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第7話
教会の裏手の名もない墓地、その断罪区域がピジョン専用の練習場だった。
「さて、本日の成果を見せてもらいましょうか」
不測の事態が起きても修行は取り止めにならない。
神父は穏やかに笑んで弟子を導き、ピジョンは模範的な一番弟子として「はい先生」と素直に返事をする。
雑草も生えず均された区画に踏み出す前に素早く十字を切る。
「律義な人ですね」
「断りも得ず亡骸を踏み付けにできません」
神父が苦笑いであきれるが、ピジョンにも譲れない一線がある。
断罪区画に足を踏み入れる前に十字を切るのは一種の通過儀礼、ピジョンの習慣となっていた。
神父は弟子の不器用さを愛おしげな眼差しで包容する。
「たとえ罪人でも、ですか」
「人殺しや泥棒はともかくそうじゃない人だってたくさん埋まってます。|荒地《バレン》に眠るのは古い戒律で断罪された人たち……ただ洗礼を受けず亡くなった子供たちまで報いを受けなきゃいけないのは間違っています」
「君は大変信心深いですが盲目的な信者ではありませんね」
「すいません」
「一方的に無謬を信じるのではなく自分の頭で噛み砕いて信仰するのが正しい道です。信念が伴わない信仰には意味がありません。戒律や教義に矛盾を感じたなら全部を受け入れる必要なんてないのですよ」
「汝求めよ、さすれば与えられん、なのにですか」
「与えられる物全てが素晴らしいとは限りません。時には勝ち獲ることにこそ得難い意義があります」
申し訳なさそうに俯くピジョンを神父は優しく見守る、まさしく慈父の微笑だ。
死者にまで心を砕く弟子の未熟さや青臭さは、神父にとっては好ましく映っているに違いない。
神父は知識人だ。年齢不詳の外見だが、おそらく四十はこえていまい。
しかし彼が語る言葉は確かな知識と教養に裏付けされ、含蓄と示唆に富み、滋味深く染みていく。
ピジョンは修行の片手間に師と問答する時間を愛していた。優柔不断な自分を見直す良い機会になる。
案外と精神鍛錬の一環なのかもしれない。
「ところで先生、さっきの人は……」
「君を襲った不埒な輩ですか」
「旧い知り合いだって聞きましたけど」
「もう昔の……20年近く前の話ですよ。さっきは驚かせてしまいましたね、怪我はありませんか」
「だいじょうぶです、かすり傷だったんで。お恥ずかしいところを見せました、先生がいなきゃどうなってたか……本当にありがとうございます」
「弟子を脅す毒蛇を追い払ったまでです」
神父が謙虚にとりなす。
やはり人格者だ。どこかかのスワローやガラガラヘビに爪の垢を煎じて飲ませてやりたい、きっと真人間に生まれ変わるはずだ。
訊くなら今しかない。
神父の温和な態度に勇を鼓したピジョンは、手中のスナイパーライフルに尖った弾丸を装填しながら憂わしげに畳みかける。
「あの人……ラトルスネイクでしたっけ、シーハンと似ていましたね。物陰から遊んでるとこじっと見てたし、彼女と特別な関係なんですか。勢い誤解しちゃったけど、シーハンに会いに来ただけなら失礼を働きました」
しおらしく反省するピジョン。
生来の自己評価の低さがなせるわざか、彼はどこまでもお人好しで自罰的だ。
「シーハンとの関係への言及は控えます、当人たちがいない場所で話すのは些か気が引けますのでね……ですが君の見立ては間違ってないかと」
「やっぱり」
「気に病むことはありません、先に手を出したのはむこうです」
「それは俺が疑ったから」
「謙虚も過ぎると嫌味ですよ。君は間違ったことをしていません、全ては教会を、私たちを守ろうとして出た行いです。もし君が自分を責めるなら、私こそ君ひとりで行かせた浅慮を恥じねばなりません。パパラッチを捕らえるにしても、挟み撃ちにすればずっと効率が良かったのに」
