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第106話 なんですけど

 旭輝がいい。  そんなに?  そんなに。  他にもかっこいい人たくさんいるじゃん。エリートだから?  ううん。  官僚ってなんかすごそうだから?  そうじゃないよ。  かっこいいから?  うん。すごいかっこいいもん。横顔も、声も、話し方も、笑い方も、指先の動かし方も、食べ方も、全部、かっこいいからすごい好き。 「今日はお疲れー」 「向こう行っても頑張れー」 「お幸せになぁ」  ぜーんぶ、かっこいい。  すごく、好き。 「みんなさん、本当にありがとうございました」  だから、誰にもあげたくない。 「久我山君もありがとう」  国見さんもかっこよくて、優しくて、包容力あって、尊敬してるし、憧れるし、好きだけど。 「こっちこそ、色々、忙しい時にすまなかったな」 「ううん」  どうしても、旭輝がいい。 「送ろうか」 「ううん。大丈夫。彼が迎えに来てくれるから」 「そっか」 「それに」  彼女がチラッとこっちに視線を送った。そして、その視線を追いかけるように旭輝が振り返って、俺を見つけると目を丸くした。 「それじゃあね」 「あぁ、悪い、それじゃ」  彼女はにっこりと俺に微笑んでから、そのまま反対側へ向かって歩き出して、旭輝は慌ててこっちへ駆けてきてくれた。俺は来てくれた旭輝がどこにも行かないように、やっぱり夜道は心配だからって彼女のことを送ったりしないように、そのコートの袖を指先で掴んだ。 「……さ、とい?」  彼が、欲しい……です。  どうしても、彼がいい……です。  神頼みなんてしない主義だけど、もうなんでもいいからとにかく聞いて欲しくて、そっと内緒で呟いた。 「どうしてここに?」  今、旭輝と、それから多分俺にも手を振って、歩いて帰っていったあの人、この前、俺が見かけちゃった人。可愛い感じで、優しそうで、家庭的? っていうの? あのアイランドキッチンに立って、朝ごはんとか作ったりして、にこ……なんて笑ったりするのがさ、「だよね」って言いたくなるくらいにすごい合ってる感じ。そんな人。 「聡衣」  ねぇ。  大嫌いなものが三つあります。  一つ目はゴミのポイ捨て。  もしも旭輝がそれしたら、怒る。すっごい怒る。ここ! ゴミ箱じゃないから! って、すっごい怒る。とりあえずゲンコツする。パンチかも。  二つ目は怖いもの。怖いの大嫌い。痛いのも怖いから、つまりは痛いものもちろん大嫌い。  三つ目は可哀想って思われること。絶対に絶対にそんなこと思われないように、って、だから強がるし、けっこう本当に強いっていうか一人でも大丈夫なように生きていたし。  その三つのうち、二つもあったんだけど。  旭輝が女の人のところにいっちゃうかもしれないって怖かったんですけど。  そんで、そのこと考える度に痛くてたまらなかったんですけど。  今度はトイレじゃないけど、でも連続で二股かけられて、女の人に盗られちゃうとか、可哀想な感じすごいんですけど。  今までなら、じゃあもういいです、って自分からバイバイってしてたよ。 「……かないで、よ」 「聡衣?」  ねぇ、それでも、来た。 「よそになんて、いかないでよ」 「……」  旭輝のこと、誰にも取られたくなくて、来たの。取らないでって言いに。誰にもあげないって奪いに。  だから、コートの袖を、離さないように、どこにも行かないように、キュッと指先で掴んだ。  それから、一つ。  深呼吸をした。  その吐息が震えてた。緊張で、ダサいくらいに震えてた。  あ……やばい。  泣きそう。  ここで泣くとか、どうなの? 俺。  そう思って、ぎゅっと唇を結んで、視線を足下に落とした。ピカピカの綺麗な旭輝の革靴をじっと見つめて。 「この前、仕事で……遅くなるって言ってたのに、女の人と、いた、でしょ?」  タイミングなんてこれっぽっちも考えてない、今更なことを突然訊いたりして。  でも、聞きたい。  さっきの人、だったよ。あの人、誰? 送別会って言ってたけど、あの人の送別会? 同僚? お幸せにって、何? 誰と? 「仕事じゃないじゃん」 「……」  それに、今日、すっごい意地悪な感じに暴露されたんだけど。あの香水の人、有休使ってまで、俺のとこ来て意地悪だけしてったんだけど、暇か? あの人、暇人か? まぁ、旭輝のこと取られたのがすっごい腹立たしかったんだろうけどさ。 「どこ行くの?」  突然の質問に旭輝が不思議そうな、でも、少し何を意味しているのかわかっていそうな顔をした。眉をわずかにだけ動かして。 「地方に異動って?」 「それ、どこで」  そして、今度はやっぱりって顔をした。  俺はどこでそれを聞いたのかを答えるよりも、今、言いたいことを優先させる。なんで嘘ついたのか、なんで大事なことを教えてくれないのか、それから。 「好きなんですけど」  俺の気持ちを。  好きって伝えて、コートを少し引っ張った。  ねぇねぇって、子どもが引っ張るみたいに。ねぇ、聞いて、こっちだよって伝えるみたいに。 「……」 「旭輝のこと、すごい好きなんですけど」  呟いたら、低い声が「ごめん」って呟いて、丸ごと抱えるみたいにぎゅって俺のことを抱き締める。  ただそれだけで、急に寒さが全部なくなって、嘘みたいに幸せが溢れ出す。さっきまでずっとへばりついて離れてくれなかった不安が一瞬でなくなっちゃう。  きっと違うって、嘘をついたのは理由があるって、異動のことを話してくれないのも、ちゃんと訳があるって、そう思ったよ。でも、あの甘い香水の人が言ってた言葉が、小さな槍でも握りしめて胸の内側をちくちくチクチク突いてきて痛くてたまらなかった。  それがさ、魔法? ってくらいにもう痛くない。  抱き締めてくれた。 「ごめん」  ただそれだけで満足する。  もしかしたらまだどこかに職場の人いるかもしれないのに。  っていうか、ここ、普通に歩道なんですけど。ど真ん中じゃないけど、人、行き交ってるでしょ?  それでも構わず、抱き締めてくれただけで、安心する。 「悪かった」  二回、丁寧に謝ってくれた。  その腕からは、甘い香水の香りはこれっぽっちもしなくて、俺のお気に入りのボディクリームの香りがちょっとだけ、ほんのちょっとだけした気がした。

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