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第2章

          6  園山ホームでの今後の介護プランについての会議があるとのことで、真南人は先に待ち合わせ場所の鶴岡八幡宮に向かった。時刻は既に十七時を過ぎていて、日が短くなったせいか、辺りは既に夕闇に暮れ始めていた。  真南人は、夏川に指示された通り、先に鶴岡八幡宮に向かい、そこで、遅れてくる夏川と落ち合う予定になっている。  真南人は今、ふわふわと宙を舞うような感覚に捕らわれていて、夏川との待ち合わせ場所に向かおうとしても、頭が思うように働かず戸惑ってしまう。  それでも何とか気合を入れて、鎌倉駅東口を左に進み、小町通りを通った。秋の行楽シーズンと三日連休というのも相まって、小町通りはこの時間でも割と観光客で混雑していた。真南人は、道の両脇に並ぶ土産物屋や食べ物屋には目もくれず、ただひたすら人を掻き分けながら鶴岡八幡宮へと向かった。  真南人は、鶴岡八幡宮の御利益が広範囲及んでいることを知っていた。神頼み的な感覚に捕らわれてしまう少女じみた自分を恥ずかしいとは思ったが、この時間を使って、自分と夏川の未来に何かしらの力を加えられたらという、そんな健気な気持ちが、真南人を目的地まで歩かせた。  本宮へ向かう正面入り口の赤い鳥居を潜り、まっすぐ歩く。既に薄暗くなっている境内には、明るいオレンジ色の灯籠が等間隔に並べられ、突然、神秘的な世界へと様変わりしたことに驚く。  途中に、急なアーチ型の石でできた橋のある池や、幼稚園などがあり、真南人はそれらを流し見しながら、本宮へと向かって参道を歩いた。  参道の真ん中に存在する舞殿という赤い屋根の建物の脇を通ると、長い石段が見えた。真南人は一瞬それに面食らったが、気合を入れて石段を上り始めた。  思ったより急な石段を登り切ると、目の前に、赤い朱塗りの本宮の門が現れ、そこを潜ると、鶴岡八幡宮の本殿が圧倒的な存在感を放ち建立していた。  本殿も全体的に情熱的な朱の色を放ち、細かな装飾に彩られとても美しい。特に、本殿に張り巡らされた長い回廊が特徴的で、真南人はその回廊に一瞬で心奪われた。  このライトアップされた幻想的な永い歴史の世界に酔いしれ、まるでタイムスリップしたかのような感覚に落ちる瞬間が、とても真南人には心地良かった。  真南人は、一通り本宮の外観を見て回ると、参拝をするために本殿正面に向かった。この時間でも参拝客は多く、皆一様に、芸術的な建造物に目を奪われている。  真南人は人がいなくなるのを待ち本殿の正面に立つと、拝礼作法の通り姿勢を正し、深いお辞儀を二回。続けて柏手を二回。最後にもう一度深いお辞儀をし、心を込めて参拝をした。  真南人は頭の中で、自分と夏川の希望ある未来や、夏川の母の病気の改善などを、欲張りなくらいたくさん願った。  夏川が来たらまた参拝をしよう。自分の願いが神様に届くように、何回でもしよう。  無意味かもしれない。でも、そんな無意味なことに一生懸命になってしまう自分に、真南人は今まで出会ったことがなかった。自分の中にそんな一途な感情が潜んでいることなど想像したこともなかった。でも、今確かに、そんな自分はここにしっかりと存在している。そのことが真南人は素直に嬉しかった。  一呼吸置いてから、入り口の赤い鳥居まで戻ろうと振り返った時、真南人のジーンズのポケットのスマホがバイブした。真南人は慌ててスマホをポケットから取り出すと、着信画面で夏川だと確認し、胸が高鳴るのを押さえながら、少しだけ震える指で画面をスライドさせた。 「もしもし」 「あ、真南人君?」 「はい」  「今どこにいるの?」 「え? ああ、鶴岡八幡宮の石段の上です」 「そうか、ねえ、そこで待ってて、俺が今から行く」 「え? はい、分かりました」  真南人はそう言い通話を切ると、石段の端に移動し腰かけた。本宮の脇に置かれた大きなライトが、暗くなってきた足元を照らしてくれる。真南人はその明かりが照らす石段を夢見心地で見つめながら、夏川が来るのを待った。  しばらくすると、石段の一番下に夏川の姿が見えた。本当に遠くからでも強いオーラを放っているせいで、夏川を見つけるのは容易いと真南人は心から思う。そんな人間と自分が心を通わせ合えた奇跡に、真南人は強い胸の高鳴りを覚える。  迷いはない。自分は夏川さんが好きだ……。  真南人はここで神様にでも誓うように、夏川への思いを大声で叫んでしまいそうで、その思いをぐっと心に押し込めた。  「はあ、はあ、結構きついね、この階段」  夏川は真南人の目の前まで来ると、苦しそうに息をしながらそう言った。 「このぐらいで? 夏川さん運動不足じゃないですか?」  