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第9話
ピジョンは神父に直談判した。
「新しい子供の受け入れ、ですか」
「先生もご存知かもしれません、コヨーテ・ダドリーのアジトで保護された子供です。その子を受け入れられないか弟に頼まれて……その、すいません。断り切れませんでした」
「おやまあ」
神父が他人事めいておっとり驚く。
電話で大恥をかいた後、ピジョンは修道女たちとのティータイムを早々に辞して神父の部屋へ赴き、ヴィクの件を相談した。
「コヨーテ・ダドリー氏の一連の不祥事は存じております、酷い事件でしたね。弟さんの関与も報じられていましたが、赤の他人でしかない保護された子の身の振り方にまで力添えするとは、随分面倒見がいいと感心しました」
「それは俺も驚いてます。正直結構、かなり、ものすごい見直しました」
失礼な感想を素直に認め、勢いを得て褒めそやす。
血の繋がった実の弟ながら「あの」スワローが偶然保護した子供の身の振り方を気にして兄を頼るなんて……小さい頃から暴れん坊でさんざん困らされてきたが、兄と離れた間に急成長し、漸く人間らしい心が芽生えたのかもしれない。
「世間じゃ傍若無人な野良ツバメなんてからかわれてるけど、本当はいいヤツなんですよ」
自分と身内さえ良ければそれでいいと割り切っていたスワローが、行きずりの子供の先行きを取り計らい自分に電話をかけてきた事実が、ピジョンはひどく嬉しく誇らしい。
どうかすると自分の手柄以上に鼻が高い。
師も同じ思いだったのか、興味深そうに唇をなぞって唸る。
「お兄さんと離れて心境の変化があったのでしょうか、ぜひ詳しくお聞きしたい所です」
「やればできるヤツなんですアイツは、面倒くさいからやらないだけで本気だせばすごいんです、とっくに知ってたけど」
弟の弁護に熱が入るピジョンとは対照的に、神父の関心は天涯孤独のヴィクへと移る。
「ダドリー氏のアジトから救出されたというと、相当過酷な体験をしたのでしょうね」
「スワロー……弟の話だと、マーダーズからの届け物らしいです」
「マーダーズですか。相変わらず口封じが徹底していますね、あの組織は」
神父が上品に眉をひそめる。
ピジョンもきっと同じ表情をしている。
世間では知る人ぞ知る都市伝説扱いだが、賞金稼ぎの間でマーダーズを知らない者はいない。
胸に燻る怒りと不快感をひた隠し、ピジョンは訥々と説明する。
「マーダーズの洗脳がとけきってないのか、記憶はおろか自分の名前すら白紙の状態が続いてて……もちろん親元の情報もわからないし、保安局が新聞に公告を打っても名乗り出る人は皆無でした。ヴィクっていう名前は弟が組んだ賞金稼ぎが付けたそうです」
「由来はなんでしょうか」
「ヴィクテム……犠牲者から」
「なかなかに皮肉が利いている」
神父が苦笑いする。
「アンデッドエンド出身じゃないなら親族との再会は絶望的でしょうね」
「はい……」
ピジョンは力を込めて訴えかける。
「教会の経営が苦しいのはわかってます、孤児院が満杯な事も。でも……どうにかなりませんか?このままだとそのヴィクって子は遠からずどこかの施設に放りこまれます」
アンデッドエンドには数多くの孤児院が存在する。
しかしながら良心的な施設はごく一部、それ他大多数は劣悪な環境と杜撰な管理で職員の虐待が放置されている。
このまま身元引受人が名乗り出なければ、ヴィクはランダムに孤児院に送られ一生を終える。
その孤児院がまともな場所なら更生のチャンスもあろうが、犯罪の温床と化したアンデッドエンドの現状を鑑みるに、いちかばちかであたりを引く、楽観に頼った見通しは成り立たない。
ピジョンは小さく深呼吸し、目に強い意志を宿して畳みかける。
「勝手な言い分だってわかってます、ただの居候がこんな事頼める立場じゃないのも承知です。でも……ミュータントもそうでない子も区別なく、愛情深く育てられるここでなら、その子も安心して過ごせるんじゃないかって思ったんです」
「ですがピジョン君、実際にお世話をするのは私や修道女たちですよ?君は電話の一存で安請け合いしましたが、今後もずっとその子の面倒を見れるのですか」
「う゛」
机の前に立たされたピジョンは言葉に詰まる。
