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第2章

          5  外の空気は、雲一つない晴天のせいでとても過ごしやすく、絶好の散歩日和だった。  見渡す景色は美しく、緑の山々もうっすらと紅葉の兆しを見せ始め、秋の深まりを感じさせている。  車椅子用の緩やかなスロープが、この施設の広大な庭に縦横無尽に張り巡らされているため、そのせいでとても歩きやすかった。また、様々な植物や、花が植えられている庭は、宛らブリティッシュガーデンのようで、その異国のような雰囲気は、気分を高揚させるには十分効果的だった。  夏川は、母親を慈しむように、ゆっくりと車椅子を押しながら歩き、時折立ち止まると、花や植物を観察したり、スマホで母親の写真を撮ったりしながら、散歩をとても満喫しているようだった。  真南人はそんな夏川の様子を、眩しそうに目を細めて見つめた。  真南人は、夏川の新たな一面を知れば知るほど、恋心が加速度的に増していき、自分でもどうしていいか分からないほどの恋情に戸惑った。でも、それすらも最高に幸せで、真南人の中に、不安や後悔といった負の感情など、今この瞬間まったく見当たるはずもなかった。  少し小高い丘のてっぺんまで上がると、緩やかな道ではあるが、車椅子を押し上げながらではさすがに息が上がるらしく、夏川は顔を高揚させながら、荒い息を吐いていた。 「大丈夫ですか?」  真南人は心配になってそう問いかけた。 「はあ、大丈夫。最近かなり運動不足だから。駄目だね。この程度で」  自分に向けられた夏川の苦しそうな笑顔に、真南人は思わず心を奪われる。不謹慎だと分かっていても、夏川の表情に美艶な淫猥さを感じ取ってしまう。ほんのり赤く染まった首筋のラインがそそるように綺麗で、真南人は、そんな自分がたまらなく恥ずかしかった。 「はあ、ここで少し休憩しようか。あ、母さん、寝ちゃってるよ」  気がつくと、夏川の母は、車椅子の上ですやすやとあどけない顔で眠っていた。  夏川は、両手を真上に伸ばしのびをしながら天を仰ぐと、木の下まで車椅子を押して行き、その木の根元にゆっくりと腰掛けた。真南人も夏川に合わせて隣に座ると、眼下に広がる景色は、秋の澄んだ空気によってよりクリアに、より心地良く瞳を潤わせてくれ、それが真南人の雑念を少しだけ和らげてくれた。 「綺麗ですね。ここ」  真南人は、気づかれないように深く深呼吸をすると、努めて明るくそう言った。  「そうだね。確かに、いい所ではあるよね」  夏川は、どことなく遠い目をしながら、秋色に染まるのを心待ちにしている山々に視線を向けた。 「お母さんに会いに、どのくらいの頻度でここに来るんですか?」 「え? ああ、できるだけ毎週顔を出すようにはしてるよ。特に大事な用がない限り」 「そうですか。でも、それって結構大変ですよね?」 「ううん。全然。母親のために自分の時間を割くことなんてまったく苦じゃないよ。まあ、ちょっと前までは誰かのせいにして、理不尽なこの状況を嘆いてばかりいたけど……でも、だいぶ慣れてきたっていうか、母親の介護を結構楽しいって思えるくらいにはなってるし……」 「本当に? 無理してませんか?」 「無理なんかしてないよ……ほら、さっき個室で母さん、いきなり俺のこと誰って言っただろう? あれなんかもう慣れっこだよ。最近じゃ、思わず笑っちゃうくらいだね」  そう笑顔で話す夏川の目は、決して笑っていないと真南人は思った。 「僕は笑えませんでした。すごくショックでした。夏川さんが、可愛そうで……」 「初めてだから。誰も最初はそうだよ。でも、徐々に慣れていくもんなんだよ。フレキシブルな自分を褒めてあげたいくらいにね」 「あまり無理しないでください。辛い時は辛いって僕に言ってください。僕は、あなたの役に立ちたいです」 「……言わないよ」 「どうして?」 「君を巻き込みたくない。これは俺たち家族の問題だ。今日、俺は君をここに連れてきてしまったけど、真南人君はもう二度とここに来ちゃ駄目だ」 「嫌ですね。僕は将来医者になるんですよ? その目線で夏川さん達に関わることには何の問題もないと思いますが。それに、僕自身のスキルアップにも繋がるし、絶対僕はあなたの役に立つ自信があります」 「そうかもしれないけど、分かってほしいよ。俺はもう、真南人君とは二度と関わらないって決めたんだから」 「そんなの嘘です。だったら何で僕をここに連れてきたんですか?」 「それは……そうすれば、君も諦めやすいと思ったから」 「思いませんね。その逆です。僕はますます夏川さんが好になりました」  夏川の顔が、みるみる困惑の色に染まり始めるのを真南人は見逃さなかった。でも、 その表情の裏には自分への強い思いがあると信じたい。   真南人はそんな期待を込めながら、更に強く思いを伝えようと心を決めた。 「好きです。あなたが。僕はずっと夏川さんを思ってました。夏川さんに会いたくて、会いたくてたまりませんでした。お願いです。僕を拒まないでください」  真南人は、夏川の目を離さず見つめ、そう懇願した。 「あのね、真南人君。君はまだ世間知らずな子どもなんだよ。君の告白は、気の迷いとか気まぐれとかじゃ済まないってことぐらい分からないの?」 「分かります。僕はもう十八ですよ? あなたは僕の何をそんなに恐れてるんですか?」  「何って、俺はただ……君の将来が」 「それは僕が決めることです。夏川さんが気を病むなんておかしいです」 「おかしくないよ! 俺には責任があるんだから。