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第2話

「結局、俺は恋人に何も言わず、この街をでました。何も知らない彼に別れを伝えることもできなかった。だって本当に好きなのは彼で、それに嘘はないのだから。彼に話してしまったら決心が揺らいでしまう。裏切ることなどできなくなるとわかっていたから」 「……そうですか」  そこでまた一人、奥のテーブル席の客がでていき、店内に残された客はジャックだけになった。マスターはテーブル席に溜まっていたグラスを片付け、カウンターに戻ってくる。 「その人と離れてからの毎日は辛いものでしたか」  ジャックは自嘲気味に笑いながら、首を振った。 「妻は自分を愛してくれていたし、養父母もとてもよくしてくれた。仕事でも成功し、責任のある役職にもつき、富も名声も手に入れた。子供も二人、娘に恵まれ……自分で言うのもおかしいが、誰もが羨むような日々だった。けど……」 「けど?」 「充実した日々だったけれど、心は満たされなかった」 「………」  マスターは何も言わず、グラスを拭いていた手を止めた。しばし沈黙が続いた。店内に流れるジャズの音色が心なしか大きく聞こえてくる。    ふと目を瞑ると、十年も前の出来事がついこの間のように浮かんできた。  彼はジャズよりも外国のポップミュージックのほうが好きだった。自分に合わせてジャズのコンサートにいったときは途中で少し眠ってしてしまって、終わった後に素直に話して謝ってくれた。気まずそうにキョロキョロして、一生懸命謝る姿はとても愛らしくて、思わず抱きしめた。  あの時の腕の感触だって忘れたことはない。  コーヒーの味が苦手な彼がコーラと間違えて飲んでしまったときのびっくりしたような後の照れた顔も。  猫が死んでしまったと落ち込む自分を励ましているうちに、彼のほうが興奮して泣き出してしまったこともあった。  可愛くて優しくて、純粋で。少し抜けたところがあって、そんなところもまた愛らしくて。  瞳の裏に映る彼の姿があまりにも鮮明で、このまま暗闇の中で、彼と一緒の世界にいたいとすら思ってしまう。  そこで壁際の時計から小さく音が鳴った。思いを打ち消すかのように、ジャックは小さく息をはき、諦めたように目を開けた。 「もうじき12時か。そろそろ帰るとするか」 「……一つ、質問をしてもいいですか?」  それまで静かに話を聞いていたマスターの言葉にジャックは顔をあげる。 「彼とまた会いたいですか?」 「それは……もちろんです」 「ジャックのようになってでも?」 「?……そうですね。俺は彼にもう一度会えるのならば悪魔を騙してでも会いたいし、魂を売ってでも一緒にいたい」 「本当に?ジャックは天国にも地獄にもいけずに彷徨うんですよ」 「そうですね……でもそれなら、今も同じようなものだ。俺はこれ以上こんな状態が続くのは耐えられないんです。会えない時間を積み重ねることで、忘れようとした彼の存在がどんどん大きくなってしまって、妻や娘では埋められない。全て捨ててでも、地獄を彷徨っでもいいから……彼に会いたいんだ……」  ジャックは空になったグラスを両手で握りしめ、じっと見つめながら言った。マスターはチラリと壁掛けの時計に目を移した。 「なら、あと少しだけ待ってください」 「?何故」 「12時になればわかるはずです。それまでもう一杯どうですか?自分が引き止めたんでサービスでおすすめをつくりますよ」 「……じゃあ、もう一杯だけ」  マスターの意図がよくわからなかったが、行く宛もないジャックはオーナーからおすすめのカクテルだとXYZをうけとり、静かにときがすぎるのを待った。  数分後、店内の壁掛け時計から0時の鐘が鳴った。12回の鐘が鳴り響く店内で、ジャックとマスターはじっとその時計を見ていた。  そうしてちょうど12回めの鐘が鳴り終わり、やっぱり何も起こらないのかとジャックが席をたとうとしたそのときだった。  店の入口のドアがあいた。  隙間風のせいか、店内に飾られているジャック・オ・ランタンの中にある蝋燭の炎がボゥっと大きくなり、そうして一人の男が入ってくる。  ジャックは身動きがとれなくなった。彼は唯一、胸の鼓動だけが強く脈打ちはじめるのを感じていた。  何年経っていても忘れるはずがない。間違えるはずがない。まるで時が止まったようだった。  そこにいたのは、彼だった。  ……間違いなく、彼だったのだ。

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