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第75話 河野よ。

 喉のところを狭くして、ぎゅって、言いたいことを言えなくする。  ねぇ、あのね。  って、言いかけた言葉を飲み込んじゃう。  そんな感じ。  なんて言ったらいいんだろう。なんかさ――。 「わ、外……さむ……」  お店を出て、そう思わず呟いた口元を真っ白な吐息が覆った。この辺りは繁華街っていうほど飲み屋さんが連なってるわけじゃない、どちらかというと住宅地って感じ。駅もこの時間帯だと入る人よりも出る人の方が多く。そしてその足取りは急いでいる。  その中、早くうちに帰りたい人たちとは逆、駅の改札を通って、そのまま電車へ。いくつか駅を通って、たどり着くと、さっきまでとは一変した忘年会シーズンを迎えている賑やかな駅の雰囲気が広がっていた。  待ち合わせはお店が終わってからの時間、九時半、だって。  今年最後の営業日は少し早めに上がって、大掃除っぽいものをした。今まで、大きい企業のアパレルメーカーだとお正月は出勤だったから、なんか、大晦日とかにお休みなのが少し不思議な感じがした。  旭輝も実家には戻らないんだって。  そう言ってた。  ――忙しいのを知ってるからな。それに実家に戻るとなるとかなりの長旅で大変なんだ。田舎だから。  だから今年のお正月は戻らないって。オフシーズンにゆっくり帰るからそれでいいって言ってた。 「聡衣」  だから、数日、二人っきりで過ごすことになる。 「仕事、お疲れ」  二人のお正月に。  旭輝だけ、まるで浮き上がってるみたいに、こんな人が大勢いる場所でもすぐに見つけられちゃうのって……すごいよね。 「悪いな、疲れてるのに」 「ううん」 「河野は店に待たせてる」 「うん」  待ち合わせた場所には旭輝が一人でいた。コートに身を包んで、寒そうにポケットへと手を突っ込んで。俺を見つけると手招いて、微笑んでくれる。  そんな旭輝の一つ一つにドキドキしたりして。 「寒かったろ」 「ううん。旭輝こそ」 「俺は平気だ。一日、のんびり掃除してただけだから」 「大掃除、俺もやったのに。明日から、になっちゃうけど」  旭輝がまたふわりと笑って、いいんだよって、優しい声で言ってくれる。  その笑顔にさ、胸のとこがキュってなる。  そして、触れたいなぁって思う。  旭輝に触りたくなる。 「ここから近い飲み屋だから」 「あ、うん」  颯爽と先を歩く旭輝の背中を見つめながら。 「……」  もっと触りたい。  もっともっとって、そう思った。 「聡衣?」  女の人ってさ、そういうことって言わないのかな。もっと慎ましいもの? 俺が男だからなのかなぁ。 「……ううん」  自然と少し先を歩いてエスコートしてくれる背中を見つめてた。お姫様みたいに扱われて、嬉しいけれど、でも、頭の中は色々考えて、言葉がぐるぐるって胸のところで小さく右往左往してるんだ。そして、忙しなく動き回る言葉たちを上手に捕まえることができないまま、唇をキュッと結びながら駆け足で旭輝の隣に並んだ。 「いや、なんで俺、わざわざこの席にお呼ばれしてんだ」  同僚の悪い人、じゃなくて河野がものすごく不服そうな顔をしてそう呟いた。 「河野には多少世話になったからな」 「してないだろ」 「したんだ。枝豆、追加でいいか?」 「あぁ。塩昆布和えの方がいい」 「わかった」 「じゃなくて! 俺が年末のこのクソ忙しい中、なんで久我山と酒を飲まないと行けないんだって訊いてるっつうの」  飲み屋さんに辿り着くと、やっぱりただの飲み屋さんじゃなくて、ちょっと高級な和風レストランへと通された。 「いいだろ。別に。それにそういう細かいところをネチネチ突くから、後輩に煙たがられるんだぞ」 「別に煙たがられたって気にならないね。ネチネチ突かれるような議案書を提出してくる方が悪いんだろうが」 「……確かにな」  旭輝は不敵に笑うと、シックな着物姿のスタッフへテキパキ追加の注文を伝えた。  俺はエリート同士のハキハキとした会話を見学してた。 「それにちゃんと仕上がってる議案書にはネチネチ突っかかったりはしていない」 「まぁな」 「残念なことに、お前が作った議案書にもネチネチ突っかかったりしたことはない」 「そりゃそうだろ。