「先生には子供たちがいたじゃないですか、あそこは俺が行くべきでした」
「君の方が若くて体力があるから?」
「あ、いえそういうわけじゃ……」
ピジョンは口ごもる。師を上に立てようとして墓穴を掘った。神父は軽く笑い、ピジョンは表情を緩めて呟く。
「任せてもらえて嬉しかったんです」
だからこそ先走った。
信頼する師に信用してもらえた嬉しさと気負いからパパラッチを追いかけ、寸手の所で逃がして地団駄踏み、その矛先をたまたまそこにいたガラの悪い男に向けてしまった。
「やっぱり俺が悪かったんですよ、人を見た目で決め付けて……」
「蛇のミュータントだから、ですか」
「違います」
神父の疑問はきっぱり否定し、束の間躊躇いがちに目を揺らしてからライフルを握り直す。
「でも、弟と同じ種類の人間に見えました」
ラトルスネイクはスワローと同じ匂いがした。血と暴力と快楽の匂い、全身にまとった危なっかしさときな臭さ。
スワローをはじめとするサディストに十数年間虐げられ続けてきたピジョンは、本能でいじめっ子がわかる。
だからこそピジョンは初対面の彼を警戒し、断じて子どもたちに近付けまいと牽制したのだ。
「弟さんの話はよくうかがいますが、彼と比べては可哀想ですよ」
「俺とアイツは血を分けた家族ですけどアイツの生き方を全肯定はできません。矯正してほしい点を挙げたらきりがない」
享楽的、破滅的、刹那的。
生き急いでいるならまだいい。
地道に堅実にがモットーのピジョンの目には、スワローの生き方は時に死に急いでいるようにしか見えずやきもきする。
「次会うときは真人間に生まれ変わってるように祈るばかりです」
それを聞いた神父がふと手をさしのべ、真新しい絆創膏を貼ったピジョンの頬を包む。
「もっとショックを受けているかと思いましたが、些か君を見くびっていたようですね」
「あの程度じゃへこたれませんよ、これでも修羅場くぐってますんで」
無体な仕打ちは弟に慣らされた。今さら初対面の男に押し倒される位、挫折のうちにも数えない。
一度涙として体外に排出してしまえば立ち直りも早い、スワローが理不尽を力ずくで捻じ伏せるならピジョンは柔い心で包んで緩和する。
「よろしい」
照れ臭そうなピジョンに肯い、頬から手をはなした神父が命じる。
「では特訓をはじめましょうか」
「はい」
深呼吸で内息を整えスナイパーライフルを構える。草も生えない断罪区域の行き止まり、矩形の作業台の向こうに一列に並んだボーリングのピン。
引鉄にかけた指を迷いなく引く。スナイパーライフルから放たれた弾丸がピンの頭部を砕いて破片が飛散する。連鎖反応を引き起こすが如く炸裂するピンの群れに応じ、ピジョンの瞳が炯々と輝きを増す。
普段は赤錆に似て茶色がかった瞳が、スナイパーライフルをとり没我の境地に入ると殺気を放って時折赤く染まる。
地獄の炉のような美しくおぞましい色がチラ付く都度ピンが爆ぜ散り、あたりに硬質な破片を撒き散らす。
神父がピジョンに課す修行は基礎的な物だ。体幹のコントロールに正しい構え、バランスの取り方を重んじ腕の角度を調整する。
「重心はもう少し低く……そう、いいですよ。反動は殺すのではなく上手く逃がしてあげるんです、体中に散らすイメージ……わかりますか」
「なんとなく感覚で」
「手に伝わる衝撃を腕だけで受けるのは愚策です、肘を支点にしっかり支えてください」
ピジョンの姿勢をこまめに矯正し、最も効率的な撃ち方を指導する。ひっきりなしに乾いた銃声が響いてピンが弾け、棚からあらかた薙ぎ払ったあと神父が手を叩く。
