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第3章

          4  質素なクリスマスのデコレーションが施されている鎌倉駅のホームで江ノ電に乗り換えると、真南人は稲村ヶ崎駅に向かった。駅から降りて海岸に向かって5分ぐらいの所に、夏川家所有の別荘が在るからだ。真南人は駅の改札を出ると、海から吹き付ける冷たい風を頬に受けながら、夏川家の別荘を探した。  今日はクリスマスイブで、真南人は、冬休み期間中は大学受験の追い込みをしなければならなかったが、夏川からの誘いを断るつもりなど毛頭なかった。夏川との時間を優先しても、欠けてしまった勉強時間は、必死で徹夜でもして埋めれば良いと考えている。   夏川から連絡をもらったのは3日前だった。せっかくだからクリスマスイブを夏川家の別荘で、二人で過ごそうと言われた時は、舞い上がる程嬉しかった。ついに、自分の思いに夏川が応えてくれるのだと思うと、興奮と緊張で頭がおかしくなりそうになった。  寒さに耐えながらしばらく歩くと、それらしい建物を見つけた。夏川家の別荘は、大きさの違う長方形を上下に並べたようなシンプルな形で、窓が異様に大きいと言っていたから、多分この建物がそうだろう。良く観察すると、その建物は、意外にも金持ち特有の派手さはなく、落ち着いたコンクリート打ちっ放しの白い壁で施された、スタイリッシュな外観をしている。 真南人は、先に別荘で自分を待っている夏川に一分でも早く会いたくて、寒さでかじかんだ体のまま別荘に駆け足で向かった。  別荘の敷地に入り、玄関の前に建つと、真南人は逸る気持ちを抑えながら、手袋をした手でベルを押した。ほどなくして玄関のドアが開くと、室内の明るい橙色の明かりに包まれた夏川が姿を現した。ブルージーンズにノーブルなざっくりとした焦げ茶色のブイネックのニットを着ている夏川は、いつもよりもリラックスした、アンニュイな雰囲気を放っている。真南人は一瞬でその魅力に息を呑むと、ぎゅっと手袋をした手を握りしめた。 「待ってたよ」  夏川はそう言うと、玄関で靴を脱ぐ真南人に笑顔で微笑んだ。  真南人は脱いだ靴をきちんと揃え、コートを脱ぐと、「お邪魔します」と言い部屋に上がった。  細長い大きな窓のあるリビングらしき部屋に案内されると、真南人は夏川に促されるがまま、大きな艶のある黒いコーナーソファーに腰かけた。  白を基調としたリビングは、外観と同じコンクリート打ちっ放しの壁を真っ白く塗装しており、そのせいで、部屋の中は明るいが、真冬という季節もあってか少し寒々しさを感じる。でも、夏の季節に来たら、この大きな窓から一望できる海の景色の美しさがこの部屋とマッチし、きっと今以上に居心地の良い空間になることは間違いないだろう。  真南人は夏川にそのことを伝えると、夏川は少し眉根を寄せながら、「そう? 気に入ってくれたんなら嬉しいけどね」と、やや含みのあるような言い方をした。 「あのね、この別荘はね、ひどい自己満足な家なの。夏は暑いし、冬は寒いし。一日中空調してないと結露はひどいし、白カビは生えるし……今はそんことないかもしれないけど、この別荘を建てた当時は、コンクリ打ち放しの家は珍しかったからね。そのころの適当な建築技術で建てられた最高に住み心地の悪い家なわけ」 「そ、そうなんですか」  真南人は、一気に話す夏川の勢いに少し気圧されながら、そう返事をした。 「うちの父親の恥を真南人君にだけは晒すけど、この別荘を建てる時、とにかく見た目を重視した最先端のものにしてくれって有名な建築家に頼んでさ、もうびっくりするような設計料払って建てたんだ。でも、後でものすごく住み憎いって分かったら、ほったらかし状態」  「はは。よくある話じゃないですか?」 「真南人くんのお父さんもそう?」 