悪い、場を離れる」 「はいはーい。その間に彼氏、襲おうかな…………睨むなよ。しないって、そんなこと」  ヘラヘラ笑いながら手で払うような仕草をしてから、生ビールを一気に半分まで飲んだ。  旭輝は俺の頭をぽんって撫でてから立ち上がり、多分トイレ、かな。どこかへと向かっていった。 「「……」」  同僚の悪い人、河野と二人っきりに、なっちゃった。 「…………上手く行ったんだ」 「あ、うん」 「まぁ、それはそれでありがたいけどな。久我山はずっとふらふら目の前をうろついていたから鬱陶しかったし。そこで身を固めてもらえたら助かる」 「……」 「それにしても仲良さそうで」 「……河野ってさ」 「は? なんで、呼び捨てなんだ」 「河野っていい人、だね」 「はぁぁぁ? どうしてそうなるんだっ」 「だって」  今、そう言ってた。旭輝がふらふらしてるの気にしててくれたんでしょ? 「俺、この前、会ったじゃん。飲み会の帰りに遭遇した、あの時だってさ」  好きな人がいるって教えてくれた。ずっと好きな人がいるんだって。あれだって、俺にそれが誰なのか教えてくれようとしてたのかなぁって思った。なんとなくだけれど。 「最近、雰囲気変わったからさ」 「……ぇ?」 「あいつ、最近、雰囲気が変わった」 「……」 「だから、最近、できた恋人っていうのが、ずっと大昔にあいつがほざいていた、かの方、何だろうと思っただけ」  そこでさっき頼んだ、塩昆布和えの枝豆が到着した。同僚の悪い人はそれを楽しくなさそうにしながら、でも、パクパクと勢い良く食べていく。 「同期の中で評価が高いあいつに旨味十分の結婚なんてされて、ダントツのエリート街道を突き進まれるより、旨味ゼロの君とくっついてくれれば、俺の今後のエリート街道の前方を歩く奴はもう誰もいない。俺はお陰で出世街道を第一位で突き進める。そんなわけで君とくっついてくれるのが一番、俺にとってメリットがあったんだ」 「……」 「だからなだけだよ」  雰囲気、変わったの? 「どんな感じ、だったの?」 「あいつ? あいつは、そうだな。大先生の愛娘の一件の直後、秘書の蒲田さんが騒ぎ出したくらいか、その頃から急に毎日ニコニコニコニコ。かなり気持ち悪かった。それで察したんだ。俺は優秀だから」 「……うん」  そう、なんだ。ニコニコ、しててくれたんだ。 「そんなに違ってた?」 「まぁね」 「俺に会ってから?」 「あぁ、しつこいなぁ」 「じゃあ……さ」 「あ?」  ずっと、もやもやしてた。旭輝に言いたいことがあるけれど、でも言葉は胸の内を走り回ってばかりでちっとも大人しくなってくれなくて、その駆け回ってる言葉を上手に捕まえられなかった。だから、なんて言ったらいいのかわからなくて。わからないから、旭輝に「ねぇ」って話しかけられなかった。  言いたかったのはね。  旭輝に言いたかったけれど駆け回ってばかりで捕まえられなかった言葉はね。 「じゃあ、俺って、嫌われたりしない、かな」  こんなこと言ったら嫌われたりしない? って、訊きたかった。  女の人ってそういうの言わないものなのかなぁって。知らないからさ。男女間でのそういうの。だから、男女間しか知らない旭輝に、男の俺が欲しいものを口に出したら驚かれるかなって。  引……いちゃったりしないかなって。  そう思ってたんだけど。 「はぁ? なんで」 「まぁ、色々と」 「…………ないだろ」  河野に退屈そうに返されちゃった。 「あれだけ、嬉しそうにして? ないね。長年、思っていた、かの方のことそうそう嫌いになるなら相当なことしなくちゃ無理だろうな」 「……」 「なんか知らないけど」 「……ね、河野」 「はぁ? だから、どうして君に呼び捨てに」 「かの方、とか、言い方、ちょっと面白いよ」  そこでおいって怒り出すのが面白くて、笑っちゃって。  やっぱ、良い人って言ったら、もっと怒ってて。  こんなに面白い人ならもう名前、忘れないかもって言ったら、一度会った人間の名前も覚えてないなんて、って、河野が呆れてた。

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