君をこっちの世界に引きずり込もうとしてしまった責任がさ!」 「だから、それは!」 「……やめてよ。喧嘩しないで」 「え?」  真南人と夏川は、驚いて共に声のする方に顔を向けた。 「やめて、瑠生。その子と喧嘩しないで。その子、あなたの大切な子なんでしょ? あなた私に言ったじゃない。自分に正直に生きたいって。忘れちゃったの?」 「母さん?」 「約束して。瑠生。あなたは絶対、自分に正直に、自分を大切に生きていかなきゃ駄目なのよ」 「か、母さん? どうしちゃったの? あなたは誰なの?」 「何を言ってるの。瑠生。あなたの母さんでしょ?」 「そんな、母さん、母さん!」  夏川は車椅子の前に膝まつき、母親の膝の上に顔を埋めるとそう叫んだ。真南人はそんな二人の様子をただ呆然と見つめた。 「行かないで。母さん。行かないで! このままでいてよ! お願いだよ!」  真南人の心に急激に這い上がった切なさは、夏川を背後から強く抱き締めたい衝動を起こさせた。でも、それを躊躇わせる二人だけの奇跡のような時間が、真南人をその場に縛り付け動けなくさせた。 「愛してる。私のかわいい瑠生」 「俺も、俺も愛してるよ! 母さん!」  想像しなくても分かる。おとぎの国の夢のような時間から不意に辛い現実に戻った時のダメージは大きい。でも、その時間が例え儚く短くても、夏川の心に強く刻まれたその言葉は、永遠に消えることなく、いつまでの夏川を勇気づけ励まし続けるに違いない。  気が付くと、何事もなかったかのようにあどけない少女の顔に戻り、夏川に我儘を言い始めた母親の姿を見て、真南人はそう強く思った。 「お腹すいたわ。ねえ、そこの。えーと誰だったかしら?」  夏川の母は、夏川を見て困ったようにそう言った。その豹変ぶりは、夏川の母の可愛らしさから、思わず自然と笑みがこぼれるような魅力を遠慮なくまき散らす。 「ほら。笑っちゃうだろう? ほんと、ついていくのが大変」  真南人を見て笑った夏川の目じりは、赤く滲んでいた。真南人はそれを見て、涙腺が一気に緩んだ。くしゃっと顔を崩しながら泣き笑いをすると、夏川が真南人の肩を抱き、優しく引き寄せた。 「ありがとう。真南人君。今日、君がここに来てくれたこと、本当はすごく嬉しかった」  夏川は、愛おしむように真南人の肩を撫でながらそう言うと、そっと手を離し、さっきからお腹が空いたと煩い母親を乗せた車椅子を、優しくあやす様に押し始めた。  真南人は、夏川に触れられた肩が、泣いていたことを忘れさせられてしまうほど熱くてたまらなかった。その熱をどこかに逃がしたくて、真南人は夏川に気づかれないように、そっと自分の手で摩擦を与えた。 「思ったより母さんの病気の進行が早くてね。そのせいで足腰の筋肉が徐々に衰えてしまって、こんな風に今は車椅子がないと生活できないんだ。それに、大学との両立とか、その他もろもろの面倒なことが重なって、正直、かなりしんどかったんだよ。だから、君を鎌倉駅前で見つけた時は、膝から崩れ落ちそうだった。嬉しくて、すぐに駆け寄って、思い切り抱きしめたかった」  真南人は何も言い返せなかった。それは、その先の確信的な言葉を、緊張と共に待ち望んでいるからだ。 「自分に正直に生きろって、母さんそう言ったよね? あれは空耳じゃないよね?」  夏川は、車椅子のグリップにぐっと力を込めるとそう言った。 「違います。僕もはっきりと聞きました」 「でも、自分を偽らず、感情のままに流されたら、俺はすごく後悔しそうだよ」 「……どうして、ですか?」  真南人はその言葉に不安を募らせる。 「だって、本当に君はそれでいいの? 俺のこの選択は、君の人生を大きく変えてしまうよ?」 「構わないと、僕は何度も言っています」  真南人は、夏川に自分の決心が伝わるよう、低い声でそうはっきりと言った。 「俺たちが付き合うってどういうことか分かる? 俺は真南人君と……そういう関係になりたいってことだよ?」   真南人はその言葉の意味を必死に考える。もしそれが、真南人の考えていることと同じなら、真南人はそれでも構わないと心から思う。何故なら、その覚悟はできているからだ。夏川を好きだと確信した時から、真南人はその運命に抗うことなく生きることを心に決めたのだ。それは、ひとつだけ欠けたジグソーパズルのピースをやっと手に入れたような満たされた幸福からだ。それが真南人に熱い血を滾らせ、生きる力を与えるのだということに、夏川はまだ気づかないのかと、真南人は心底じれったくてたまらなくなる。 「そういうって、具体的に何ですか?」 「え?」  真南人は、わざと夏川を困らせるような質問をして、夏川を揺さぶろうとする。 「そ、それは……だから」  夏川はその先の言葉をうまく伝えられず、もどかしそうに地面を見つめた。 「大丈夫です。夏川さんにだったら、僕は何をされても平気です」  真南人の言葉に、はっとしたように素早く顔を上げた夏川だったが、それでもまだ躊躇うように下を向いた。     真南人はそんな夏川の横顔に苛立ちを覚えた。夏川の横顔は憎らしいほど優婉で、それが余計に手に届きそうで届かない苦しさに拍車をかけられる。  その時、夏川がふっと歩みを止めた。そして、真南人の腕を掴み引き寄せると、そっと耳元に囁いた。 「分かったよ。じゃあ、ひとまず初デートでもしてみようか……」  夏川のその言葉に、喜びで全身が震えるという経験をしたのは、真南人はこれが生まれて初めてだった。 

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