神父は人格者然とした穏やかな表情のまま、なめらかに毒舌を吐く。
「君が修行を終えてここを出たあとも、私たちは責任をもってその子の指導と養育にあたらねばなりません。君もご存知の通り孤児院の経営は決して順風満帆とは言えない。ベッドの台数は足らず天井は雨漏りし、壁紙は傷んで酷い有様です。床は腐ってギイギイと不気味な音をたて、お化けの歯軋りだと怯えておねしょする子が後をたちません。お恥ずかしながらジョヴァンニ氏をはじめとする篤志家の方々の寄付、修道女たちが畑で育てた野菜や薬草、それにここで保護した女性たちの手製の雑貨の仕入れ値でギリギリ子供たちの衣食住を賄っているのが包み隠さぬ現状でして」
「……はい」
「あと1人位と気軽に考えているかもしれませんが、その1人が負担となり、辛うじて保たれていた均衡を崩す可能性をお考えになりましたか。彼の分のベッド、彼の分の寝具、彼の分の衣服、彼の分の食事、彼の分の文房具、彼の分の生活用品……受け入れを仮定して、最低限でもそれだけの品々を用意せねばなりません。人を育てるというのは口で言うよりずっと大変ですし、他人の子供の養育に注ぐ労力は綺麗ごとじゃ済みません」
「他人の子供」とは言うものの、神父の顔を見れば悪気がないのはすぐわかる。
神父が小さくため息を吐き、壁の写真に一瞥投げる。
それは教会の前で撮った集合写真で、孤児院の子供たちと修道女、一番端にカソックを着込んだ今より少し若い神父が映っていた。
「彼らは皆等しく神の子ですが、私の子供ではありません」
さりげなく言い放ち、噛んで含めるようにピジョンに諭す。
「私たちは親代わりにはなれても親にはなれない。どんなに愛情をかけ手を尽くしても、彼らに本来与えられるべきだった物をあとから補うことしかできません。自分の子ただ一人を愛せばいい親のような偏りを生んでもいけない、どんなに愛しくても贔屓をしてはならない、どの子にも常に等しく公平な扱いを心がけなければいけません。なれないものの代わりを務め上げるのですから、それは大変な困難を伴います」
彼がピジョンに突き付けたのはただの当たり前の事実、部外者が見落しがちな現実だった。
「すいません……出過ぎたまねを」
ピジョンは恐縮する。
羞恥と惨めさ、なにより自責で顔が熱くなる。
が、ここで引き下がる訳にはいかない。
ピジョンはスワローと約束した。
それ以上に、今ここでピジョンが妥協したらヴィクという子はどうなるのだ。
神父は信頼できる人物でここは信用できる場所だ、修道女もみんないい人たちだ、他のどこともしれない孤児院に送りこむくらいならここで受け入れてほしい。
身体の脇の拳をぐっと握りこみ、敢然と顎を引いて一歩前へ。
「反省はしていますが撤回はしません。もしヴィクって子を受け入れるのが難しいなら、俺が責任もって他をあたります」
「修行はどうします、サボるのですか。自分がここにいる理由をお忘れではありませんか」
「支障が出ないように自由時間を使います、もし手抜きしてると感じたらただちに放りだしてもらってかまいません。受け入れ先が見付かるまでの間だけでも置いてあげてくれませんか?」
「放っておくのは寝ざめが悪いですか?君は本来とばっちりをくった立場で関係ないでしょうに」
神父が食えない顔で意地悪を言えば、ピジョンは弱りきってうなだれる。
「まず先生や修道女の是非を乞うべきでした、謝罪します。その上で俺からお願いです、ヴィクを引き受けてほしいんです。……先生には前に話しましたけど俺の母さんは娼婦で、俺たちは子供の頃から色んな町を転々としてきました。そこで色んな子供を見てきました。親に捨てられて盗みで食い繋ぐ子、路地裏に転がったまま動けない子、瞬きしない眼の匂いを野良犬に嗅がれている子……」
自分たちには母がいてくれてまだ幸せだった。
ひもじい思いはしても飢えた経験はなく、兄弟共用のベッドもあった。
「……あの時の俺は子供で、知らんぷりで、彼らの前を通りすぎることしかできなかった。路地裏に寝転がる彼らに、ポケットに余裕がある時だけ施して、それさえない時は目を合わせないように俯いて、自分だけさっさと家へ帰ったんです」
母が待ってくれている家に。
「君は悪くありませんよ、孤児を養うちからも助ける甲斐性もないならば同情はかけるだけ酷というものです。その場は見過ごすのが正解です」
