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第3話

 パイは、蜂蜜とかぐわしい花の香りがした。焼き菓子はさんざん迷ったすえ、フルーツが乗ったタルトとチーズポテトマフィンにした。甘いのも甘くないのも食べたいと、トウマが言ったからだった。売り子はまるで少女のような幼い面立ちの小柄な女性で、ラメでもあみこんでいるみたいにツインテールの巻き髪が光っていた。  買ったものを、トウマと分けて食べながら歩いた。誰かと食べ物を半分こするなんて、ずいぶん久しぶりのことで、ミケルは妙に胸が高鳴ってしかたなかった。まるで少年のころに戻ったみたいだ。  子どもみたいに、ハロウィーンのカーニバルを楽しんでいる。  そう思って、ミケルははっとした。  大事なことをすっかり失念していた。 「そうだ、僕、人を探さなきゃ」  あわてたミケルの声に、トウマもあわてたように足を止める。 「人って?」 「先に来てる人がいて、僕も合流しなくちゃいけないんだ」 「合流ってことは、もともと一緒に来る予定だった人?」 「そう。子どもが、何人だったかな、六人くらい。それと、付き添いの大人が一人」  それを聞いて、トウマがほっとしたように息をつく。 「ああ、子どもの付き添いだったのか。じゃあ、ミケルが俺のパートナーでも問題ないな。なんだ、びっくりしたよ。子どもは控室があるから、きっともうテントの中だ。ここまで来てたら、戻るより進んだほうが早い。行こう」  そんなことを言う。  いったい何の話をしているのかわからずミケルは戸惑ったが、行こう、とトウマが手を差し出したので、それどころじゃなくなった。差し出された手を取らないのは、失礼だ。きっと。  人混みだからだ。はぐれちゃいけないからだ。そういうことを、トウマはためらいなくする性質(たち)なのだ。彼にとっては普通のことなのだ。  だから、ドキドキしてはいけない。ときめいてはいけない。  何かを、期待してはいけない。  手をつないで進みながら、ミケルは人の目が気になった。でも誰も、二人を気に留める様子はなさそうだった。ミケルは目深(まぶか)にフードをかぶっているし、もともと細身でさらにケープで肩のラインは隠されているし、案外女性に見えているのかもしれない。少々背丈はあるけれど。そう、思うようにした。でも、リディカに見つかったらすぐにバレる。何しろこのケープは彼女の自作なのだから。  男性と手をつないでいるところを見られることなど、正直言って決してあってはならないことだ。ホーリータウンは保守的な町で、そんな噂が広まればきっと、小学校の教師など辞めさせられるに決まっている。でも、リディカは別だった。  リディカは唯一、ミケルの性的指向を承知している。幼いころから聡い彼女は、ミケルのエリオへの気持ちにずっと前から気づいていた。エリオが町を離れるタイミングでそれを指摘されたミケルは、隠すことより認めることを選んだ。その辛さを打ち明けられる誰かが、一人でもいいから欲しかったからだ。何も言えないまま、エリオは遠くへ行ってしまった。こっそりと飲んだヤケ酒に、リディカは一晩中つきあってくれた。もちろん、すぐにへろへろになったミケルよりリディカのほうがよほど強かったけれど。 「あら、トウマじゃない! 久しぶりねえ」  甲高い声が聞こえて、ミケルは反射的に手を離した。  トウマに近寄ってきたのは、胸元が大きく開いたドレスを着た女性だった。潔いほどの短髪で、瞳は瞳孔が細く三日月のようになった黄金(きん)色だった。頬と胸元に白い鱗のようなものが幾枚も貼りつけられていて、それが角度によっては虹色に光る。 「やあ。久しぶり」 「あら、今日のパートナーはカイランじゃあないの?」  女性はちらりとフードの中のミケルを見て言う。 「ああ、うん。あいつ、急に腹が痛いって言い出してさ。毒キノコでも食ったんじゃないかな」 「カイランならやりそうね。