「また記録更新しましたね。前回から0.5秒縮まりました」
神父はピジョンがピンを撃ち落とすのにかかった時間を体感で正確無比に計測していた。ピジョンは額に浮かぶ汗を拭い、スナイパーライフルを下ろして息を吐く。
「早撃ちは性に合いません。じっくりゆっくり狙いを付けたい」
「根っからのスナイパー志向ですね」
神父の口元がいたずらっぽい弧を描き、唐突に空の上をさす。
「が、標的は待ってはくれません」
神父の人さし指を追って空を見上げたピジョンは、一羽のツバメが舞っているのを視界にとらえる。
「あの鳥を撃てますか」
「え」
予想外の問いにピジョンは凍り付く。
神父の笑顔は変わらない。
ピジョンは動揺も露わに即答する。
「撃てません」
「どうしてですか」
「いやですよそんな……何も悪いことしてないのに」
「撃ち落とすのは可能でしょうか」
心構えはさておき、撃ち落とす事自体が可能か問われたピジョンは真剣に検討する。
空飛ぶツバメは素早く宙返りをし、墓地の上を行ったり来たりしている。
「スナイパーの標的が何時いかなる時もじっとしてくれているとは限りません、あのツバメのように予想外の軌道で飛び回る可能性も十分あります。優れた狙撃手に要求されるのは標的の行動を先読む技術、先見の才です。あのツバメが次にどこへ行くか、正しくわかりますか」
考えろ。
何か法則性があるはずだ。
どんなに無秩序で野放図に見えても生き物である以上動きには法則性が見いだせる。
ピジョンは目を凝らしてツバメの軌跡を追い、墓地の片隅の柳に巣があるのを悟る。ツバメは巣と餌場をせわしなく往復し、生まれたての雛たちに糧を運んでいる。
「そうか……」
心の中で呟く。
巣へ帰る時、ツバメは最短ルートを選ぶ。
子供たちに会いに必ず帰ってくる。
「俺なら巣に帰ってきたところを狙います、じっとしているから。わざわざ飛行中を狙うのは得策じゃありません。雛に餌を口移すときが最大のチャンスです」
ツバメが雛に餌を与えているところを狙えば撃ち落とすのは簡単だ。受け渡しの瞬間はどうしても無防備になる。
考えてみれば当たり前のことだ。
故に神父ははぐらかし、その当たり前のことを見失わないでいられるかピジョンを試したのだ。
「及第点ですね」
神父が再び満足げに頷く。
「標的が止まった瞬間を狙うのが狙撃の鉄則です、あえてハードルを上げる事はありません。始終動き回っている標的でも必ず隙を生じる一瞬がある、そこに付け込むのです」
「覚えておきます」
巣に帰ったツバメが愛くるしい雛に餌を与えるのを遠目に眺めピジョンが和んでいると、唐突に神父が聞いてくる。
「ツバメを殺せないのは何故ですか」
「え……」
ピジョンは目を丸くする。温厚篤実、品行方正な神父に動物を殺してはいけない理由を問われるなど夢にも思わなかったらしい。
ピジョンは思わず眉をひそめ、戸惑いがちに切り返す。
「だって可哀想じゃないですか、動物を殺したって気分が悪いだけです」
「なるほど。ならば罪人なら……悪いことをした人間なら殺せますね」
「何も悪いことをしてない」から動物を殺せないなら、「何か悪いことをした」人間なら殺せるはずだ。
「待ってください、悪いことって言ってもピンキリです。人殺しや強盗、女性をレイプするとか子供を嬲り者にするとか……そんな連中には罰がくだって当然だって俺もおもいますけど、でも殺していいっていうのは。たとえば嘘、釣り銭をごまかすとか年をサバ読むとか小さい嘘吐くひとだっていますよね?道徳的に感心はできないけど殺されるほどの罪とは思えません、それに嘘吐きが全員悪人とは限らない、中には人のためを思って仕方なく嘘を吐く人間だって」
