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第3章

                               1  鎌倉で夏川と会ってからは、何度か電話で話をしたり、学校が終わった後に数時間程度カフェでお茶を飲んだりするぐらいしかしていない。たまに帰り際に、物陰に隠れてキスをしたこともあった。でも、唇が触れ合うぐらいの軽いキスばかりで、真南人はそれがとても寂しかった。夏川はいつも忙しく、恋人同士になっても特に何の進展もないまま時が過ぎることが殆どだった。でも、鎌倉でデートをして2か月が経った頃、やっと夏川からデートの誘いを受けた。真南人は夏川の言いつけを律儀に守り、自分からは電話をしていない。しつこくするような嫌われる行動を取ってはいけないと強く自分に言い聞かせ、真南人はそれを健気にも実行していた。でも、夏川に会えたとしてもいつも数時間程度しか一緒に過ごせないということに、真南人の中に夏川に対する不満が山のように積り、それと一緒に、夏川の自分に対する気持ちへの不安が、氾濫して濁流となった川のように真南人の心をいつも流れていた。  どうしてもっと時間を作ることができないのか。真南人は夏川に会ったら、それについてすぐに問いかけたかった。その時間は、真南人に会う機会を与えないほど貴重な時間だったのかを確かめたかった。自分を納得させる理由だったら、真南人は夏川の前で理性的に対応できる。でもそうでなかったら、真南人は自分に会うことを優先してくれない夏川に、自分はこんなにも寂しく不安だったことを強くぶつけてしまうかもしれない。  夏川は真南人が自分の部屋で勉強をしている時に電話をくれた。真南人は、着信画面を見るなり、いつものように飛びつくようにスマホを掴み、その勢いのままベッドへ仰向けで寝転ぶと、見間違いではないかと焦りながら、もう一度着信画面の名前を凝視した。 「もしもし!」  夏川だと確信すると、真南人はいつも、自分が今まで出した声の中で一番高いキーの声を出してしまう。 「真南人君、こんばんは」   電話口の夏川の声は普段通り落ち着いていて、特に変わった様子はない。だから余計自分の声が恥ずかしくて、真南人はベッドから立ち上がると、うろうろと部屋の中を歩き回った。 「ちゃんと勉強頑張ってる?」  夏川の声はとても優しくて、その声音に真南人の鼓動が急激に速くなる。 「は、はい。今も勉強してました」  真南人は、たかだかそう言うだけで声が震えてしまう自分に苛立った。 「そうか。えらいえらい。近くにいたら頭撫でてあげたいな」  夏川は可笑しそうにそう言った。  「……子供扱いはやめてください」  真南人は拗ねたようにそう言うと、電話口の夏川は、綺麗な声で『はは』と軽く笑った。  「今週に土曜日空いてる?」  そう突然訪ねられ、真南人は素早く頭を回転させた。 「はい! 空いてます! ちょうどその日塾は休みなので」 「そう。良かった。じゃあ、十時に日比谷の映画館まで来てくれる? 久しぶりにちゃんとしたデートしよう」  夏川はそう流れるように言うと、「おやすみ」と一言添え、真南人の返事を待たずに電話を切った。  あの日のやりとりをぼんやりと思い浮かべながら、真南人は地下鉄の日比谷駅の改札を出ると、一番近くにある映画館に向かった。その映画館の入り口で夏川と待ち合わせをしている。時刻はちょうど十時二十分前だった。真南人は、まだ夏川はいないだろうと思いながら入り口に向かうと、帽子を目深にかぶり、眼鏡をかけた夏川を、人ごみの中からいとも簡単に見つけてしまった。十二月初めの今日は、少し曇り空で寒い。黒のスキニーに黒のブーツ。そこにシンプルなベージュのコートを羽織っただけという地味な格好をしているのに、夏川はそれでも自分のオーラを消すことが難しいらしい。  真南人は、自分より早く待ち合わせ場所にいる夏川を眩しく見つめた。絶対に自分の方が先に着いて夏川を待つと思っていたのに。その予想外の展開に、真南人は夏川にどんな風に声をかければ良いか急に分からなくなった。本当は夏川に会ったらすぐに、会えない時間に何をしていたのか。その間自分に会えず寂しくなかったのか。どうしてもっと自分との時間を作ってくれないのか。そんな質問を矢継ぎ早にしてしまう自分を想像していた。でも、真南人以上に早く来て自分を待っている夏川を見たら、その気持ちは萎むように失せていった。  夏川は入り口の脇にある大きな柱に寄りかかるようにして立っている。さっきからずっとスマホを見ていて、顔は下を向いたままだ。  真南人は夏川に気づかれないように正面ではなく背後から声をかけようと決めた。わざと遠回りをして後ろから回り込めば、夏川に気づかれずに済むはずだ。  うまく人をかき分けて歩を進めると、真南人は夏川の後姿を見つめながら、ドキドキと自分を邪魔する心臓とともにゆっくりと近づいた。 「夏川さん」  真南人はそう言うと、夏川の肩をそっと叩いた。 「わっ、え? 真南人君? お、脅かさないでよ」  夏川は、首がちぎれんばかりの勢いで振り返ると、目を見開きながら真南人を見つめた。 「すみません。正面から声をかける勇気がなくて」  真南人はそう正直に答えると、実は怖がりかもしれないという、夏川の意外な一面を知ったような気がして、真南人は密かに興奮してしまう。 