真南人はからかうようにそう言うと、夏川は悔しそうに笑いながら、そっと真南人の手を握った。 「はあ、生意気言って……かわいくない」  ぎゅっと痛いほど手を握られ、真南人は、密着した夏川の皮膚が、自分の皮膚と溶け合うような、そんな官能的な錯覚を味わう。 「人に見られますよ」  本当は繋いだ手を離したくないのに、真南人は周りの目を気にして咄嗟にそんなことを言った。 「構わないよ。だって俺たち付き合ってるんだから」  夏川はそうきっぱりと言うと、『行こう』と言い、夏川を引っ張るように石段を登り始めた。   二人で本殿まで石段を登りきると、真南人と夏川は並んで本殿正面に立ち、一緒に参拝をした。夏川がどんなことを神様に願っているのか気になったが、真南人は敢えて聞かなかった。多分一番は母親の病気の回復だとそう思っている。でも、そうなるには新薬を作ることが先決で、やっぱり一番の願いは、認知症の完治薬を作れることかもしれないと、真南人は頭の中でぐるぐると一人考える。 「真南人君は何をお願いしたの?」  夏川にそう聞かれ、真南人は一瞬返答に困った。願い事の多さに自分の強欲さがバレてしまいそうで、真南人は『内緒です』と言ってごまかした。 「俺はね、願いというよりは感謝かな。神様。真南人君と出会わせてくれてありがとうございますっていう心からの感謝」  夏川の言葉に意表を突かれる。真南人は嬉しさを表すように拳をぎゅっと握りしめると、自分も同じだという思いを込めながら、夏川の顔をただじっと無言で見つめた。 「神様って確かにいるんだよ。俺は今それを実感してる……ねえ、舞殿に行こう」  夏川はさわやかな笑顔でそう言うと、また真南人の手を強く握った。  手を繋ぎながら舞殿の前まで来ると、橙色の明かりに照らされた舞殿が暗闇にぼんやりと浮かんでいた。そんな舞殿の前に立つ夏川は、はっとするほどこの場の雰囲気に溶け込んでいて、真南人は思わず引き寄せられるように見とれてしまう。   それはまるで、切り取られた一枚の絵の主人公のように雅やかで、真南人はそんな夏川をひどく遠くに感じ、少しだけ寂しい気持ちになった。  「あのさ、この舞殿って何だか知ってる?」  夏川が舞殿を指さしながらそう言った。 「え? ああ、多分、源義経の妾の静御前が、ここで舞をしたっていう……」 「そう! さすが秀才。すごいな。真南人君は」 「何ですか? 急に」 「いや、今すごく静御前の気持ちが分かるなって思って」  「は?」 「兄の頼朝と不仲になった義経がさ、鎌倉の軍政に追われて静と一緒に吉野山に逃げるんだけど、雪の中で離れ離れになっちゃってね、その間に身重だった静は、軍政に捕えられて鎌倉に連れて来られちゃうんだ」 「はい」 「鎌倉に着いた静は、頼朝から屈辱的な命令を受けるんだよ。この鶴岡八幡宮の舞殿で舞を披露せよって」 「ええ」 「自分は義経の妾の分際で、こんな目立つ場に出るなんて嫌だって最初は病を理由に断るんだけど、頼朝はしつこくてね。静はしょうがなくそれを承諾するわけ。でも、ただ舞うだけでは終わらないんだよ」 「終わらない?」 「そう。頼朝の前で、それは美しい高らかな声で、愛する義経を思いながら舞い唄うんだ。『吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋し』って」  「ああ」 「素敵だろう? もちろんそれは頼朝の怒りを買うわけなんだけど、でも、俺はそんな静御前が好きだよ。誇り高き静御前がね」  真南人の目に静御前が浮かんだ。白装束を身に纏い、艶やかに舞い踊る姿が。 「俺も恋しかったな。義経の死の知らせを聞いて生きる希望をなくして死んじゃう静御前ぐらい、すごく真南人君が恋しかった」  真南人は息ができなかった。夏川の告白に、心臓が押しつぶされそうなほどの痛みを感じる。   まるで押し寄せる波のような感動のせいで、真南人は、気の利いた言葉をすぐに言い返せない自分がひどく情けなかった。 「夏川さんの前世は、やっぱり有名人かもしれませんよ。静御前かも……」 「ああ、俺の前世がそれなりの有名人ってやつね。はは。だったら真南人君の前世は義経がいいな。ああ、でも、真南人君は全然武将って感じじゃないね」  夏川は、真南人をまっすぐ見つめると笑いながらそう言った。 「さてと、今日はそろそろ帰ろう。時間ができたら俺から連絡するよ。それまでしっかり勉強するんだよ。分かった?」  夏川は急に真面目な顔に切り替えると、そうはっきりと言った。 「……はい。分かりました。待ってます」  真南人は、夏川とずっと一緒に居たい気持ちを強く押し殺しながら、そう返事をするしかなかった。

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