「正論かもしれませんが、正しい行いではありません」
師は許す。
されどピジョンは許せない。
「あれから何年も経ちました。都会に出て、夢を叶えて、あの頃より少しだけマシになれたんです。おっかなびっくり手探りだって、色んなことを決めれる自分になれた。こんな俺の力で、1人の子供を助けられるかもしれないきっかけが降ってきたんです」
だれかを救いたいとか助けたいとかおこがましいのかもしれない。
でも願わねば、最初に欲張らなければ
「お願いします先生。いずれ俺が独り立ちしたら、その子の分の経費を毎月持ってくるって約束します」
これがピジョンが考えた末に辿り着いた誠意の見せ方だ。
神父が軽く驚く。
「本気でおっしゃってるんですか?育ち盛りの子供1人にかかる経費を甘く見積もってはいけません、結構な額ですよ。病気でもしたらさらに出費が嵩みます」
口元に停滞する笑みは限りなく薄まり、眼鏡の奥の糸目からはプレッシャーが放たれるものの、ピジョンは気迫と覚悟で負けるものかと真っ直ぐ師と対峙する。
「その際は身銭を切ります。仕事の報酬で賄えない分はバイトでもなんでもして、部屋だってもっと安い所に移ればいい。スワローはまたごねるでしょうけどアイツが発端なんだ、キツく言ってわからせます。服や靴や身の周りの物を売って……さすがにライフルは売りませんけど、ああでも質に入れるならアリかアリなのかやっぱダメだ賞金稼ぎとしてそれだけは駄目だ、ともかく皿洗いでも子守りでも稼げるだけ稼いで、必要な分は必ず持ってくるって約束します」
ピジョンは本気だ。
思い詰めた目と真剣な表情で机を隔てた神父に食い下がり、懇願する。
「お願いします。どうか」
あのスワローが子どもを助けて面倒を見ようとしている。
兄として力になりたい、少しでもその子の人生がより良い方にいくように働きかけたい。
ここならば、この人のもとでならそれは可能だ。
ピジョンは断固として譲らず、胸元のドッグタグを無意識に掴んで師に挑む。今は一人だが、スワローと二人で師を説得している気分だった。
「仕方ありませんね。決をとりますか」
神父が椅子から腰を上げてドアへと振り向く。
「お入りなさい皆さん」
「え?」
ドアの向こうで盛大な物音がする。
数呼吸の不自然な沈黙のあと、観念したようにノブが回り、一列に並んだ修道女がお目見えする。全員が盗み聞きしていたのだ。
「神父さま、これにはわけが!」
「ブラザーピジョンが珍しくおっかない顔をされてたので気になって」
「ちょっとした出来心なんですの、お許しを」
「この通り、懺悔いたしますわ」
「あなた方の好奇心は咎めません。……一部始終を聞いていたなら多数決の議題はおわかりですね」
「「はい」」
修道女たちが顔を見合わせ姿勢を正す。
年恰好こそ違えど、いずれの顔にも崇高な決意と聡明な理解が浮かんでいた。
そんな頼もしい修道女たち1人1人を見回し、既に結果が見えているかのような満ち足りた微笑みで神父が質問。
「ピジョン君の提案に賛成の方は前へ」
修道女たちが綺麗に足並みを揃え、一歩前に出る。
別段示し合わせた訳でもなかろうに、彼女たちは神の教えと己の信念に照らして決断を誇り、皆が皆息子か弟でも見るような表情で微笑ましくピジョンを取り巻く。
「神父さまは大袈裟におっしゃいますけど、今さら1人2人増えたところで手間はそんなに変わりませんことよ」
シスターエリザがおどける。
「たまねぎを剥く係が増えて逆にラッキーですわ」
シスターゼシカが頬に手をあてる。
「人の子はお断りなんて逆差別、我らが神の意に反しますわ」
シスターモニカが両手を組む。
「わたくし12兄弟の末っ子ですの、賑やかな方が楽しいわ」
シスターアデリナが溌剌と言い
「必ず寄付を持ってくる、ということはここを出てからも毎月ブラザーピジョンに会えるという認識でよろしいかしら?やった!」
シスターコーデリアが冗談ぽくウィンク。
「…………」
胸が熱くなる。
修道女たちは誰一人としてピジョンの申し出に否を唱えない。
実質的な負担が増えるのは自分たちなのに、ピジョンの勝手な取り決めを一言たりとも責めはせず、誠実に後押ししてくれた。
「―だそうです」
この結末を予期していたのか、神父がおどけて肩を竦める。
