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第4章

          6  別荘に鍵を掛け、夏川のジープに二人で乗り込んだ時には、既に夕方の六時を過ぎていた。夏の夕方は明るく、海に浮かぶ太陽は名残り惜しいようにまだ姿を見せている。  国道一号線を通って、わざと時間をかけて帰ろうと夏川に言われた時は、胸が苦しくてたまらなかった。少しでも長くいたいと思う気持ちはやはり夏川も同じなのだと思うと、嬉しさと切なさが同時に真南人の心を揺さぶり、この先、どんな心持ちで夏川と付き合っていけば良い分からなくなり、結局真南人は、また悶々混迷してしまう。  夏川は慣れた手つきでハンドルを握ると、喉が渇いているのか、ペットボトルの水を一口飲み、それを真南人にも渡した。 「ありがとうございます」  そう言って素直に受け取ると、真南人も水を一口飲んだ。間接キスなんて今更だが、こんな何気ないやり取りに二人の距離の近さを改めて感じ、それが真南人の心を少しだけ癒した。 「あのさ、俺、多分今が人生で一番忙しい時期かもしれない」  「え?」  「母さんにもあんまり会いに行けなくて……そのぐらい会社を継ぐってのは、半端じゃなく大変なんだよね」 「……後悔、してますか?」  「え? 後悔? 俺が?」 「……はい」  「してるよ。だって忙しすぎて真南人になかなか会えないかもしれない……あ、ねえ、それだけが後悔ってことだよ。意味分かるよね?」  そっと熱のこもった手で握られ、真南人の心臓はキリリと痛くなる。  「たった三日間の休みを取るのも一苦労だったんだよ。覚悟はしてたけど、何が一番辛いって、それが一番辛い」  夏川はそう言うと、握っている手にぎゅっと力を込めた。 「一年半年ぶりに会えても、僕たち二人の関係はそんなに変わらないってことですか?」  真南人は、辛い思いを心に押し込めたような、とても低い声でそう言った。 「それは全然違うでしょ。そんな悲しいこと言わないでよ」  夏川は、綺麗なおでこに苦しそうに深い皺を刻ませた。 「だって僕は一秒たりとも瑠生さんと離れていたくない!」 「分かってるよ。それは俺も同じだよ。でも、お互いに会いたいと思えばいつだって会えるんだよ。努力して時間を作ればいいんだから」 「じゃあ、瑠生さんは平気なんですか? 僕に毎日会えなくても? 僕は駄目です。今だって離れたくない。ずっとずっと傍にいたい」  真南人は夏川の手を握り返すと、そっと自分の頬にその手を重ねた。  「怖いんです。今日瑠生さんに会って、僕はあなたにひどく執着してしまう。自分を見失いそうで……とても怖いんです」 「……危ないよ。運転。手、離して」  夏川の言葉を聞いて、真南人ははっとして手を離した。  「ご、ごめんなさい。僕、どうかしてます。寂しくて……ほんと、ごめんなさい」  そう言って真南人は俯くと、膝の上に置いた拳を僅かに震わせた。 「あのね。俺さ、今とても大きな夢を抱いてるんだ。それはね。真南人が俺に言ってくれたことそのままだよ。覚えてるでしょ? 新薬だよ。アルツハイマー型認知症の。それを俺の会社で作りたいだ。でも、それを可能にするには莫大な資金が必要なんだよ。もちろん、海外の製薬会社に比べたら、うちの開発費なんて比べものにもならないんだけどね。でも、うちの会社はね、今までにも、研究開発にエネルギーを多く注ぐことで、国際的に通用する画期的な新薬を作ることに成功してきたんだよ。今でも、その研究開発に特化した企業理念は何も変わらない。だからこそ、ジェネリック薬をこれからも作るつもりはないんだ」 「それは……特許を取るためですね?」 「そう。でもね、うちの会社の売り上げの多くを占めてる薬の特許がもうすぐで切れるんだよ。これって会社にとってものすごいダメージなんだ。