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第47話

 薄暗い室内で、アダマスは喉の渇きによって目を覚ます。数度瞬きをしたアダマスは、自分が眠ってしまっていたことを自覚し頭を覚醒させるために首を左右に振るう。今晩は寝ないつもりでいたというのに、いつの間に眠ってしまっていたのか。アダマスは窓から射し込む月明かりを頼りに、目の前で眠っているテイルラを覗き込む。  白いベッドで瞳を閉ざしているテイルラは、穏やかな寝息を立てていた。どれくらいの間寝ていたか記憶はないが、眠る前と変わらないテイルラの様子に安堵し、アダマスは周囲を見渡す。  ここはリヒテルヴェニアの診療所だ。室内にはアダマスとテイルラの他に、アーティとリヒテルヴェニアの姿もあった。疲弊しきったアーティは患者用のベッドの上で眠っており、リヒテルヴェニアは隅の椅子に座り腕を組んだまま、壁に身を預けて目蓋を閉じていた。テイルラのベッドサイドのスツールに腰かけていたアダマスは、チラと先ほどまで自らが体を預けていたサイドテーブルの上に置かれた数本の花を見る。  ミラビリス。これが無ければテイルラは今ごろ覚めることの無い眠りについていた。アダマスは時間が経過したことにより少し萎れている一輪を手に取り、スンと鼻先を動かす。花弁からは生花独特の香りが漂っていた。それに混じるのは澄みきった爽やかな柑橘類のような香りだ。  数時間前、シャトンを飛び出したアダマスは、テイルラに案内された記憶を頼りに花畑まで辿り着いた。そこで素早く十本ほど花を摘むと来た道を戻り、花をアーティに託したのだった。テイルラと共に行ったときは片道一時間弱はかかった道のり。それをものの数分で駆け抜けたアダマスの足は、雪豹の体力を遥かに凌駕して酷使されたことも重なりシャトンに着くや否や、立つことも叶わなくその場で倒れ込んだ。だがそれでテイルラが救えるのなら、その程度の無茶は造作もないことだった。アーティは受け取ったミラビリスで解毒薬を完成させ、それをテイルラに投与した。リヒテルヴェニアの決死の治療も功を奏し、テイルラは一命を取り留めるに至ったのだった。  それからモズとフブキの協力もあり、テイルラは診療所へと運ばれた。喀血で汚れた体を拭い、服を着替えさせた後にここに横たえ、以降もリヒテルヴェニアによって処置を受けた。赤く腫れた左頬にも、アーティによって薬を塗られ、その他の傷にもそれぞれ処置が成された。依然として意識は戻っていないが、山は越えたらしく蒼白かった頬にも赤みが戻っていた。毒によって荒れた呼吸器が合併症を発症する恐れもあると、まだ予断は許されない状態ではあるが、ひとまず息をつけるほどには落ち着いたことに感謝すべきだろう。  左頬はまだ僅かに腫れてはいるが、容体も安定しているようだし、水でも飲んでこようと椅子から立ち上がったアダマスは一旦テイルラの額の白布に手の甲を触れさせる。未だ熱の引かない額は熱く、布もすでに熱を宿しており熱さましの意を成してはいなかった。ついでに木桶の水も変えてこようと、額から手を離す。 「……ん?」  と、その手を熱い指先が捕まえた。まさか目を覚ましたのかとそちらを見てみると、熱のせいか、多少ぼんやりとしたテイルラの潤んだ瞳と目があった。 「っ! テイル、」  思わず声をあげるアダマスの手から指を離したテイルラは、自らの口元で人差し指を一本立てる。テイルラのその仕草から声を出すなという意と感じ取り、口をつぐんだ。すると、テイルラは次いでアダマスを手招く。何か伝えたいことがあるのだろうと、テイルラに身を寄せる。 「かあさんのところ、連れていって」  掠れた声は、小さくアダマスにそう告げた。アダマスは返事の代わりに首を左右に振る。回復してきているとは言っても、こんな状態のテイルラを連れ出すわけにはいかなかった。テイルラ自身も辛いだろうに、それでもそんなことをねだるということはそれ相応の理由があるのだろう。 「アダム、……ふたりで、話したい」 「駄目だ、話なら回復してからいくらでもしてやる、だから今は、」 「おねがい……、いま、したいんだ」  弱弱しく言葉を紡ぐテイルラの指先が、アダマスの手に重ねられる。テイルラの体への心配と、心への心配が同時に生じ、アダマスは思案する。熱も引いていないのに連れ出していいものなのか、しかし、テイルラはどことなくいつもより精神的に不安定に見える。それはシャトンでの様子からも言えることだ。断れば、また泣いてしまうかもしれない。 「……一瞬だけだ。いいな?」 「うん、ごめん、な」  一度取り乱したテイルラを見てしまった以上、その心が壊れてしまう不安にアダマスは逆らえなかった。リヒテルヴェニアは体の治療はできても心の治療はできない。それができるのは、驕りでも何でもなく、自分であるとアダマスは自覚していた。  ベッドの上のテイルラを、アダマスは両腕で抱き上げる。膝の裏と肩に手を差し入れ横抱きにすると、テイルラは顔を横に倒しアダマスにしがみついた。すぐそこで眠っているアーティとリヒテルヴェニアを起こさぬように。アダマスは音を殺して診療所を抜け出した。  そうして二人はあの丘へ向かう。道中、二人の間に会話はなく、テイルラはただ静かにアダマスの胸元に手を添え、大人しく揺られていた。テイルラを抱えていることで多少時間はかかってしまったが、無事に怪我一つ負わせずミラビリスの花が咲く空色の丘まで辿り着く。  テイルラが一言「お墓の前で下ろして」と呟くのに従い、アダマスはテイルラを墓前まで運ぶ。そして、墓の目の前にテイルラを座らせる。その肩が冷えないように、アダマスは自らが羽織っていたコートをテイルラに被せた。冷えた夜風が、花弁とテイルラの耳を靡かせる。

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