「え? いや、うちの父親は仕事中毒ですから。別荘とかそういうものにはあまり興味がないと思います。それに、うちには別荘を建てる財力なんてありませんよ」 「そうなの? 病院の院長なのに?」 「ええ。今はどこの病院もだいたい経営難です。うちは、ひとつの治療に対し特化している病院なので、割と経営は楽な方ですが、それでも大変です。最新の検査機器などを導入するコストとか、人件費とか、嫌と言うほどお金はかかります」 「はー、真南人君は大人だ」 「は? そんなことないですよ」  「いや、そうだよ」  夏川はそれだけを言うと、キッチンの奥に引っ込み、しばらくして、ピザとチキンと、夏川が作ったのか色とりどりの野菜が乗ったサラダをテーブルに並べ始めた。最後に二つの綺麗なグラスをテーブルに置くと、「取り敢えずクリスマスらしいことする?」と言い、グラスを手に取った。 「アルコールじゃないよ。ジンジャードリンクだから安心して。俺のはウイスキーが少し入ってるけど。ほら、真南人君もグラス持って乾杯しよう。はい、メリークリスマス!」  夏川が元気よくそう言うから、真南人は慌てて自分も同じようにそう言いグラスを軽くぶつけ合った。  夏川は自分のグラスをテーブルに置くと、少し弾みを付けて真南人の隣に座り直した。   大きなガラス窓の向こうには広いテラスがあり、屋根に取り付けられている照明のおかげで、その先にある海がうっすらと浮かんで見える。 「海が見えますね」  真南人は、目の前の海をぼんやりと見つめながらそう言った。自分の飲み物にはアルコールは入っていないのに、まるで酔ったような気分になっている。ここで夏川と二人きりで居ることに頭が陶酔し始めている自分に、真南人は落ち着けと戒める。 「そう。それだけがこの別荘の一番の魅力だよ」  夏川は真南人を見つめ艶やかに微笑んだ。真南人はそんな夏川の形の良い唇に、自然と視線が奪われる。 「不思議だよ」 「え?」  真南人は夏川の声にはっとして、慌てて唇から目を反らした。 「今、ここにこうして真南人君といることがさ。とても現実とは思えない」  「そうですね。僕もそう思います」  自然と見つめ合うと、突然訪れた白い壁に吸い込まれるような静寂に、真南人の心拍数は急激に上昇し始めた。でも、その静寂を破るように、夏川がテーブルの上の取り皿を手に取った。 「さあ、食べよう……ああ、でも、こんなもんしか用意できなくてごめんね」  夏川は苦笑いでそう言うと、取り皿にサラダをよそいそれを真南人に差し出した。  しばらく二人でソファーに座りながら食事をした。最後に夏川が作ったというシフォンケーキに、マスカルポーネを混ぜて作った生クリーム添えたデザートを食べた。とても美味しくて、真南人は夏川に素直にそう感想を伝えると、夏川は嬉しそうに真南人の頬を軽くつねった。  気が付くと時刻は22時を回っていた。ここに着いたのは19時だった。ギリギリまで塾で勉強をしてからここに来たからだ。 「お風呂に入ってきていいよ」 キッチンで、夏川と一緒に食器の後片づけをしていた時にそう言われた。 「いいんですか?」 「いいよ。俺は真南人君が来る前にシャワー済ませてるから」  夏川はそう言いながら、手際よく布巾で皿を拭いている。 「分かりました」  真南人がそう言うと、夏川は皿を拭く手を止めて、バスルームまで真南人を案内した。  バスルームは、玄関正面の広い廊下を真っすぐ行った左奥にあった。下手すると迷ってしまいそうなほどの大きい別荘に、真南人はしみじみ夏川家の財力を思い知る。  風呂から上がりリビングに顔を出すと、ノートパソコンを目の前にした夏川がソファーに座っていた。夏川は真南人の存在に気づくと、ぐっと両手を伸ばし背筋を仰け反らせながら伸びをした。 「大学院に進もうと思っていてね。必要な自己アピール用の推薦書を書いてたんだ。