「人殺しは殺せても嘘吐きは殺せないと?反対に酷い嘘を吐く人間がいたらどうします、大勢の人間を騙して殺すような嘘を。安全と騙して罠に嵌める、無害と欺いて葬る。それは人殺しと同じですね、ならば殺して良いのではありませんか、彼らを殺しても正義は損なわれないのではありませんか。我々はただ|対価《ヴィクテム》を回収するだけです」
神父はあくまで穏やかな口調で理路整然とピジョンを追い詰めていく。
「『悪いことをしてないから殺せない』は『悪いことをしたなら殺してもいい』の裏返し、卑怯者の免罪符です」
口元の微笑を限りなく薄める。
「食い扶持のため、名誉のため。賞金稼ぎになる動機は人それぞれですが、悪いことをしたか否かを基準におくと引鉄は絶対に鈍ります。罰されるべき悪いことの基準は人によって違うのです」
「じゃあ……どうすれば」
言葉に詰まったピジョンを一瞥、断罪区域の大地を踏みしめる。
「殺す覚悟をした人間は殺される覚悟もしなければいけません。きちんと殺したいと思って殺すのが殺す人々への最低限の礼儀です」
自分の意志で。
自分の考えで。
「悪いことをしたから殺す、その考えに準じれば君は悪いことをしてない人間を殺せなくなります。そして賞金首が必ず悪人とも限りません。君のように優しい人間は特に痛みを取り入れやすい、彼らの立場に共鳴しやすくできています。まず人を殺したから悪とします。ですが殺された人物が賞金首に酷い仕打ちをしていた場合は?ただ復讐を果たしただけなら?自分を犯し虐げ貶めた人物に仕返ししただけなら……」
思わせぶりに言葉を切り、まっすぐにピジョンを見据える。
「君は賞金稼ぎとして、その人を殺せますか」
初めて師を怖いと思った。
足裏から冷たい戦慄が這い上ってきた。
いま神父に突き付けらているのは、ピジョンがずっと目を背けてきた現実だったから。
ピジョンはなんとか息を継ぎ、靴裏に踏みしめた大地から罰された死者の無念を吸い上げて、弱々しさと頑固さがせめぎあうまなざしで師に挑む。
「……賞金稼ぎの仕事は殺すことじゃなく捕まえることです。俺は……誰も殺したくありません。生かして捕らえて保安局に突き出します」
自分に人殺しができるとも思えない。
想像もしたくない。
賞金稼ぎとしての覚悟を問われても、未だ半人前のピジョンはこれしか言えない。
「誰だって死んだら哀しむ人がいる、なんてキレイごとは言えません。どんな過去があっても賞金首に落ちた時点で殺されたって文句はいえない。でも俺は……甘いだろうけど、きっと腰抜けって言われるけど、だれも殺したくありません。その賞金首が人殺しや嘘吐きでも、もっとひどいことをしてたって生かして捕まえたい。たとえ殺せるとしても殺さない方を選びたい」
怯惰を正論にすりかえているだけだとしても、賞金稼ぎであることを理由に誰かを殺めてしまったらピジョンはもうピジョンでいられなくなる。
神父は暫く沈黙していたが、ピジョンの回答を批判するでも賛美するでもなく彼の肩に手を置く。
「殺す殺さないを決めるのはあなたです。自分の意志で引鉄を引きなさい」
「先生はどうして賞金稼ぎになったんですか」
ふと聞いてしまったのは、ラトルスネイクの言葉が心にひっかかっていたから。
ピジョンの質問を受け、神父は巣の上のツバメを見詰める。
「神様が嫌いだったんです」
「はい……?」
聖職者の模範のような男の口から飛び出したとは思えない不敬なセリフにピジョンが動揺すれば、真意の読めない笑顔ですぐはぐらかす。
「賞金稼ぎになれば、神様が取りこぼした麦穂を少しは拾い上げられると思ったんですよ」
それからしばらくたったある日。
墓地での特訓が済んだピジョンが神父を伴って教会へ帰ると、修道女たちは既に食事を終えていた。
