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第3章
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映画を見終わると、遅い昼食を近くのレストランで食べた。建物の二階にあるその店の窓は大きく、行き交う人たちを見下ろしながら、真南人はミートスパゲッティを食べた。
夏川は昼食の途中に、今日は予定があって、17時には帰らないといけないと真南人に伝えた。その理由を真南人が問いかけようとした時、タイミングよく夏川が『トイレに行ってくる』と言い席を立った。
真南人は、『今日は帰りが遅くなったら友達の家に泊まる』と親に嘘をついて出てきた。母親は自分の口から出た友達という言葉に、驚いたように一瞬固まったが、嬉しそうに「分かったわ」と笑顔で答え、それ以上詮索はしてこなかった。
真南人は、自分のこの行動がひどく独りよがりで恥ずかしくなった。同時に、夏川の自分への気持ちに自信が持てず苦しくもなってしまう。真南人は夏川とすぐにでも性的な関係になっても構わないのに。映画館で、あんな風に自分の手を握り煽る夏川の曖昧な態度が恨めしくて、真南人は窓の外を睨むように凝視した。
子ども扱いをされているのかもしれない。自分は未成年だし、異性とも同性とも性的な行為をしたことがない。そんな未熟な自分を相手にすることに、夏川がもし後悔し始めているのだとしたら……。
「どうしたの? 食欲ないの?」
ハッとして正面を向くと、トイレから戻った夏川が自分を心配そうに見ていた。自分の皿の上にはまだ半分くらいのスパゲッティが残っている。
「い、いえ……食べるのが遅いだけです」
真南人はそう嘘をつくと、皿の上のスパゲッティを口に持っていく気力もなく、フォークでただいじって終わってしまう。
「もう14時か……次はどこで時間を潰す? どこか行きたいところある?」
夏川は既に食べ終えた昼食の皿をテーブルの端にどけると、スマホを手に持ち画面をタップし始める。
真南人はその様子を伺いながら、夏川に余計な心配をかけてしまうことを恐れて、皿の上のスパゲッティを無理矢理口の中に押し込んだ。でも、口いっぱいに頬張ったせいで、喉に痞えそうになるのを堪えながら、気合を入れて飲み込むことになる。
「慌てなくていいよ。ゆっくり食べな」
夏川はそう優しく言うと、スマホの画面に目を落とした。
夏川はずっと優しい。今日久しぶりに会ってからずっと。この優しさに涙が出るほど嬉しいのに、あと数時間もしたら、次いつ会えるかどうかも分からない不安に突き落とされてしまう。そう思うと、その優しさですら悲しみに変わってしまう自分の心が嫌で、真南人はやっと空にできた皿を涙目で見つめた。
真南人は夏川にバレないように下を向きさりげなく目じりを擦ると、自分の目から滲み出た液体を素早く拭った。自分が泣いていることなど絶対に夏川に知られたくない。
「……水族館なんてどう? ベタ過ぎる?」
夏川は少し照れたように真南人を見つめそう言った。真南人は慌てて笑顔を作ると、『いいですね』と素早くそう答えた。
「昔家族で行ったことがあるんだ。父親が忙しい人だから、家族で出かけることなんて滅多になくてね。ただ、母さんが凄く楽しそうだったのは良く覚えてる……水槽にへばり付くように目をまん丸くさせながら見てたんだよ。『ほら! 瑠生! 早く見て!』みたいに俺を煽ってさ。あの姿が今でも忘れられなくて」
夏川はスマホをいじりながら過去の思い出を吐露した。夏川の表情は無表情だが、その瞳には、過去の思い出を懐かしむ切なさが潜んでいるのが分かる。
夏川から『母さん』という言葉を聞くたび真南人は胸が痛くなる。子どもの頃の夏川が、自分の母親がいつか自分を忘れ、全くの別人のようになってしまうことなど想像するはずもないだろう。目の前の母親の愛に甘えているからこそ、時にその愛を鬱陶しく感じてしまったり、冷たくしてしまったりする。そんな当たり前の幸せが凄く貴重で大切なことなど、子どもの頃の夏川が気づくはずもないのだ。自分だってそうだ。こんな愛想のない息子にいつも変わらず世話を焼いてくれる母親に、自分は感謝の言葉を伝えたことがあっただろうか。母親のその行為は、世間一般的に当たり前のことであり、何も特別なことではないと驕っていた自分に改めて気づき、真南人はひどく情けない気持ちになった。
「良い思い出ですね。僕にはそんな思い出あったかな……」
自分も過去に思いを馳せてみる。でも、母親との思い出は辛うじてあっても、父親と出かけた思い出は全くない。父親はいつも、自分の仕事と関連付けた触れ合いしか真南人としてこなかった。それはそれで今更悲しいとかの感情はない。ただ、自分が今両親にできることをしなければいけない焦りの方が強い。両親が元気でいる間に、言葉と態度で感謝を伝えなければならない。絶対に後悔しないように。でも、そんな気持ちを目覚めさせてくれたのは夏川に出会えたからだ。真南人はちょっと前の泣いた自分を恥じた。夏川に出会えただけでも奇跡なのに、ましてや恋人同士になれた幸運を自分は全く謳歌できていない。ネガティブな感情にばかり捕われてしまい、今この瞬間を楽しむことができていない。
真南人は、今日という日を大切に過ごすために、余計なことは考えず心を無にしようと自分に言い聞かせる。それが自分にとっても夏川にとっても良いに決まっているから。でも、刻々と迫る夏川との別れが不意に頭を過ると、真南人に芽生えた前向きな心が、夜の朝顔のようにしわしわと小さく萎んでしまう。
「でも、これから思い出を作れば良いですよね。まだ、全然遅くはない」
それでも真南人は、自分の心に力を入れてそう言った。そうしないと、ネガティブな思いの方がやはりどうしても強くて、そんな自分の感情を夏川に気づかれてしまう。
「ああ、そうだよ。たくさん思いで作った方がいい。俺みたいに後悔しないように」
夏川はそう言うと、交互に握った両手に自分の顎を乗せ、真南人を正面から見つめながら、少しだけ苦しそうに眉根を寄せた。
「夏川さんだって遅くないです。今からでもたくさんお母さんと触れ合ってください」
真南人は心からの言葉を伝えているはずなのに、何となく気まずくなって、夏川から視線を逸らした。
「……そうだね。そうするつもりだよ。俺はいつだって真南人君の言う通りにする……でも、今日の真南人君、どこか上の空じゃない?」
「え?」
夏川は急に悲しげな顔をすると、正面に座る真南人の顔に自分の顔をぐっと寄せてくる。
「俺の言うことに、あんま興味ない気がする」
「そ、そんなこと、ないです」
真南人は、夏川に自分の気持ちを見透かされてしまったことに動揺し、オロオロしながらそう言った。
「嘘だ。本当は俺に何か言いたいことでもあるんじゃない?」
夏川は首をかしげながら真南人を探るように見つめた。
「い、言いたいことは……確かにありますけど」
「え? それは何? 教えてよ」
瞳を大きく見開きながら、夏川は椅子から立ち上がる勢いでそう言った。
「……水族館に行きたいということです。嘘じゃありません」
「……本当に? 絶対?」
テーブルに手を付きながら、夏川は更に真南人に顔を寄せると、訝しげな顔でしつこく見つめてくる。
「すぐに行きましょう。時間もったいないです」
真南人はそうきっぱりと言うと、コップの水を勢いよく飲みほした。
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