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第3章

          3  土曜日なのと都内の水族館だけあって、家族連れやカップルが多く、館内はとても込んでいた。夏川は楽しそうに目を輝かせながら、水槽に鼻先がくっ付きそうな勢いで水生生物たちを見ている。そんな無邪気な一面が愛おしくて、真南人はさっきまで感じていたもやもやした心を、一時的でも忘れることができた。 「子どもの頃行ったきりだから知らなかったけど、今の水族館ってこんなに面白いんだね」  夏川はそう言うと、通路の両サイドにある水槽を行ったり来たりしながら、慌ただしく動き回る。 「海にはこんなに沢山の生物がいるんだな。改めて地球って凄いな」  夏川が本当に感心していることが伝わるような小刻みな頷きが真南人にはおかしくて、思わず声を出して笑った。 「あれ? 珍しい。真南人君の笑い声、もしかしたら俺初めて聞いた?」  「あはは、そうですか……だって、夏川さんがおかしくて」  真南人は正直にそう言うと、夏川の脇に立ち、夏川が見ていた水槽を自分も覗き込んだ。 「だってほら、この魚なんか本当に綺麗だ。こんな素敵なデザインが遺伝子に組み込まれてるって、すごい奇跡だと思わない?」  夏川は黄色と青の縞模様の魚を指で指しながら、そう感慨深く言った。 「確かに……でも、それって魚だけじゃないですよね? 夏川さんの存在も、僕は奇跡だと思いますよ」  真南人は必死に魚を目で追っていると、まるで独り言みたいに、夏川の美しさに対する畏敬が思わず口から零れてしまい、ハッとして夏川の顔を見上げた。 「そんな大袈裟な。俺は何も特別じゃないよ。だからもうそんな寂しいこと言わないで」 「寂しい、ですか? ごめんなさい。そんなつもりじゃないんです」  真南人は、余計なことを言ってしまったと水槽に片手を付いて項垂れた。でも、夏川は素早く真南人の背後に立つと、真南人を挟み込むように水槽に両手を付いた。 「何で寂しいか分かる? 俺との距離を感じるからだよ。もっと俺を近くに感じてよ。俺は何も天空の人間とかじゃないよ?」  夏川は真南人の後頭部に唇を寄せると、熱を込めた声でそう言った。 「まだ慣れなくて……夢みたいなんです。夏川さんといることが」 「……そんなの、俺も同じだよ」  そう言って夏川は、真南人の手の上に自分の手をそっと重ねた。  その時、夏川のスマホが鳴った。シンとした館内にその通知音は良く響いた。夏川はポケットからスマホを取り出すと、素早く小声で電話に出た。  電話の相手が誰なのか、夏川は険しい表情を作ると、真南人に『ごめんね』とだけ言い、順路とは逆の方向に行ってしまった。真南人はこの電話が、夏川の母親の容体が急変したとかでなければ良いと心の中で強く願った。それだけは絶対に避けたい。夏川の苦しむ姿など真南人は見たくない。  数分待っても夏川は戻ってこなかった。不安になった真南人は、夏川が向かった方向へ行ってみることにした。水族館の入り口近くまで戻ると、広いロビーに夏川と見知らぬ男が話をしている姿を見つけた。でも、目を凝らして良く見ると、その男を真南人は以前に見たことがあるかもしれないと思った。  更に近づいてみると、二人は真南人の存在に気づき、ハッとしたようにこちらを見た。夏川と一緒にいる男は、あの日車の中で夏川にキスをした男だった。真南人はそれに気づくと、何ともいえない嫌な感情が腹の奥から湧いて来るのを感じた。  何故ここにいるのだろう……。  自然と浮かんでくる疑問に不安の影が過る。   「やあ、君が瑠生の新しい恋人? へー瑠生ってこういう子がタイプなんだ」  その男は真南人を品定めでもするように見つめると、驚きを隠せないような表情でそう言った。 