裏口から厨房を覗くと、シスターたちが腕まくりをして皿を洗っている。
「あら今お帰りなさったの神父さまとブラザー・ピジョン」
「タイミングが悪かったわね、もうちょっと早ければご一緒できたのに。今日のポタージュは上出来よ、手伝った私が言うんだから間違いないわ」
「味見しただけでしょうが」
「どうかお気遣いなく、自分でよそって食べますんで」
「遠慮なさらないで育ちざかりなのに」
修道女たちの姦しいお喋りを頼りない苦笑いでやり過ごせば、ちょうどシスター・ゼシカが駆け込んでくる。
「ああいたわ、ブラザー・ピジョン」
「ブラザーはやめてくださいって、ただの居候ですよ」
「神父さまのお弟子さんなら家族も同然ですわ……数日前にも言いましたわねこのセリフ」
厨房に現れたシスター・ゼシカにピジョンはたじたじだ。
「何か用ですか」
「弟さんからお電話ですよ」
弟。
スワロー。
「俺にですか?」
当たり前だ、スワローが電話をかけてくる相手なんて自分しかいない。わかっていても確認してしまうかなしいサガだ。
自分の顔を指して当惑するピジョンに、シスター・ゼシカは悪気なく畳みかける。
「ええもちろん、電話室に待たせているから早くお出になって」
「いきなり電話って……アイツ何か言ってませんでした」
「詳しいことは兄貴に話すの一点張りでしたわ」
立ち仕事の合間に聞き耳たてる修道女たちを見回し、シスター・ゼシカが耳元で囁く。
「デリケートなお話みたいですわよ、早く行ってあげた方がよろしいわ」
ピジョンは傍らの神父を仰ぐ。
「えっと、そういうわけなんで……出てもいいですか」
「私に許可をとることはありませんよ、弟さんがお待ちかねです」
「ありがとうございます」
神父に快諾を得たピジョンは頭を下げ、ライフルを部屋に置きに行く暇も惜しみ、厨房から廊下を通って電話室へ急ぐ。
アンデッドエンドは経済格差が激しい。
地区によってはインフラもろくに整備されておらず、電話を引いてない世帯も多い。
なおアンデッドエンドには電話局が存在し、シフト制の交換手が在籍している。離れた場所にいる相手と通話したければ、まず交換手を経由せねばらならない。
このように電話一本とっても結構な手間がかかるため、仕事などの重要な案件以外で使用する人間は少なかった。
キマイライーターの寄付の恩恵に浴している為か、教会には電話室が設えられていた。よその施設から新しい子供を受け入れる時など、神父は電話を用いて連絡をとっている。
見た目は縦長の箱で、プライバシーを確保するため四面に曇りガラスが嵌められている。
電話室は玄関の脇にあった。扉を開けて中に入り、フックにかかった受話器をとる。
スワローから電話。久しぶりに声が聞ける。胸の高鳴りを深呼吸で鎮め、空咳で声の調子を整える。
「もしもし」
『くたばれ』
よかった、ちっとも変わってない。それはそうと理不尽だ。
「自分からかけてきて何さ」
『5分?10分?駄バトの分際で俺様待たせるたァいい御身分だな、教会で羽伸ばしすぎて飛び方忘れたんじゃねーか。さっきの色っぽい声のオンナに聞かれたぜ、ブラザー・ピジョンとのご関係は?って。こともあろうにブラザーとか呼ばれてんのかよマジで教会に入る気か』
「ブラザーはただの愛称、ニックネームだから気にするな」
『ハーレムでふんぞりかえってんじゃねーぞ、連中若くてうまそうな男ならだれだっていいんだ』
「決め付けはよせよ会ってもないのに。で、話って?ストレス発散にかけてきたのか」
ああ、せっかく声が聞けたっていうのになんだってこううまくいかないんだ。
元気そうな声に喜ぶ反面、一方的になじられてむかっ腹を立てる。
