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第2章

          3   十月の秋の風が爽やかな晴天の今日。真南人は東京から鎌倉まで一本の横須賀線に乗り、鎌倉駅へと向かっている。  車窓から時折見える海が、太陽の光できらきらと美しく輝いている光景に目を奪われるたび、真南人の脳裏には、夏川の顔が否応なく浮かんでくる。  夏川に会えるかどうか分からない無謀な賭をしている自分を、真南人はひどく滑稽だとは思う。でも、どうすることもできないほど夏川が恋しいという気持ちの方が勝り、真南人は愚かな恋の道化師と化してしまうのだ。  父から連絡を貰い、教えてもらった園山ホームという介護施設は、鎌倉駅からバスで二十分程の場所に位置している。民間事業者が経営している有料介護施設で、広大な敷地の中に存在する、高額所得者向けの施設だという。きっと、夏川家の財力なら、妻を国内最高の環境で介護することぐらい朝飯前なのだろう。  真南人は鎌倉駅を出ると、園山ホームに一番近い停留所行きの路線バス乗り場を捜した。意外と簡単に見つかり、時刻表を確認すると、次のバスが来るまで十分を切っていた。  真南人は、待合室の中に入り椅子に座ると、ロータリーをゆったりと走る別の路線バスを見つめた。そのバスには園山ホームの写真が大きく貼られていて、海と山両方に囲まれた自然豊かな敷地に立つ、一見豪華なホテルと見紛うような介護施設を、強くコマーシャルしていた。 しばらくするとバスが到着し、真南人は慣れない手つきで整理券を手に取ると、バスの中は割と空いていて、一番近くだったのと、降りる時に焦らずに済むという理由で、左側の一番前の席に座った。そして、ほっと一息つきながら、窓から駅の方へ目を遣ったその時、真南人の目に見慣れた人影が映った。  あれは……。 「す、すみません! 降ろしてください!!」  咄嗟に真南人は、何の躊躇いもなく、運転手に掴みかかるような勢いでそう叫んだ。  運良く、バスはまだ走り出してはいなかったが、運転手は嫌悪感丸出しの顔で真南人に振り返ると、ぶつぶつと文句を言いながらドアを開けてくれた。真南人は深々と頭を下げ、礼を言うと、バスから飛び降り、駅に向かって思い切り走った。  まさか、まさか。  真南人は張り裂けそうな心臓を抑えながら、さっき見つけた人影を必死に探した。でも、焦っているせいかなかなか見つからず、真南人は悔しさのあまり、思わずその場で大声を上げそうになる。 「真南人君……なの?」  その時、背後から聞き覚えのある声がした。 「え?」  真南人はその声を聞いて、一瞬で凍ってしまったかのように体が動かなくなった。早く振り返りたいのに、何故だか怖くて振り返ることができない。 「どうして……」  その、うまく感情を読み取れない声に、真南人は戸惑う。その先に続く言葉が何なのかとても不安になる。 「バカだよ。何でここにいるの?……信じられない」  徐々に、背後から近づいてくる人の気配を、真南人は目を瞑りながら待った。ドキドキと心臓が鳴り、煩いほど耳に響いてくる。 「どうして? 君はとても頭のいい子じゃないか。俺の言った意味が分からなかったの?」  その人物は真南人の手をおもむろに取ると、ぎゅっと握りしめた。 「はい。分かりませんでした。全然。あなたから聞いたたくさんの説明の中で、唯一まったく理解できませんでした」 「はは。それは困ったな。じゃあ俺はどうすればいいの?」  真南人は握られた手を強く引かれ、強引に振り向かされた。目の前にいる、自分が会いたくてたまらなかった人は、秋の柔らかな日差しに照らされ、真南人の目の前に静かに佇んでいる。 「夏川さん……会いたかった。すごく」   真南人は強く握られた手を握り返すと、胸が詰まってしまいその先の言葉が出てこなかった。そして、そのまま俯くと、アスファルトの上に丸い水滴がぽとぽとと落ちた。 「泣かないでよ。真南人君。あのね、本音を言うとね、今すぐここで君をすごく抱きしめたいけど、こんな往来じゃ、それをできないのがとてもつらいよ」 「夏川さん……」 「ああ。もう。真南人君って意外と泣き虫なんだね」  夏川は真南人の頬に手を伸ばすと、そっと涙を拭った。それでも、さっきから繋いでいる手は強く握られたままで、それが真南人の胸を嬉しさで疼かせた。 「ねえ、もしかして、俺の母親の所に行こうとしてたの?」 「え?……そ、そうです。そうすれば夏川さんに会えると思って。でも、こんなにすぐに会えるなんて、夢みたいです」 「ほんと、奇跡だよね……」  夏川はそれだけを言うと、突然、真南人の手を引き歩き出した。そして、タクシー乗り場で空車のタクシーを見つけると、大きく手を振り合図をした。 「すみせん。園山ホームまでお願いします」  目の前に来たタクシーに夏川はそう言った。運転手はぶっきらぼうに「了解」と返事をすると、後部座席のドアが開いた。夏川は真南人を押し込むようにして先に乗せると、自分の荷物をトランクに乗せた後、真南人の隣に勢いよく座った。そのせいで自然と密着するような形で座ることになり、お互いの肩や太ももが触れ合うような状況に、真南人の心は急に落ち着かなくなった。そして、一端離れた手は、密着していることで、また引かれ合うように触れ合ってしまい、自ずと指先だけが軽く絡まり合う。 「あのさ、真南人君に会ったら、いっぱい話したいことが溢れてくるよ。でも、それをしていいのかどうかも、俺は今、うまく判断できないんだ」 「……どういう、意味ですか?」 「何で俺は君を追い帰さないんだろう。それすらも、もうよく分からない」  ぎゅっと痛いほど手を握られ、真南人は思わず声を上げそうになった。でも、それは歓喜の声だ。夏川から伝わる自分への強い思いに対する、得体の知れないほどの喜びだ。 「帰りたくありません……やっと会えたんです。僕はもう夏川さんから、絶対離れません」  深い溜息が自分の横から聞こえ、真南人は夏川にそっと目をやった。夏川は苦しそうに顔を顰めると、窓の方を向いてしまった。   真南人は、そんな夏川の気持ちを察することはできても、自分の気持ちを変えるつもりなど毛頭なかった。  この手を絶対離さない。それは夏川さんだって同じはずだ。  真南人は、自ら握っている手を離すと、今度は、指を交互に深く絡ませるように握り直した。驚いたようにこちらに顔を向けた夏川に、真南人は無言で自分の強い意志と覚悟を、夏川の双眸にぶつけた。

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