少しの時間も無駄にできないから」  夏川はそう言って、パタンとノートパソコンを閉じると、ソファーから立ち上がった。 「さてと、寝室行こうか……」  夏川のその言葉に、真南人は、一瞬で油の切れたおもちゃのようにギクシャクとぎこちなくなる。  「は、はい……」  夏川は真南人に近づくと、真南人の手を取り寝室まで真南人を誘導した。その間真南人の足取りは宙を舞うようにふわふわしているのに、心の中は期待よりも不安の方が大きいというジレンマに襲われている。  二階にある寝室に入ると、この部屋にも海を一望できる大きな窓があった。部屋の中は丁度よく煖房が効いていて、夏川のさり気ない気遣いを感じる。  夏川は寝室に入るなり、真南人の腰を掴むと、ぐっと自分の腰に引き寄せた。体を寄せたせいで、耳元に感じる夏川の熱い吐息に、真南人は自分の体がまるで猫のように総毛立つのを感じた。 「真南人君……好きだよ」  夏川はそう言うと、片手で真南人の腰に腕を回しながら、もう片方の手で真南人の頬を優しく撫でた。 「僕も……好きです」  その言葉を合図に夏川は真南人にキスをする。いつもコソコソと隠れながら交わす軽いキスとは違い、今日のキスは、荒々しく舌を絡ませ合う激しいキスで、真南人はそのギャップに心と唇がなかなか追いつけない。  夏川は真南人の腰に回した手で、真南人の中心をいやらしくまさぐりながら、真南人へのキスを更に加速させてくる。  初めて他人に触られた自分の中心は、その初体験に委縮してしまったのか、逆に反応が薄くて、真南人はその事実に困惑の色を強めた。 「はあ、はあ、な、夏川さん……まって」  真南人は夏川の強い欲情に恐怖を感じ、力を込めて両手で夏川を押しやると、脱力したようにベッドに腰かけた。 「ご、ごめんなさい……僕……」  夏川は真南人をしばらく無言で見つめていたが、おもむろに真南人の脇に腰かけた。  「ねえ、真南人君」  真南人の横顔を覗き込むように夏川はそう言うと、真南人の肩を優しく抱いた。 「分かってたのに……バカだな俺は……自分を抑えられなくて……ねえ、真南人君。やっぱり俺は君を抱くことをやめるべきだと思う。君はまだ不安定な年頃なんだよ。後悔とかで真南人君を苦しませたらって思うと、俺はすごく嫌なんだ……」  真南人は夏川の言葉に驚き、夏川の顔を震える目で見つめた。迷いなどない。絶対に。自分は今日それを期待してここに来たのだから。自分の性の衝動は迷いなく夏川に向かっている。やっと迎えたこのシチュエーションで、そう問われた今の自分に迷いなどあるはずがない。夏川が自分を子ども扱いせず、その気になってくれた喜びしか今の自分にはないはずだ。でも、いざ夏川に強い欲情を突き付けられた時、真南人は少しの恐怖も自分が感じていないかを問うてみる。自分は本当に抱かれることが怖くはないのか。同性とセックスをすることに全くの抵抗はないのか。自分がゲイだということを認め、それを受け入れる覚悟を強く持っているのか。そんなすべての疑問が今、真南人の頭の中で混沌としている。 「ど、どうしてそんなこと言うんですか? このまま構わず僕を押し倒して抱けばいいじゃないですか! 僕は夏川さんにだったら何をされても平気だって」  真南人は、自分の少しの迷いが夏川に見透かされてしまったかもしれないと焦る。その焦りが電流となって全身にビリビリと流れるのを感じ、真南人はそれを逃がすように頭を振った。  嫌だと思う。このままここで何もないなんてやはり耐えられない。証が欲しい。夏川と自分を強く繋ぎ止める証が、やはり今すぐにでも欲しい。 「無理しないでよ……ねえ、俺の正直な気持ちを伝えてもいい?」 「気持ち?」  「そう。俺はね……待ちたいんだよ」 「は?」 「真南人君を待ちたいんだ」 「あ、あの、どういうことか、さっぱり意味が分からないんですが」 「あのね。