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第46話

 吐き出したもの血であると、理解するのには時間を要した。まるで肺の奥の空気をすべて吐き出すように噎せ返ったテイルラは、直後ずるずると背にした壁に沿って横に倒れ込み、ヒューヒューと嫌な呼吸音を鳴らす。青白いテイルラの頬から生気を感じない。浅く呼吸するテイルラは力なくその場から動かない。  指先が冷たい。嘘だ。駄目だ。こんなこと、認めてたまるか。 「ッ、リヒテル、リヒテルヴェニア!」  扉の方を振り返り、アダマスは腹の底から声を張り上げた。廊下を突き抜け、上にいるはずのリヒテルヴェニアに届くように。すると間もなくガタガタと勢いよく階段を駆け下り、廊下を走り抜ける音が響いた。部屋に飛び込んできたリヒテルヴェニアは、床に倒れ込んだテイルラを見ると目を見開きすぐさま駆け寄ってきた。酷い呼吸音を聞いたリヒテルヴェニアはテイルラの胸に耳に当てると顔を顰める。 「呼吸器からの喀血……? そんな兆候は……、まさか」  リヒテルヴェニアは倒れたテイルラの周囲をキョロキョロと見渡した。そしてその目が留まったのは、床に転がっていた獣革の水筒。蓋を開けた状態で落ちてしまっていたそれは、中の水を床にぶちまけており、水筒としての意味を成してはいなかった。リヒテルヴェニアは血相を変えてその水筒に向かい、拾うや否や口の辺りに鼻を寄せる。 「……、……っ、やってくれたな」 「どういう、意味だ?」 「説明している暇はない。アダマス、テイルラをベッドにあげてやってくれ。くれぐれも吐いた血には触らないように」  それからの数分間、アダマスの目の前で慌ただしく物事は進んでいった。ベッドの上で時折咳をして血を吐き出すテイルラをリヒテルヴェニアが必死に処置をしており、その最中には事前にリヒテルヴェニアに指示されたフブキとモズがアーティを連れて現れた。そこからはアーティもリヒテルヴェニアに手を貸し、二人でアダマスの理解できない医学用語を口々に言い合い手を進めていく。  その間、アダマスはベッドサイドでただ呆然と立ち尽くしていた。  ——死ぬ? テイルラが? なぜ? 俺が愛したから?  永遠に続くのかと錯覚するほど、同じ問いかけを繰り返すアダマスに、その答えを与えてくれる者はない。 「どうだ、アーティ」 「……うん、先生の言う通りウィディア系の毒草で間違いない」 「……解毒薬は?」 「調合済みのものが診療所にあるけど……、あれは一般人向けのものだから……」  二人の会話が思考の遠くで聞こえる。交わされる暗い声色はテイルラの状態がよくないことを示していた。アダマスの視線が見下ろす先の、はーっ、はーっ、と深い呼吸をするテイルラの目は虚ろで、ただ音もなく涙を流していた。  そんなテイルラの指先が何かを探すようにベッドを這う。血に染まった唇が、僅かに動いた。  アダム、と。 「っ!」  気付けば、テイルラの手に己の手を重ね、強く握りしめていた。「俺はここにいる」と、今にも遠くに行ってしまいそうなテイルラに示すように。  ——まだ死なせる訳にはいかない。話したいことが、伝えていないことがたくさんある。  アダマスが怯えている時間などない。それが許される時間は、とっくに終わった。 「……おい、アダマス。よく聞け、俺たちは最善の手は尽くす。……だが、俺たちが用意できるのは純血向けの治療だけだ。解毒薬を投与しても、テイルラの抵抗力では毒の周りの方が早い、だから」 「だから、諦めろと? 何があってもテイルラを守るんじゃなかったのか?」  言葉を失うリヒテルヴェニアの表情が痛々しく歪む。嫌味を言っていることは重々承知している。諦めたくない気持ちは向こうも同じだろう。だが、医療には限界がある。どうにか解毒薬が毒に打ち勝つまでテイルラが耐えきることを願うしかない。しかし、それが無謀な願いであることは今のテイルラの状態が示している。 「せめて、ミラビリスがあったなら……」  ぽつりと、アーティが呟いた。……ミラビリス、全ての薬草の効力を高める伝説の薬草だと、いつかアーティに聞いた記憶が蘇る。すっかり忘れていたが確かに、その薬草を解毒薬に含ませればまだ希望はあるかもしれない。だが、そんな夢のような話、 『ここにいると、とっても気分がいいんだ』 『昔から具合悪い時はよく母さんがここに連れてきてくれてさ、少しここでお昼寝しただけですっかり元気になれた』  突如、テイルラの言葉がフラッシュバックする。そういえば、あの時テイルラの母親の墓の周囲に咲いていた空色の花。あれは結局何だったのか。テイルラと、母親であるアストラの二人のみが知っていたあの花。  ——……まさか、あれが? 「その花があれば、テイルラは助かるのか?」 「助かる可能性は格段に上がる。……けど、花かどうかも分からないし、」 「いや、花だ。……リヒテルヴェニア、三十分持たせてくれ、できるな」 「あ? ……はっ、当たり前だろ」  何かを感じ取ってくれたリヒテルヴェニアは、影を落とし込んでいたその顔に僅かにいつもの余裕を宿し笑う。それはどう見ても強がりの笑みだったが、頷いたからにはリヒテルヴェニアはやる男だ。  テイルラの傍を離れる前に、アダマスは改めてテイルラの手を握り、乱れた大きな耳に顔を寄せる。柔らかい耳の先は冷たく、ただベッドの上に落ちていた。 「よし……、テイルラ? 聞こえるか? お前は一人じゃない。俺が、ここにいる。俺のせいで死にたくなくなったのなら、責任持ってお前の最期まで傍にいる。だがそれは今じゃない。だから、死ぬな。俺と共に、生きよう」  そして、アダマスはテイルラの手の甲に口付ける。冷えきった指先に仄かな熱を残し、アダマスは背筋を伸ばす。こちらを見上げているテイルラの瞳が僅かに笑んだような、そんな気がした。  深く、息を吸いこむ。向き合うと決めたのだ、もう逃げない。  ——俺はもう、あの日の子どもではない。  強い炎を宿した青みがかったシルバーの瞳はもう震えてはいなかった。  部屋を飛び出したアダマスは、シャトンを抜け、さらに先へ、先へと空を切る。  あの花の咲く空色の丘へ。

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