逞しく図太く優しい人たちの包容力が身に染みる。
こみ上げてくる熱い涙を瞬きで引っ込め、ピジョンは心からの感謝を述べる。
「ありがとうございます……」
「まあ泣かないでくださいなブラザーピジョン」
「困ったときはお互い様でしょ?」
「俺、これからもっと皆さんの役に立てるように頑張ります。朝はもっと早く起きて洗濯手伝いますし、廊下もすみずみまで雑巾がけしてキレイにしますから」
「修行にきてるのでしょ、余計な気は回さなくていいから本分を果たしなさいな」
「目が真っ赤よブラザーピジョン、目薬さす?」
「ハンカチ貸しましょうか?カワイイでしょこのパンダの刺繍、わたくしの自信作なのよ。新聞に載ってた動物園のパンダの赤ちゃんをモデルにしたの、今度子供たちと遠足を計画してて……」
ピジョンの泣き顔に母性本能をくすぐられた修道女たちがわっと押しかけ、ここぞとばかり彼をハグして頭をなでまくり、あわよくば頬にキスをする。
過保護な修道女らに手厚く慰められたピジョンは洟を啜り、身体ごと神父に向き直ってお辞儀をする。
「ありがとうございます!」
「多数決ならば仕方ありません、従うのみです。当教会は縁の下を支える修道女の皆様方の権威でもっておりますので、一致団結した女性陣に反旗を翻すような恐ろしいまねできませんよ」
修道女たちを立てて謙遜こそするものの、新しい仲間の受け入れが決定し、神父の口元は楽しげに笑っている。
ここに来れてよかった。
ここに居れてよかった。
素晴らしい師と修道女、子どもたちに出会えた幸運をピジョンは噛み締め、モッズコートの袖で瞼を拭く。
「そうと決まればベッドを一台手配せねばなりませんね、物置にあったでしょうか」
「運んできます!」
「お待ちなさいピジョン君、もう夜遅いので……ああ、行ってしまいました。悪い子ではないのですが、人の話を聞かないのは困りものですねえ」
「神父さまってば、まるで本当のファーザーね」
神父の呆れ声と修道女たちののんびりした笑い声に送られ、神父は物置へと走る。胸は幸福感で一杯だ。人として優れた師と引き合わせてくれたキマイライーターに改めて礼を言いたい。
物置は孤児院に使われている棟の一番端に位置した。子供たちが「開かずの間」とふざけて呼んでいる部屋だ。
閉め切られた戸を開けると盛大に埃が舞い、コートの袖で口を封じて咳き込む。
「げほっごほっ、すごい埃……」
骨の折れた雨傘や欠けた皿、脚が一本外れた椅子など、壊れて使えなくなったが捨てるに忍びないガラクタが雑然と詰めこまれた部屋の奥に、布をかけられたベッドがあった。
神父や修道女の女手でベッドを運び出すのは一苦労。
ピジョンを信じ応援してくれた、皆の厚意にこたえるためにもベッドの運搬は1人でこなしたい。
大丈夫、子供用サイズだし然程重くないはず。
部屋を突っ切ってベッドに歩み寄り、素早く布を取り払い、マットレスの綿がはみでてないか、虫食いがないか簡単に点検する。
「よかった、使えそうだ」
ベッドの前に片膝付いてマットの傷み具合を確認していると、靴の先端に固い物があたる。ベッドの下に押し込まれた段ボール箱だった。
「これは……」
布をベッドパイプに掛け直し、箱を引っ張り出したのは出来心だ。
神父が言っていた、物置には前任の神父の遺品も保管されていると。
前任者には身寄りがなく、彼の死を看取った神父がその私物を託されたのだが、故人のプライバシーに配慮した為下手に触る訳にもいかず、物置に入れっぱなしになっているのだと以前修道女が話していた。
先生の先代。
どんな人なんだろ。
「……そういや俺、先生がここに来た理由も知らないな」
否、正しくは教えてもらってない。
何回か聞こうとしたことはあるのだが、その都度上手くはぐらかされてうやむやになる。
元賞金稼ぎにして神父という異色の経歴はひどくピジョンの興味をそそるものの、本人が避けている話題を詮索する気もおきず、いたずらに好奇心を燻らせていた。
『神様が嫌いだったんですよ』
墓地での独白が真実だとしたら、何故教会の神父など務めているのか疑問が深まる。
ピジョンの目には神父こそ天職に映るが、聖職者を志した動機は神への愛と対極の感情を出発点にしているのか。
あの発言の真意は?
神様が嫌いな理由とは?