「神崎(かんざき)さん。もう会わないって約束したでしょ? 帰ってください」   夏川は困ったようにそう言うと、神崎という男の肩を揺すった。 「大丈夫だよ。何焦ってんの? 瑠生らしくない。どうしても瑠生の恋人をこの目で見てみたかっただけだよ」  神崎という男は、夏川よりも小柄だが、仕事のできるスマートなサラリーマン風な魅力があり、大人の男という雰囲気が漂っている。 「どうしてここにいるのが分かったんですか?」  夏川は怪訝な顔でそう言うと、真南人の腕を引っ張り、真南人を守るように自分の後ろに隠した。 「……映画館で瑠生を見かけたらさ、デートしてるじゃん。俺、驚いて後をつけたくなったんだよ……安心しろよ。ストーカー行為は今回だけだから」  神崎は少し投げやりにそう言うと、ポケットから煙草を取り出し、ライターで火を付けた。 「ここ禁煙ですよ」  夏川は、神崎に冷ややかにそう言った。  「あ、そうか、つい癖で」  神崎は3回ぐらい名残惜しく煙草を吸うと、持っていた携帯用の灰皿で煙草を揉み消した。 「ねえ、君ってさ……もしかして高校生? 年いくつ?」  突然神崎が、真南人に向かってそんな質問をぶつけた。 「……はい。高校3年生です。18歳です」  真南人は神崎を見つめそうはっきりと言った。 「なるほどね。じゃあ、もう瑠生とはそういう関係なんだろう? 羨ましいな。俺はもう縁がないけど」  最初は質問の意味が理解できなかったが、真南人はその意味に気づくと、驚いて、夏川の背中越しに神崎を見つめた。 「そういう関係って……つまり」   真南人がそう聞き返すのと、夏川が神崎に詰め寄るのがほぼ一緒だった。 「神崎さん! もういいからマジで帰ってください!」  夏川は慌てて神崎にそう言うと、神崎の腕を乱暴に掴んだ。 「あれ? 俺変なこと言ったか? え? もしかしてまだなの? 俺とはあったその日に意気 投合したのに……真南人君18歳だろう? 何の問題もないじゃん」  神崎は夏川に掴まれた腕を振り払うと、嫌味を込めたようにそう言った。 「神崎さん! いい加減にしてください!」  夏川は、館内に響き渡るほどの大きな声で神崎を制した。   真南人は神崎の言葉に、嫌な疑問が自分の心に芽吹いてくるのを感じた。 「……そうか、そうですよね。何の問題もないですよね……」 「ま、真南人君?」  真南人に顔だけ振り返りそう言う夏川の背中を見つめながら、真南人はぼんやりと呟いた。 「僕は今日、友達の家に泊まるかもしれないって母親に伝えてきました……でも……初めから 意味なかったです」  真南人は自分でも自分の声をどこか遠くで聞いているように話している。心が冷え切ってし まい、感情が上手く機能していないみたいに。 「ごめんなさい。今日はもう、帰ります……」 「え? 待って! 真南人君!」  夏川は驚いたように後ろを振り返ったが、真南人はそれを無視すると、二人を置いて、水族 館の出口まで思い切り走った。  夏川に追いかけられないよう、水族館を出て、闇雲に雑踏を走っている間、真南人のスマホが何度も鳴った。相手が夏川だと気づいても真南人は電話に出なかった。出てしまったら、感情が爆発し、醜い自分を曝け出してしまうからだ。でも、そんなことを気にしてももう遅い。既に自分は子どもじみた行動を取ってしまったのだから。夏川と神崎を置いて、身勝手に一人で先に帰って来てしまったのだから。  神崎の挑発的な言葉に、自分は何故もっと冷静に対処できなかったのだろう。自分はあの時、神崎の言葉の何に一番傷ついたのだろう。  俺とはあったその日に意気投合したのに……。  神崎はまるで勝ち誇ったようにそう言った。でも、そこには恋愛感情などないはずだ。少なくとも夏川には。あの二人はお互いに利害関係で結ばれていただけだから。