売り上げが減って、資金が足りなくなったら、俺が作りたいアルツハイマー型認知症の新薬を作ることができない」 「……ええ」 「だからこそこれから俺は、資金を得るために必要な勉強を必死でしないといけないんだ。例えば、M&Aを展開させるとか、事業活動のグローバル化だとか、株式を上場させるとか、次期社長として俺にその采配が委ねられてるのって、ものすごいプレッシャーだけど、すごくやりがいがある……あのね、医薬品の研究開発ってさ、不確実性が高いっていうか、運に頼る部分が大きいんだよ。だから、リスクを恐れず挑戦しないと、新薬を導出することはできないんだ」 「……あ、あの、僕、あの時すごく無責任なこと言いましたよね? 瑠生さんの会社の情勢も知らず、簡単に新薬を作れだなんて」 「ううん。違うよ。真南人があの時言ってくれたから、俺は今生きることが楽しくてしょうがないんだよ。新薬を作るっていう、目指す目標を持てたことが本当に嬉しいんだ。それって、真南人のおかげなんだよ」  夏川は、運転をしながらも強い思いを伝えたいのか、真南人を横目で見つめた。 「僕、以前父に、瑠生さんとは友達なんだって話したんです。そしたら父が、瑠生さんと僕が違う立場で繋がって、アルツハイマー型認知症をこの世から根絶できたらこんな素晴らしいことはないって、そう言ってくれたんです」  真南人はその時の父親の真摯な顔を思い出し、また胸が熱くなる。でも、その言葉の意味がどれほど深く真南人と夏川を結びつけるか、真南人の父はそれをまだ知らない。 「嬉しいな。真南人と同じ方向を見て頑張れるって、すごく幸せだ」  そう言うと夏川は、握っているハンドルにぐっと力を込めた。 「僕も早く医者になって精一杯頑張ります。たくさんこの病気の患者と接して、勉強して、ずっと、ずっと、瑠生さんの役に立ちたい」 「そうだよ。俺達はしっかり繋がってるんだから。寂しさになんか負けないんだよ」  夏川はまるで幼い子どもにでも言い聞かせるように、とんとんと軽く真南人の手を膝の上から握るように叩いた。  車の助手席の窓から外を見ると、海はとっくに遠くに追いやられ、コンクリートの道路は、都会的な冷たさを放ちとても無機質だった。この無機質な道路をずっと走れば、夏川と一旦別れることになる。今度いつ会えるかなんてお互いに分からない。でも、今、真南人は、喜びと希望で満たされていて、さっきまで感情的に乱れていた自分の心が、穏やかに変わっていることに気づく。 「……お母さんの容体は、いかがですか?」  真南人は、ずっと気になっていたことを今がチャンスだと思い問いかけた。 「薬がやっと体に合ってきたのかな。意外と病状は停滞したままなんだよ。多分、人の力が大きいんだと思う。父親が結構まめに施設に通ってくれてね。根気良く母親に話しかけてるんだ……笑顔なんかたまに見せてくれると、我慢できなくて二人で泣いちゃうんだよ。情けないね」 「……ああ……そうですか。それは、本当に、良かったです」  じわりじわりと胸を熱くする感慨深い感情が込み上がってくる。それは、夏川と父親の関係がきっと良い方向に向かっているに違いないから。そして、病に侵されているはずの夏川の母親の心が、未だに人の愛によって反応することに、心から感動したから。  「人の力は偉大です。愛に勝るものなんて、この世にはないんですね。きっと」 「そうだね。本当にそうだね……」  夏川は何度も何度も頷くと、「お腹すいたなー。途中でラーメンでも食べない?」と、突然何の前触れもなくそんなことを言った。  真南人は笑顔で頷くと、「いいですね」と明るく返事をし、運転中の夏川の凛とした美しい横顔を、そっと愛おしく見つめた。

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