そもそも久しぶりに声を聞いた兄にむかって「くたばれ」の第一声はない、「どうしてた?」とか「元気か?」とか前置きしてほしい。
弟が聞いてくれないので、仕方なくこっちから一番気になることを聞いてやる。
「元気でやってるのか?」
『下半身的な意味で?』
「次茶化したら切るぞ」
『まーぼちぼち。最新号のバンチで会えるぜ、でっかいネタだからあっと驚け』
スワローの声が得意げに弾む。ピジョンは風の噂を思い出す。
「ってことは、コヨーテ・ダドリーを挙げたって本当なのか」
『ンだよバレてんの』
コヨーテ・ダドリーはジャンクヤードの大物だ。
大々的なドッグショーの興行主として名を上げたが、飼育する犬を虐待する他に黒い噂が絶えない人物でもあった。
賞金首として手配されてまだ日が浅いが、スワローが組合の要請でダドリーの検挙に行ったらしいことはピジョンの耳に入っていた。
「すごいじゃないか」
『雑魚片した所で自慢になっか』
「あっと驚いてやったのに」
むずかしい年頃だ。
『確かにデケぇ山だけど』
「いやいやすごいよすごいって、賞金も相当入ったろ?家賃1年分前払いして釣りくるじゃないか」
『みみっちいことゆーな、超萎える』
「コヨーテ・ダドリーの噂はこっちにも届いてるよ、悪趣味なビデオで荒稼ぎしてたとか……そっかお前が倒したんだ、よくやったなスワロー。大丈夫か?怪我はないか?無茶してないよな?お前ってばすぐ突っ走るから、今回も大変だったんじゃないか。手柄をあせって向こう見ずなまねするなよ、まずは自分が生きて帰らなきゃ……そうだ、組合の派遣って二人一組だよな。相方とは上手くやれたか?困らせてないよな?みんながみんな俺みたいに鈍感で打たれ強いわけじゃないんだから、手加減ってものを覚えて」
『説教クソ萎え』
邪険な舌打ちが響く。
『あのさア、わざわざお小言聞きに交換手に頼んで取り次いだんじゃねーんだけど』
「俺がいなくても部屋散らかしてないよな、ちゃんと食べてるよな?うるさくしてご近所さんに迷惑かけるなよ、修行が終わっても帰る場所がなくなっちゃ困る」
弟の手柄を誇る反面、また遅れをとった事実にぼんやり胸が痛む。
自分がいなくてもスワローは立派にやっていけてる、雑誌にもひっぱりだこですっかり一人前の賞金稼ぎとして認められた事実が劣等感をチクチク突き刺す。
ひょっとして、コイツにとっちゃ足手まといなだけなんじゃないか。
俺なんかいないほうがいいんじゃないか。
そんな疑念をごまかすように早口でまくしたてれば、受話器の向こうで怒号が弾ける。
『シャーラップ』
ピジョンが口を噤むや、スワローが思いがけぬ相談を持ちかける。
『なあピジョン、テメェんとこ孤児院くっ付いてたな』
「それがどうかしたか」
『1匹増えても問題ねーよな』
「意味がわからない」
『コヨーテ・ダドリーが「商品」として囲ってたガキがいたんだ。間一髪で保護したはいいものの行くあてがねーときた。で、思い付いたのがお前んトコ。テメェの大好きなお優しい神父サマがミュータントのガキどもを世話する教会だよ』
「商品って……人身売買に手を染めてたのか」
『もっと最悪』
「知りたくないから話さなくていい」
『男のガキだよ。名前はヴィク。っても俺の連れが勝手に付けたんだけどな、名前がねーのは可哀想だからって。センスねー』
俺の連れ。
スワローがなにげなく放った言葉が、予想外に鋭く胸を刺す。
「力になりたいけどまずは先生に相談しないと」
『先生の秘蔵っ子ならゴリ押しでねじこめ』
「そんな権限ないって、決めるのは先生だ。ただおいてもらってるだけの居候が孤児院の裁量に口出しできない、いまだって子どもが増える一方でシスターたちは手一杯なのに。善処はするけどそーゆー大事な話を先生を飛び越して持ち込むなよ」
