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第102話 ノンシュガーチョコレート

「今日は、ごめんね。残業させちゃって」  国見さんが申し訳なさそうに整った顔をくしゃっとさせてる。  今日はバレンタイン当日だから、例えば、ケーキ屋さんみたいにその日に買わないといけないようなお店は混んでいるかもしれない。でも、国見さんのところは賞味期限があるわけじゃないから、そう混まないだろうって思ってた。でも予想は大外れ。すごく混んでて、ちょっと自分の終業時間に仕事を終えてしまうには、お店の中が雑然としすぎていて。 「恋路を邪魔しようとしたわけじゃないからね」 「っぷ。大丈夫です。ちっともそんなこと思ってなかったですよ」  バレンタインに帰りを遅くして恋人と過ごす時間を減らしてしまおうなんて、国見さんが企んで、俺に残業を……なんてちっとも考えてなかった。 「それに旭輝も仕事なので」  官僚のお仕事はいつだって大変そう。それでも優秀な旭輝は早く帰って来れてる方なんだって、本人が言ってたけれど。そんな早くに帰れる方が本来はとても珍しいって。 「あ、そうだ。蒲田さんに会ったんです」 「へぇ、忙しそうにしてた? 最近、なんだか連絡あまり取ってなくて」  この場合、ブラコン……とかじゃないよね。叔父と甥だもんね。でも兄弟みたいに……いや、どうだろ。うち一人っ子だからわからないけど、兄弟以上に仲がいい……ぁ……もしかして、蒲田さんの恋の……。 「はぁ、この前も佳祐が好きなお菓子を買って持って行ってあげようと思ったらいなくてね」  蒲田さんが今、恋してるのって、まさか。 「一緒に食べようと思ったんだけどね。僕も佳祐も甘いものに目がなくて……」  あ…………違った。  なんだ、一瞬、国見さんを好きになっちゃったのかと思った。でも確か、甘いの大丈夫かな、みたいなこと、あのお店で呟いてたもんね。じゃあ、違う人なんだ。 「そうなんですね」 「そう、元気そうにしてた?」 「はい。チョコレート一緒に選んだですよ」 「え?」 「テレビで紹介されてた有名店に行ってみたら、そこでバッタリ。こんな偶然あるんだなぁって驚いて」 「…………えぇっ?」  国見さんの第一印象は柔らかくて余裕のある大人の男って感じ。でも、今の声はそんな国見さんの第一印象がガラガラと音を立てちゃうくらいに大きな声で。 「佳祐がチョコを?」 「は、い」 「この時期に?」 「え、ぇ」  あれ? 「バレンタイン前に?」 「そ、です」  もしかして、国見さんに言ってない……っぽい? 「聞いてない!」 「そ……みたい……ですね」  なんか、ごめん……蒲田さん。  絶対に話してると思ったんだ。国見さんと蒲田さん、秘密なんてお互いの間になさそうに思えるくらいすごく仲が良いと思うから。  だから蒲田さんがチョコを渡す相手のことも聞いてるだろうって思ったんだけど。  まさか知らないなんて。  めちゃくちゃ慌ててた。国見さん。そんなの聞いていないって言って、これは佳祐に連絡をしなくちゃって。  心配性っていうか。過保護っていうか。 「後で……俺、蒲田さんに怒られるかなぁ……」  余計なことを言いましたねって、ものすごおおく睨まれそうだなぁって思いつつ、けどそのおかげで残業も短くなって終わってくれたし。  もう旭輝は仕事を終えたかな。 「……」  カバンの中にしまっていたスマホを取り出すと通知が来ていた。  旭輝から。  今日は急遽の仕事が入って帰りが遅くなるって、メッセージが残されていた。日付、変わらないうちに帰れるとは思うからって。俺が仕事中はスマホを見ないって知ってるから、返事がなくても気にすることなく小刻みになったメッセージが連なって残されていた。  日付が変わる前には、なんて、すごく忙しそう。  なんか、急な仕事が入っちゃったのかな。エリートの中でも優秀な旭輝でも手こずっちゃうような仕事がさ。 「……」  差し入れ代わりに持ってったら、ダメかな。  すぐに帰るし。  チョコ渡すだけ。部屋で待ってればいいのわかってるけど。俺が寝ずに待ってれば帰ってくるじゃん? 一緒に暮らしてるんだし。でも、チョコ、って、ほら、エジプト時代には薬みたいなものだったってあのお店にも書いてあったし。仕事で疲れた時にちょっと食べるとさ、元気になれそうじゃん。  だから……。  ただ会いたいだけだけど。  顔が見たいだけなんだけど。  行ってみようかなぁって。  旭輝にメッセージ送って、ちょっとだけ外に出ることってできる? とかって訊いてみてさ、すぐに返事がなかったら、なんでもないや、うちで待ってるねって言ってすぐに帰ろう。もしも、外に少しなら出られるって言ってもらえたら、そこで渡して、そしたらすぐに帰ろう。  すぐに。  帰れば、よかった。  お店を出て、マンションとは逆方向に歩いて、五分、かな。早歩きしちゃったから。そこから駅いくつか電車で行って、また少し歩いて。所要時間三十分くらい。 「…………」  うちに帰って待ってればよかったな。 「………………」  旭輝とは偶然がたくさん重なって付き合うことになったけど、ホント、偶然ってたくさん重なるんだね。  ビルからちょうど旭輝が出てきたところだった。 「…………」  女の人と一緒に歩いてるのを見つけた。  職場のビルからじゃなくて、その向こう側から歩いて来た。  あの甘い香りのヒール十センチが似合いそうな女の人じゃなくて、優しそうで、家庭的? なんか、ちょっと遊んだりとかしなそうな、それでいて美人って感じの女の人と。  どこかから歩いてきて、職場のビルを通り過ぎる旭輝を道路の向こう側で。 「……」  偶然、見かけた。

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