尊敬する神父の過去に一体何があったのか……
疚しい気持ちと知りたい気持ちを秘めて箱を漁れば、底から一冊の本が出てきた。
「日記帳?」
表紙の埃を吹き上げて咳き込む。箱の底に埋もれていたのは年季の入った革装丁の本で、右下に前任の神父とおぼしき署名がしるされている。
古い日記を抱えて生唾を飲む。
「……待て待て、もう死んでるっていっても人様の日記だぞ?勝手に読むのはまずいぞピジョン」
でも、この中に神父の過去が書かれているとしたら?
神父がここにやってきた経緯や、前任者との出会いが綴られているのだとしたら……
そんなの物凄く知りたいに決まってる!
「ぐ……」
戻さなければ。
頭ではわかっていても、むくむくともたげる好奇心は断ち切りがたい。
悪魔の羽を生やした心の中のスワローがパクっちまえよとけしかける、天使の羽で羽ばたく心の中の母がだめよピジョンと忍耐を促す。
良心と好奇心でぐら付きながら、1ページ、1ページだけと自分に言い訳してページを開く。
歳月を封じた紙の匂いが鼻腔を突き、褪せたインクで流暢に紡がれた筆記体が眼にとびこむ。
『彼と会うのは二度目だ。再びここに来た時、夜梟は目に包帯を巻き、「バードバベルを滅ぼしたのは僕だ」と言った』
『「天使を殺してきた」とも』
「え……」
「ピジョン君?」
逆光を背負った人影が戸口に立ち塞がる。
「!っ、」
「やけに遅いので様子を見に来たのですが、ベッドの場所はおわかりになりましたか」
「すいません、蜘蛛の巣払ってたら時間がかかっちゃって……すぐ戻ります」
突然の呼びかけに仰天、上着の裾にくるんで日記を隠す。善悪の判断を保留した咄嗟の行動であり、自分でも戸惑いを禁じ得ない。
幸い師はピジョンが日記帳を入手した事に気付いてないらしい。
「今日はもう遅い、子どもたちが寝る時間です。運び込むのは明日にしませんか」
「ですね……」
「君も色々あって疲れたでしょうしゆっくりお休みなさい」
「お言葉に甘えて」
神父が微笑んで帰っていくのを見送り、埃っぽい物置に独り立ち尽くし、裾にくるんだ日記帳をギュッと握り締める。
先生には、俺が知らない秘密がある。
子供好きな人格者、男勝りな修道女に頭が上がらないお人好し、弟子を優しく厳しく導く師匠、教会の屋根に臥せって正確無比な狙撃をこなす元賞金稼ぎの裏の顔。
『なあピジョン、テメェが懐いてるその先生ってホントーに信用できんの』
神様が嫌いな神父の本性。
師の気配が完全に去ったあと、咽喉に詰めていた息のかたまりを押し出し、後ろめたさと高揚感、両方に震える手でページをめくる。
『墓地で死ねば埋葬の手間が省けて万々歳ですね、これを神の思し召しとせず何とします?』
ラトルスネイクを狙撃で牽制した。
『殺す覚悟をした人間は殺される覚悟もしなければいけません。きちんと殺したいと思って殺すのが殺す人々への最低限の礼儀です』
師は言った。未熟で甘さがぬけないピジョンに、いかなる時もシビアに徹する賞金稼ぎの心得を伝授した。
『殺す殺さないを決めるのはあなたです。自分の意志で引鉄を引きなさい』
より効率的な銃の構え方、より効率的な引鉄の引き方、より効率的な殺し方を伝えた。
『賞金稼ぎになれば、神様が取りこぼした麦穂を少しは拾い上げられると思ったんですよ』
そう語る彼と、子どもたちと戯れる日常の彼との掴み所ない乖離に不安がいや増す。
時として非情になる師の二面性が隠喩する過去は、ピジョンの想像をも絶する深い闇を孕んでいるのではないか。
知りたい。
知りたくない。
『「元」賞金稼ぎがおキレイな経歴の訳あっか、だまされてんだよピジョン』
『お前が尊敬してる先生とやらは、ただの改心した人殺しだ』
「……先生はいい人だ」
スワローがいかにも言いそうな幻聴に反発、覚悟を決める。
自分が唯一の師と恃む人物の本当の姿を知りたいと望むのは、正しい欲求じゃないか。
理性の働きが鈍り、善悪の判断を彼岸に置き去りにする。
渇望めいた衝動に駆り立てられ、遂にタブーを犯す。
嘗て夜梟と呼ばれた師が誰を殺したのか、何故殺したのか……ページを繰る手が止まり、ある一文に釘付けになる。
『バードバベルは地図から消えた。|不死鳥《フェニクス》に焼き滅ぼされたのだ』
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