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第103話 ねぇ
旭輝! お疲れ様。
そう声かけなよ、ねぇ。
なんで、声かけるタイミングとかわからなくなっちゃうわけ?
仕事仲間ってだけでしょ?
なんで、何も声かけなかったの。
なんで……一人で帰ってきちゃったの。
一緒に帰ってくればいいのに。なんで、慌てて一人で帰ってきちゃったの。会わないようにって、大急ぎでさ。
何してんの?
ねぇ。
でも。
だって。
仕事で遅くなるって言ってたのに、仕事してなかった。
仕事で遅くなるって言ってたのに、どこか行ってた。
じゃあ、外で仕事だったんじゃない? ほら、たまに外で打ち合わせとかあるって言ってたじゃん? 食事会をかねた仕事の打ち合わせで。あの女の人もその仕事を一緒にしてる人でさ。
でも。
「……」
優しい顔してた。
女の人が笑いながら何かを話したら、すっごく優しい顔をして笑って、何かを話して、また笑って、笑って……ずっと笑ってた。あの甘い香水の人が旭輝を引き止めた時はあんな顔してなかった。あの美人で、高嶺の花みたいな人が話しかけた時はさっきみたいに口元緩んでなかった。もっと退屈そうな顔してた。
さっきみたいに笑ってなかった。
今さっきのは、あの香水の人と違ってた。
さっきの人……。
その人、誰?
ってさ、聞けたらよかったのに。前なら聞けたのに。
面接どうだったかなぁ、早く仕事見つけないとなぁなんて思いながら、彼氏が婚約中の妊婦さん連れて歩いてるところに遭遇しちゃった時はあんなにすんなり訊けたのに。
婚約中妊婦さんにとっては婚約者。
俺にとっては一緒に暮らしてる彼氏。
あいつの浮気現場に遭遇した時みたいに。
あの状況で俺がどういうふうにあいつに思われてたかなんてさ、もう大体わかってても、はぁ? 誰それ? ってさ。問い詰められるくらい前は強かったのに。
「……」
前は言えたのに。
言えなかった。
――お仕事お疲れ様。
そうさっき声をかけたら、旭輝がどんな顔をするんだろ。
「…………」
驚くよね。職場に突然来てるなんて思わないでしょ?
振り返って、驚いて、笑ってくれる?
喜んでくれる?
それとも――。
「…………」
それとも。
しまったって顔、するのかな。
女の人といるところを見られちゃったって。
なんて、想像しただけで心臓のとこがぎゅっとした。想像し始めたら止まらなくて、本当は大したことなんてないかもしれないのに、妄想は、想像は止まらなくなって。
痛いし、怖いし。
こういうのイヤなんだってば。
「…………こっわ……もぉ……やだ」
怖いの、キライなんだってば。
大嫌いなの。
痛いのも、可哀想になるのも全部嫌い。
そしてそんなものがたくさん、さっきあそこに詰め込まれている気がして。
怖くて何もできなかった。
言えなかった。
「……はぁ」
びっくり。
いつだってちゃんと恋愛してきたんだけどな。
付き合ってた時はちゃんとその人のことすごく好きだったんだけど。
旭輝にはできないなんてさ。
「ただいま」
「!」
「案外早く帰れた。……って、聡衣も今帰ってきたのか?」
「あ、う、うんっ」
「お疲れ」
笑って……る。
「……うん。旭輝もお疲れ」
「あぁ。晩飯、まだだろ? 適当に作るから、先にシャワー浴びてこいよ」
「え、いーよ。俺、明日休みだもん。だから旭輝が先にシャワーしちゃいなよ。俺が適当に作るから」
「……」
「あは。俺の適当と、旭輝の適当じゃレベル全然違うけど。何にしよっかな……この前、新しい中華の素買ってきたから、それで……」
「聡衣」
優しい声。
その声に振り返ると、旭輝が眉を上げて、薄く唇を開いた。何か言いたそうに、でも何も言わずに、そのまま。
何か言おうとしてる。
でも「どうしたの?」って訊けない臆病な俺をじっと見つめて。
キス、するかなって思ったの。
キス魔だから、
けど、旭輝はキスをしないで、俺の髪に触れて、少し……疲れてるような、寂しさが混じってるような、そんな顔をしながら笑って。
「じゃあ、先に入るな」
バスルームに行っちゃった。
「…………うん。ご飯、ホント、期待しないでね」
前なら訊けた。
「あぁ」
ねぇ、今日見かけたよ? 女の人と一緒だったとこ見たんだけど? 友達?
そう、訊けた。
でもやっぱりそれはできなかった。
ホント、びっくり。
そんなことすら訊けないなんて。
それを訊くのも怖くなるくらい、こんなに臆病になるくらい、好きになるなんて、今、それに気がついちゃうなんて。
本当……。
浮気、とか?
「全然美味い」
「そう? 旭輝が作ってくれる晩御飯の方が美味しいじゃん」
ないよね?
そういうのじゃないでしょ?
ただ仕事の打ち合わせを外でしてたとかでしょ?
仕事って言ってたの、嘘じゃないよね?
「……そんなことねぇよ」
なのに、なんでここでそんな寂しそうな顔するの?
ねぇ、今、何考えてるの?
ねぇ。
「……」
ねぇ。
胸の内には言葉がたくさん溢れてこぼれて、氾濫してるのに。その欠片も出てこない。隣で食べる旭輝の横顔を見て、いつもより楽しそうじゃない表情に溢れた言葉はたくさんすぎて喉のところで詰まったみたいに、息苦しくて仕方がなかった。
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