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第2章

          2  自分と父親との関係は普通の親子とは少し違う。父と子のスキンシップという当たり前な行為は生まれた時からほとんどなく、その代わり父は、物心が付いた頃の自分に、たくさんの医療の知識を植え付けてきた。その植え付け方は、難しい知識をただ並べるだけの芸の無いものではなく、幼い子の興味関心を上手に引き出すための工夫が凝らされていた。父は、巧みな話術と、視覚からも訴えるべく、自分で手書きの絵本のような物を作り、それを用いながら、わざわざ忙しい仕事の合間を拭っては、幼い自分にそれを読み聞かせていたのだ。  読み聞かせとは言っても、その内容はもちろん普通の絵本などではないのだから、心を豊かにする情操教育的なものとはほど遠い。はっきり言ってその行為は、自分の跡継ぎを造るための洗脳に近い。   幼い子どもを相手にする行為としてはかなり異常な行動だが、医療の世界しか知らない不器用だった父は、きっとこんな形でしか自分の子どもとコミュニケーションが取れずにいたのかもしれない。  そんな異常な環境をおかしいと思えずに育ってきた自分はやはり、不幸だったのかもしれない。でも、自分は夏川に出会い、そんな今までの自分を変えたいと思えるようになった。その変化に自分でも凄く驚いている。  横山の気持ちを知り、自分が知らない間に誰かを傷つけていたことに気づけたことも大きい。そんなすべてが、自分が人間として成長するためのきっかけになっていることを、真南人は今、素直に幸運だと感じている。  真南人は、自分の心に正直に、「夏川に会いたい」という強い劣情に身を任せながらここにいる。自分の心が、夏川への愛しさで息をするのもままならないほどの苦しさで立っている。こうやって院長室のドアの前で、右手をノックの形にしたまま。 「失礼します。父さん。入ってもいいですか?」 「ん?……真南人か? どうぞ。お入り」  部屋の中から忙しげな声がする。今日も山のように積み重なっている患者のカルテに目を通していたのだろう。ドアを開け、中に入ると、目頭を押さえながら椅子に深くもたれかかる父の姿を、真南人は複雑な思いで見つめた。 「お疲れのところすみません。ちょっとお聞きしたいことがあって来ました」 「どうした? 珍しい。お前が私に用事だなんて。台風と竜巻が同時に来るかもしれないぞ」 「そんなに珍しいですか? 父さんは忙しすぎて家に戻らないから、なかなか捕まらないだけですよ」 「どうだかな……で、ようって何だ? 今、かなり立て込んでいてな。あまり時間がないんだ」 「はい。あの、うちの病院に、若年性アルツハイマーで入院している、夏川理彩子(なつかわりさこ)さんのことでちょっと」  夏川の母の名前は受付の従業員に既に確認していた。真南人の学校の同級生が夏川家と知り合いで、ぜひ夏川の母を見舞いたいと頼まれたと、適当な言葉を並べて、少しでも夏川に繋がる情報を聞き出だそうとしたのだ。でも、真南人は一足遅かった。もう既に夏川理彩子は退院し、余所の介護施設へと移されてしまっていた。受付の子にその施設名を尋ねても、夏川家の意向で他言無用とのことで、例え院長の息子である真南人に対しても口は固かった。 「夏川理彩子? ああ、あの患者は先週退院したばかりだ。患者に適した良い介護施設が見つかったらしく、そこに移すことになったんだよ。ここに来たばかりの頃はまだ初期段階だったからね。薬で進行を遅らせようと試みたんだが、思うようにいかなくてな。からだと精神機能をできるだけ維持できる介護施設の方が、私も良いと判断したんだ」  父は悔しそうに顔を顰めた。その表情から、父の患者に対する真摯な思いを垣間見ることができ、真南人は父に対し尊敬の情が湧くのを感じた。 「退院?……昨日ですか?」  真南人は知らない振りをしてそう言った。 「そうだ。最新の設備が整っているとても大きな介護施設だよ。緑豊かな所にあるから、都会のこの病院よりずっと環境はいいはずさ」 「どこですか? その場所。教えてください!」  滅多に見せない自分の切羽詰まった様子に、父は目を見開き驚いている。思わず焦った行動を取ってしまった自分のそんな状態を何とか鎮ませようと、真南人は軽く呼吸を整えた。 「何だ。一体どうしたんだ? お前とあの夏川という患者が私にはまったく結びつかないんだが。真南人……何かあったのか?」 「い、いいえ。あの、その患者さんは僕の友人の母親なんです。うちの病院に入院してるって聞いて、その……父さんから詳しい容態を聞きたいと思って」 「聞いてどうするんだ?」 「それは……友人がかなり母親のことで悩んでるから、少しでも助けになれればと思って。だから、もし大丈夫ならその施設の場所を教えてくれませんか? 友人を励ましに行きたいんです。僕もいずれ父さんと同じ脳神経専門の医者になるんですから、そのための良い経験になると思うんです。