がいることなど知りもしない人々が町を行き交う。その間を縫うように白銀は駆け抜ける。リヒテルヴェニアも後を追いかけてきているはずだが、アダマスの足には到底敵うはずもなくシャトンに辿り着いた時にその姿はまだ見えなかった。  息を切らしつつ、アダマスはシャトンの周囲を見渡す。まだ開店前のシャトンの周囲は静かで、何の変哲もない日常の中にいた。見渡す中に、フブキが見たという馬の姿はなかった。フブキの気のせいだったなら、それなら良かった。だが、アダマスは伏せた視線の先に明らかに人の足跡ではないU字型を見つけてしまう。それは、間違いなく蹄鉄の跡。まだ新しいそれにアダマスの心臓がドクと跳ねる。  馬がいないということは、それはそのまま騎手はすでにシャトンでの目的を果たしたということを示している。その目的とは、何か。  アダマスはリヒテルヴェニアの到着を待たずシャトンの扉を勢いよく開く。目に留まったのは、開かれたままの隠し扉。呼吸が震える。あの扉の先は、カウンター裏に繋がっており、そこの階段を下りれば、その先にいるのは、ただ一人。 「ッ、イオルバ!」  逸る気持ちに引きずられるように飛び込んだ部屋の中には、イオルバがいた。イオルバが、倒れていた。床に背を預け、力無く全身を弛緩させているイオルバは完全に昏倒しており意識を失っていた。よく見ると頭部の周囲には赤黒いものが床を染めていた。それを目にした瞬間、アダマスはその場で硬直してしまう。指先が震え、呼吸がままならない。 「アダマスッ!」 「リヒテル、ヴェニア……」 「ぼけっとしてんな! 早くテイルラを!」  扉を突き破るほどの勢いで飛び込んで来たのはリヒテルヴェニアだった。ゼェゼェと息を切らし、髪を乱したリヒテルヴェニアはアダマスを強く叱咤し背中を蹴り飛ばす。その声に弾かれるようにして、アダマスは震える足を踏み切る。  まだ決まったわけじゃない。  まだ、テイルラが死んだとは決まっていない。  多少の傷ならば、リヒテルヴェニアが治療してくれる。  どうか、無事でいてくれ、と。願いを込めて、アダマスは廊下の先に見えた扉を開け放つ。 「テイルラッ! ……ぁ、テイル、ラ?」  駆け込んだ部屋を瞬時に見渡す。求めたその姿は、部屋の隅にあった。荒らされた室内。膝を抱え小さく身を丸めるそのか細い身体。小刻みに震えるテイルラの姿は、到底「無事」だとは言えなかった。  アダマスの呼びかけに、テイルラはゆらりと顔を上げる。テイルラの頬は、赤く腫れていた。服は乱され、髪も耳の毛も荒れきっている。アダマスの姿を認めても震えるテイルラの全身は、乱暴されたことを物語っていた。だが、テイルラはその顔の傷を隠すように耳を顔の前へと持っていき目元まで隠すと、僅かに口の端を吊り上げた。 「なんだ? オレを笑いに来たのか?」  その笑みは、酷く歪なもので、目の前の存在が本当にテイルラなのか疑うほどだった。耳で隠そうとしているが、垣間見えるテイルラの目元には隈が出来ていた。それだけでない。テイルラは、最後に見た日と比較すると目で見て分かるほどに痩せており、やつれきっていた。青白さの滲む顔色の悪さは、暴行によってもたらされたものではない。 「あの時大人しくつがいになっておけば良かったものを、ってか? 受け入れておけば良いようにしてやったのに? ざまぁみろって、そう言いたいんだろ」 「……テイルラ?」 「どうせこのまま最期の瞬間までオレは孤独なんだ。最初からそうだったんだ、それが産まれることも望まれなかった混血のなれの果てだ。誰もオレを見てくれない。混血でもスカーレットでもないオレを見てくれない。いやだよ、くらいよ、さむいよ……」  がくがくと異常なまでに震えるテイルラはどう見ても様子がおかしかった。アダマスを突き放すために罵倒しているのかと思えば、テイルラの口調は支離滅裂な不安定なもので話が二転三転する。果てには幼い子どものような舌足らずになり、ぼろぼろ泣き始めてしまった。大粒の涙を溢れさせるテイルラはしゃっくりをして跳ねてしまう体を堪え、嗚咽すら飲み込もうとする。その余りにも不器用で下手くそな泣き方を見ていられず、手を伸ばすアダマスをテイルラは振り払う。 「あんたに出会ってから全部めちゃくちゃだ……! ずっと、いつ死んでも良かったのに、いつ死んでも後悔しないように生きてたのに、それなのに、お前に出会ってから明日が楽しみになった。明日も生きていたいって、そんなこと思うようになってた。全部、全部全部お前のせいだ! お前のせいで、こんなに死ぬことが怖くて仕方ないんだ! ぅっ……、いやだ……、いやだよ、なんでオレはこんな体なんだよ……、死にたくない、まだ死にたくない。……でも今さらどうやって生きればいいのかなんて、分からないよ……!」 「分かったもういい、テイルラ、一度落ち着け、なぁ……」  強い恐怖に晒されたことによって混乱しているのだろうか。何がテイルラをこんなにも不安にさせているのか分からないアダマスは、せめて落ち着かせようと可能な限り柔らかく声をかけるが、テイルラは身を丸めてアダマスの手を嫌がった。そして叫ぶような声をあげる。 「さわるなッ、くるなァッ! ——は、げほッ、がはっ、」 「は……、ぁ」  次の瞬間、テイルラは口から赤い液体を吐き出した。

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