今から俺の言うことを良く聞いてほしい。俺はさ、君が大人になるまで待ちたいんだよ。はっきり言うよ。それは一般的に二十歳ってことなんだけど。君はちゃんと大学に合格して、必ず医者になるための努力をするんだ。その間俺は自分の会社を継ぐための努力をする。実はね、俺、来月イギリスに留学するんだよ。会社を継ぐにはもっとスキルアップが必要だからね。期間は1年半ぐらいかな……」 「な、夏川さん? 何を言って……」 「それまで俺は真南人君と会わない。君の気持ちから完全に迷いが消えるまで」 真南人は夏川の言葉に激しく耳を疑った。   「まだ、早すぎるんだよ。君はもう少し冷静になって、自分のことをゆっくり知る必要があるんだ。そうでないと俺は、不安で君を抱くことなんてできない」 「そんな……」 「早く大人になってよ。真南人君。そしてまたここで会えばいい」 「え? な、何でそうなるんですか? 何でいきなり……」  真南人は、信じられないというように、夏川の両肩を強く掴んだ。 「もしかしたら、その間に真南人君が心変わりをするかもしれないよね? でも、俺はそのリスクを承知で、君の俺への気持ちを確かめないと不安でたまらないんだよ」 「そ、そんな、だ、だって僕が二十歳になるのはまだ先で、や、やっとこうやって、二人でここにいる機会を得られたのに! そんなの、僕には耐えられないです!」  「耐えてよ。そして、ここでまた会おう。絶対に待ってるから。俺を信じてよ」 「嫌です! 夏川さん! 僕は嫌です!」  真南人は、頬を伝う涙を乱暴に拭いながら夏川に訴えた。涙は、真南人の体の水分をカラカラにしてしまうほど溢れてきて、止まることを知らない。 「夏がいいな。真南人君と俺が出会った夏がさ。あのね、ここから見える夏の海は本当に綺麗だよ……あ、そうだ、真南人君。誕生日っていつ?」 「え? は、八月三日ですけど……って、何なんですか? そんなこと今はどうでも」 「嘘! 本当に? じゃあ決まりだよ。真南人君の二十歳の誕生日にここでもう一度会おう。きっとすごく素敵だよ。ここの夏は本当に最高なんだ」  瞳を輝かせながら話す夏川とは対照的に、真南人の心には深い悲しみの沼が広がっている。そんな沼を抱えたままでは、多分自分は、夏川に会えない一年半をまともに生きてはいけないだろうし、自分がすべきことに前向きに取り組めないかもしれない。でも、それでは駄目だ。そんなこと、自分も夏川も望んではいないのだから。 「本当に、待っていてくれるんですか?」  真南人は、悲しみを心の奥深くに押し戻しながら、絞り出すようにそう言った。 「……ああ。もちろん。でも、真南人君の方こそ、またここに来てくれる?」 「当たり前じゃないですか。夏川さんは僕がどれだけあなたのことを好きだと思ってるんですか? 本当に何も分かってない」 「分かってるよ。分かってるからこそ俺は、君を簡単に手に入れちゃいけないんだよ」  そう言って真南人をまっすぐ見つめる夏川の目には、懇願しても無駄だと絶望的に思わせる、強い意志が煌めいていた。  真南人は、揺らがない夏川の意志を確信すると、自分の内側からも、寂しさを凌駕してくれるかもしれない熱が生まれるのを感じた。それはやはり、自分のやるべきことへの誇りであり、それ以上に、夏川にもっと認められ、必要とされたいと願う感情に、じわじわと火が灯されたからだ。  真南人は意を決したように夏川を見上げた。 「いつまでも忘れられないような、キスをください……」  真南人は涙で濡れた目を細めながら、夏川の頬を両手で優しく包み込み、引き寄せた。そして、一生忘れ得ぬほどの思いを込めて、夏川の唇の感触を、自分の唇に強く、強く記憶させた。

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