少しでも、患者やその家族の気持ちに寄り添いたいんです」 「お前の気持ちは分かるが……おい、ちょっと待て。さっき友人と言ったな? 夏川家をお前は知ってるのか? この業界では知らない人間はいないくらいの一族だぞ? ライフ製薬を知っているだろう? お前の友人の父親はその会社の社長だぞ?」 「ライフ製薬……って、日本でも三本の指に入る、あの大手製薬会社のですか?」 「そうだ。そこのご子息とお前は友達なのか?」   真南人は驚愕した。いくらなんでも、夏川がそこまで大きな会社の息子だったとは思いも及ばなかったからだ。 「だとしたら、お前の友人は、ライフ製薬の社長にいずれなる人物ということか?」 「え? あ、そ、そうですね。多分……」 「なるほど。そうか……」  父は意味深な表情をしながら、顎に手を当てると小刻みに頷いた。 「不思議な縁だな……真南人。アルツハイマー型認知症の根治薬は未だ開発されていないのが現実だ。この先もこの病気の患者は加速度的に増加するだろう。それを見越して、欧米の大手の製薬会社は巨額の開発費を持って我先にと開発を進めているんだよ。日本も遅れを取っていてはいけないんだが、欧米との開発費との格差が大きくてな。かなり難しい状況にあるんだ」 「は、はあ……」 「お前の友人に頑張ってもらわないといかんな。そしてお前は私の後を継ぎ医者になり、その繋がりでアルツハイマー型認知症をこの世から根絶できたら、とても素晴らしいと思わないか?」  父は目を輝かせながら、真南人を見つめそう言った。しかし、その少年のような瞳に真南人は戸惑う。こんな風にまっすぐに向けられた父の思いを、真南人はどう受け止めて良いのか一瞬分からなくなる。  真南人は物心が付いた頃から、父の後を継ぐことが自分の定められた運命なのだと、半ば諦めにも似た気持ちで受け入れてきた。真南人にとってそれは、この世に生を受けた時から、自分の両手両足に打ち付けられた楔のようなものだったからだ。だから、それに対する情熱や夢を真南人が持ち合わせているなどあるはずもなかった。でも、今、真南人は徐々に、父親のその真っ直ぐな熱意が自分の体中に熱く駆け巡るような感覚を覚える。幼い頃から父親に植え付けられた医者としてアイデンティティは、知らぬ間に真南人の水脈となって張り巡らされていたのかもしれない。 「父さん。とても壮大な夢だけど、本当に素晴らしいことだと思います。僕もそれを現実にしてみたいです」 「そうだな。夢は大きいほうがいい。未来を信じずにどうして医者が務まるか! だぞ。真南人」 「そうですね」  父の言葉は、真南人の胸を苦しくさせ、僅かに息を浅くさせた。 「父さん。あの……」  真南人はもう一度本題を切り出そうとした。でも、最後まで言う前に、父は納得したように頷き始めた。 「ああ。分かったよ。しょうがない。確かに夏川社長には他言無用と念を押されたんだが、事情を話して、新しい施設の場所を教えても良いか承諾を得るよ。それまで待っててくれ」 「父さん……ありがとうございます」  真南人は深々と頭を下げ、丁寧に礼を言うと、早足にドアまで歩き、ドアノブに手を掛けた。 「真南人」 「はい?」  突然名前を呼ばれ、真南人はどきっと心臓を鳴らせ振り返った。 「今度私に紹介してくれないか? その、お前の大事な友人とやらをな」 「え? は、はい。そうですね。ぜひ」  真南人は平静を装い、父親ににこやかにほほ笑みながらそう言った。そして、まるで逃げるかのように部屋から出ると、深い溜息が自然と口から漏れ出た。  真南人の心境は急に穏やかではなくなった。夏川を父に紹介することなど到底できそうになかった。適当に誤魔化すのも、正直に伝えるのも、その両方の現実に向き合うには、真南人の気持ちはまだ不安定で、その薄氷のような心を強く踏みつけられたら、簡単に砕けてしまう可能性は否めなかった。  だからこそ、今は先のことなど何も考えられなかった。目の前の初体験な出来事に、ひたすら純粋に取り組む幼子のように、真南人の気持ちはただまっすぐ夏川へと向かっている。別な言い方をすれば、強く引っ張られたゴムが、元の場所に戻りたいと苦しんでいるかのようだ。もし、その状態が長く続いてしまったら、そのゴムはいつしかプツリと音を立て切れ、真南人は、まるで壊れたロボットのように何も機能しなくなってしまうかもしれない。  真南人は今、そんなことを本気で考え危惧するほど追い詰められている。「夏川に会う」というただそれだけを、一途に思うことで生きている。  部屋を出てすぐ、真南人は夏川に会う計画を頭の中で立て始めた。  今度の三連休を使って会いに行こう。例えその日にタイミングが合わず会えなくても、何回か訪れれば、いつかは必ず会えるはずだ。  真南人は祈るように、心の中で何度もそう自分に言い聞かせた。

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