「はあー、もうびっくりしたよ。今度からそれやめてね」  夏川は帽子を取ると、自分の前髪を無造作にかき上げながらそう言った。その時、不意にまた香る夏川の香水の匂いに、真南人はときめきで胸がいっぱいになる。 「映画十一時から始まる予定なんだ。まだ時間あるから、ポップコーンでも買う?」 「はい。そうですね」  真南人はそう言うと、夏川をまじまじと見つめた。 「視力……悪かったんですね。眼鏡かけてるの初めて見たから」 「ああ、今日は目の調子が悪くてコンタクトじゃないんだ。でも、久しぶりに眼鏡かけたから、鼻の根本がムズムズするよ」  夏川はそう言うと、黒縁の眼鏡を外して眉間をマッサージする。 「似合ってます。凄く……」  真南人は零れ落ちるように感想を伝えた。まだ夏川に会ってから数分しか経っていないのに、真南人は魅力的な夏川の行動の一つ一つに心が揺さぶられてしまう。それはとても幸せなことなのに、そんな自分の余裕のなさに少しだけみじめになる。 「そう? ありがとう……よし、そろそろ行こうか」  夏川は嬉しそうにそう言うと、真南人の腕を掴み引っ張った。夏川に掴まれた腕すらも敏感に反応してしまう自分が嫌だ。真南人は心の中でそう嘆くと、夏川に引かれるがまま映画館の自動ドアを潜った。  映画は夏川がずっと見たかったものを二人で見ることになっていた。真南人はエンターテインメントな事柄にはひどく疎くて、この映画が、有名な海外の映画賞を受賞したことなどもちろん知らなかった。  館内は話題性のある映画ということで結構混んでいた。そのせいで、真南人と夏川は少し前の方の左端の席に座るしかなかった。   暗くなった館内で映画を見るというシチュエーションが、真南人の心を更に落ち着かなくさせる。  「この映画ずっと見たかったんだ。やっと見られて嬉しい。最近自分の将来のことで忙しくてさ、時間がなかなか取れなくて。でも、大変だけどすごく充実してるよ」  夏川は席に座ると、コーヒーを美味しそうに一口飲んだ後そう言った。 「……お父さんとの関係はどうですか?」  真南人はずっと気になっていたことを夏川に尋ねた。 「うーん、どうかな。取り敢えず和解はできたと思う。ちゃんと母親のことも謝ってもらえたし。ただ、まだぎこちないかな。まあ、真南人君が言う通り、それが当たり前なんだと思うようにはしてるよ」  夏川はそう言うと、ゆっくりと長い足を組み、気だるげに肩ひじをひじ掛にかけた。その優美な姿勢のまま夏川は、ひじ掛に乗せた方の指の甲で自分の顎を無意識に触り、その細長い白い指で、自分の美しい顎のラインをなぞっている。その一連の仕草はあまりにも自然で嫌味がなくて、真南人は目の前の男に、いつか幻滅する日が来るかもしれない可能性を頭の中で想像してみたが、全く上手くいかなかった。  自分はこんなにも夏川に恋をしている。その事実を悲しいくらい目の当たりにしている。夏川の一挙手一投足に心がときめき、息をするのも儘ならないほどに心を乱されている。とても幸せなのに、とても不安。この相反する感情が、真南人の『らしさ』である落ち着きを奪っていく。 「そうですか。でも、良かった……夏川さんが会社の跡を継ぐことを了解してくれたんですよね?」 「まあね。なんか、少しだけホッとしたような顔してた気がした……気のせいかもしれないけど」   照れ隠しなのか、夏川は真南人の顔を見ず、自分の足元見ながらそう言った。夏川の足元に視線を移すと、組んだ足がぶらぶらと揺れていて、それが真南人にはとても可愛かった。  映画が始まると、真南人は何回にも分けてジュースを飲んだり、ポップコーンを食べたりした。多分、かなり挙動不審な行動を取っているに違いない。だからか、夏川がそんな真南人の手をそっと握った。 「映画……つまらない?」  夏川は素早く真南人の耳に口を寄せると、囁くようにそう言った。 「え? つ、つまらなくないです」  真南人は夏川を悲しませたくなくて、慌てて自分も同じように夏川の耳元に囁いた。 「ほんとに?」  夏川はもう一度探るように真南人の目をじっと見つめる。 「はい。ただ、緊張してるだけです……夏川さんと映画を見ることに……」  真南人はそう正直に言うと、夏川の手をぎゅっと握った。 「俺も同じ……なんか内容が全然頭に入ってこなくて……」  夏川はそう言うと、真南人の手を指が交差するように繋ぎ直した。指と指の間が触れ合う官能的な感覚が、脳髄に一瞬で届く。この頭が痺れるような感覚は、自分の性的な部分にじわりと火を付けられている証拠かもしれない。真南人はそれに気づくと、自分の衝動を夏川に気づかれまいと、必死に理性を働かせる。   しばらくそうやって手を繋いでいたが、真南人は姿勢を正す振りをして、そっと夏川の手を解いた。ずっとこのまま夏川に手を繋られたままでは、本当に映画どころの話ではなくなってしまうし、夏川にとってこの程度の肌の触れ合いなど、自分のように動揺するほどのことでもないのかと訝しくなってしまう。  夏川は横目で真南人を見つめてきたが、真南人はわざとその視線に気づかないふりをした。   あなたは今何を考えていますか?    真南人は、夏川にそう問いかけたい気持ちをぐっと胸の奥に押し込めた。

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