だからこそ出会ったその日に体だけの関係を結ぶことが容易にできたのだ。だから、夏川が自分をすぐに抱こうとしないのは、自分を大切に思っているからに他ならない。きっとそうだ。でも、そう思っても、心の奥からじわりじわりと不安が生まれてきてしまう。自分と夏川の温度差にどうしもない焦りが生まれる。自分はこんなにも夏川に抱かれたいのに。体で愛を感じたいのに。絶対に後悔しないという自信があるのに。そんな自分の気持ちを夏川はどうして気づいてくれないのか。その思いが憎しみに変わりそうなほど自分の中で炎のように燃え滾っていることに、真南人は、夏川から何度も電話がかかって来るスマホを見つめながら、胸が焼けるような気持ちになった。  落ち着け……自分たちは付き合い始めてまだ数カ月じゃないか……。  真南人は自分の脳みそを操るように、その言葉を呪文のように反芻する。落ち着かなければ。これ以上の夏川を悲しませるような行動を取ってはいけない。  真南人は自宅の最寄り駅の改札を出たら、自分から夏川に電話をしようと決意し、スマホの電源を切るとポケットにしまった。  改札を出ると、真南人はすぐにスマホの電源を入れた。ふと視線を上げると、外はもう黄昏に暮れていて、空には美しい夕焼けが広がっていた。中心の真っ赤な太陽の周りの空の色はクリーム色を濃くしたようなややオレンジ味がかった色をしている。真南人はその色を温かみがあって好きだと感じた。  ぼーっと空を眺めていたら、真南人のポケットのスマホが鳴った。着信画面を見ると、何回目だろう。夏川の名前が表示されている。 「もしもし」  真南人は重たい声で何とかそう言った。 「真南人君! 良かった……もう一生電話出で貰えないかと思った……」  電話の向こうの夏川は、溜息と一緒に言葉を吐くような話し方だった。それはとても夏川の安堵が伝わるような誠実さが滲み出ていて、真南人の目頭が一瞬で熱くなる。  「神崎さんとはあの後すぐ別れたよ……もう俺とはきっぱり関わらないって約束してもらった……嫌な思いさせてごめんよ」   夏川は真剣な声で真南人にそう言った。その言葉を疑う気持ちなど真南人には毛頭ない。ただ、自分がどうしてこんな行動を取ったのかを理解してもらいたかった。自分のこの強い情動を抑えることができないくらい、夏川と早くそうなりたいと思っているこの気持ちを、夏川に受け止めてほしかった。 「ごめんなさい……僕は今日期待していたんです……夏川さんに抱かれることを」  真南人は観念したように正直にそう言った。口で言えば早いものを、神崎に挑発されたことで、自分の心のもやもやが、もっと仄暗い大きな靄になってしまい、真南人は衝動的にあの場から逃げてしまった。 「……僕も言葉足らずのところがあるからね。昨日施設から電話があったんだ。母さんの介護プランを変更したいから相談したいって。だから今から園山ホームに行くよ」 「僕も……一緒に行ってもいいですか?」  真南人はひどくわがままだと気付いていても、思わずそんな言葉を漏らした。今日という貴重な時間を自分で台無しにしたくせに。その後悔が、今大きな波となって押し寄せてくる。 「遅くなるから駄目だ……ねえ、真南人君。俺が君に手を出さないのには、ちゃんと理由があるんだよ」 「理由?……それは何ですか?」  真南人は掴みかかるような勢いでそう問いかけた。 「それは……」  電話口で、少し躊躇うような間を夏川は作ると、はっと大きく息を吐いた。 「……今度また会った時に話すよ。ごめんよ。また俺の方から連絡する……」  夏川は、有無を言わせないような気迫さを込めた低い声でそう言うと、素早く電話を切った。

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