『じゃーなにか、兄貴はガキが路頭に迷ってくたばってもかまわねーんだな。空腹抱えてウリしても心が痛まねーんだな』
「ぐ……」
『あのガキもツイてねーな、せっかく命拾いしても路上でおっ死ぬとか。兄貴が頷きゃあったかいベッドでたらふく食って寝れたのに……あー気にすんな、ただの居候だもんな?隅っこで冷や飯食いの身分だもんな、兄貴の言い分なんて誰も真に受けるわきゃねーってわかってから』
「代わるから直接言え」
『いいぜ連れてこい、女性器と男性器の隠語を各十種類以上吹き込んでやらァ』
「よくそんな冒涜的な発想ができるな」
『ダメ元で当たってみたけどやっぱダメってだけ、気にしちゃねーよ。もー半年にもなるしイチバチ信頼勝ち得てんならワンチャンあるかも思ったけど所詮駄バトは駄バト、寝て食ってクソするだけって忘れてたわ』
「……わかった、交渉してみる」
先に折れたのはピジョンだった。
『さっすが兄貴』
忸怩たる思いで引き受けたのは、まだ見ぬその子に同情していたからだ。
「うちはミュータントの子が多いけど人間お断りじゃないし、なんとかやってみるさ。聞いちゃった以上ほっとけないし、先生は優しい人だから事情を話せばきっと」
『「うち」、ねえ』
「なんだよ」
『馴染んでんじゃん』
受話器の向こうでわかりやすくスワローが拗ねるのがおかしい。
「現在進行形で世話になってるから変じゃないだろ別に、突っかかるなよ。まあとにかくその子の事は俺にまかせて、結果はこっちから電話するから。お前はくれぐれも軽率なまねをせず」
『オナニーしてる?』
「は?」
脳天から素っ頓狂な声がでる。
反射的に送話口を塞いであたりを見回す。幸い電話室の外に人けはなく静まり返っている。ピジョンはおそるおそる手をずらし、あきれかえって受話器を見下ろす。
「……してない」
『嘘だな』
「断言するなよ」
『俺が仕込んだカラダが俺なしで疼かないわけがねえ』
図星だ。
ピジョンは耳まで火照らせ、羞恥に消え入りそうな声で今度は正直に答える。
「……できるだけ控えてる……」
『参考までに教えてくれよ、教会でオナんのってどんな気分?背徳感で興奮するか』
「最低だな」
『聖書はオナ禁してんのに。夜寝る前に先生に手ェ縛ってもらえよ』
受話器を介して籠もった声が、嗜虐の愉悦を滲ませてピジョンを追い詰めていく。
「用が済んだなら切るぞ」
『声聴きたかったんじゃねーの』
不意打ちでたまらなく優しい声を出し、受話器を置こうとした決意が鈍る。
『言えよ。オナニーは週何回だ』
「人に聞かれたらまずい」
『七回?五回?三回?』
「許してくれ」
『一回ってこたあねーよな。場所はどこだよ、トイレかベッドん中か……暗闇の礼拝堂ってのもアリか。お前ド変態だもんな、ホントはイくとこ見てほしくてたまんねーんだろ。キリスト磔刑象の前で大股開いて』
「……三回……」
スワローが述べ立てる聞くに堪えない妄想を頑なに拒む理性と裏腹に、スワローに躾けられた身体が疼いて白状する。
「誓ってそれ以上はしてない。夜寝る前にベッドの中で少し、それだけ」
『かわいいな兄貴、べそかいてんの』
「恥ずかしいだけだ」
こんなところだれかに見られたら、もしひとに聞かれたら……受話器を置けば断ち切れるとわかっていても、そうした場合の「お仕置き」を思うと手が動かない。
たとえ眼前にいなかろうと、十数年間身体と心を束縛してきた絆は断ち切りがたい。
膨れ上がる羞恥心に被虐の快感が混ざり、ザラリと鼓膜を犯すスワローの声に恥骨の奥が疼く。
『知ってる?声だけでもセックスできるんだぜ』
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