なんでも食べるんだもの。トウマは前半? 後半?」 「後半」 「あたしたちもよ。じゃあまた後でね」  手を振って、女性はいなくなった。奇抜だったが、キレイな人だった。  あんな人のほうが、トウマにはお似合いなんだろうな。  そんなことを考えて、ミケルは気が沈みそうになった。僕なんかが手をつないで、はしゃいだりして。  恥じるように身を小さくしていると、トウマが耳打ちをしてきた。 「俺さ、顔と名前を覚えるのすごく苦手なんだよな。彼女が誰なのか、さっぱりわかんなくてひやひやしたよ」  そう言ってトウマは肩をすくめる。ミケルは思わず吹き出した。 「ほんとに?」  いたずらがバレた子どものように、トウマも笑みを見せる。  ハロウィーンのせいだ、と思うことに、ミケルはした。カーニバルのせいだ。仮装をしているせいだ。だからこんなにも、トウマに惹かれてしまうのだ。  当然のように、トウマはまた、ミケルの手をとった。ミケルももう、ためらわなかった。  ハロウィーンだし。  カーニバルだし。  それにしても、と辺りを気にして目をやりながら、ミケルは思う。  皆の仮装がやけに、本格的なのである。  ごつごつとした皮膚の大男、額の真ん中から長い角がつき出している男性、本物にしか見えない3つ目の瞳がある女性。  小柄な、頭部がやたら大きく毛髪がなく、手足が異様に細い、全身が茶色い皮膚に覆われている二人組。片方のほうが少し背が高いが、それでもミケルの腰ほどまでしかない。あれはきっと人形に違いない、誰かがどこかで操作しているのだ、とミケルは思った。でも、行き合った知り合いと挨拶を交わしている。  たった今、すれ違った白いドレスに金髪の美しい女性は、ふわふわと頼りない歩行だと思ったら、足元がわずかに、地面から浮き上がっていた。  ミケルは息をのむ。  何かが、どう考えてもおかしかった。  通りすがった屋台の一つから、よからぬ気配がした。屋台は食べ物以外にもいろんなものが売られていて、仮面や水晶や置物などさまざまだったが、それらはどれも不穏な気配が漂っていた。中でもその屋台は一段と、禍々(まがまが)しかった。  怪訝そうに身をすくめるミケルの様子に気づいて、トウマは足を止め、ああ、と嘆息をもらした。 「俺も、ああいうのは嫌いなんだ。あんたも同じで良かったよ」  屋台には、頭部や、胸から上の胸像のようなものが並んでいた。そのすべてが、まるで生きている人間のように精巧にできている。どこか遠くを見つめている美しい顔もあれば、苦悶の表情を浮かべている顔もある。 「……あれは」 「ほんと、趣味悪いよな。人間の剥製なんてさ」  トウマのひとことに、ミケルはめまいを覚えた。さあっと波が引いてゆくように、辺りの喧騒が遠ざかってゆく。  背すじがすうっと寒くなるのと対照的に、トウマとつないだ手のひらが、急速に汗ばんでくるのがわかった。知らず、足が震えている。 「……トウマ」 「ん? どうした? 気分悪くなったか? そうだよな、いくら物珍しいからって、あんなの飾るやつの気が知れないよな。早く離れようぜ」  ここは、どこだ?  ここはいったい、何だ?  周りにいるみんなは、仮装をしているわけじゃない?  その姿かたちは、みんな本物なのか?  では。  ミケルは震える唇を手で覆いながら、そっとトウマの横顔を盗み見る。  トウマの美しい色をした耳も、作り物ではない?  トウマも、人ではない、のか。  手を引かれて歩きながら、ミケルは今、自分がどうすべきかまったくわからなかった。こんなとき、リディカならこう言ってくれるだろうか。 「しっかりしなさいよ。ミケルったらいつだって、ハプニングに弱いんだから。ちゃんと状況を見定めたら、おのずと答えは出てくるんだからね」  はたして、答えは出てくるだろうか。  ミケルの呼吸は、どんどん荒くなる。

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