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第14話

教会は月に一度炊き出しを行っている。 先代から引き継ぐ慈善活動の一環で、神父率いる修道女たちがボトムの広場へ赴き、貧しい人々に無償で食事を施すのだ。 広場で提供されるのは薄い粥とパン、マッシュポテトにスープ。普段は教会を敬遠している人々も、この日ばかりは食欲そそる匂いに誘われて、帆布をツギハギしたテントの前に列を作る。 「はいはい割り込まないで、まだ沢山ありますから」 「そこ、喧嘩しない。行儀よく待てないならお預けですよ」 腹をすかせた垢塗れの浮浪児やボロを纏った浮浪者が集まり、あちこちへこんだアルミ皿にスープをよそわれるや、匙ですくって啜りだす。中には待ちきれず皿から直接飲み干す者もいる。 礼儀など知ったことかとパンにかぶり付き、咽喉が詰まっても構うものかと豪快に咀嚼する。 日頃の食事にも事欠く生活水準の住民が大半を占めるので、いざパンやスープを手に入れても奪われやしないかと、さもしくなるのは仕方ない。 「てめぇあとから来たくせにでしゃばるんじゃねえ」 「痛てえっ、足踏みやがって!犯人誰だとっとと出てこい!」 「お母さんお腹すいた」 「もう少し待って頂戴、今あげるから」 列では女子供や老人が優先され、体力のある男は後回しになる。その為後続に送られたむさ苦しい野郎どもの乱闘騒ぎが絶えない。 修道女たちは慣れたもので、それぞれお玉やトングを持ち、深鍋のスープや藤籠のパンをてきぱきと配っていく。 ただ飯が食えるとあれば教会を毛嫌いしている連中も群がるため、広場は大変賑わっている。 「先代からの伝統だって聞きました」 「腹が減っては信心できぬと言いますしね」 「場所は毎回ここで?」 「大抵この広場です。教会から少し離れているのが難点ですが、他にめぼしい空地が見当たりませんしね。ミュータントと人の居住区のちょうど中間にあるから公平を期すのに都合がいい。行政から見放されたボトムでは土地を確保するのも大変なんですよ」 「偏りを出さないようにするためですか」 神父の回答に感心し、テントが設営された空地を見回すピジョン。 周囲にはプレハブのあばら屋や老朽化したアパートが密に立て込み、窓から窓へ縦横無尽に張り渡されたロープに大量の洗濯物が翻るせいで空が殆ど見えない。 「手伝いに志願してくれて助かりました、やはり男手があると違いますね」 「本当本当、神父さまだけじゃ頼りないから」 「何度コケて深鍋をぶちまけそうになったことか」 「しーっ、ですよ」 神父が人さし指を立てて口止めをする。 朗らかな笑いが弾ける中、ピジョンははにかみがちに肩を竦めてみせる。 「留守番してるシスターゼシカや子供たちに、良い報告を持ち帰りたいですからね。俺が力になれるなら喜んで」 もちろん全員が炊き出しに駆り出される訳ではない、孤児院で子供たちの面倒を見る人間が必要だ。 今回はシスターゼシカがその任を引き受け、子供たちを監督している。 炊き出しは意外と重労働だ。なにせ大量に作って配らなければならない上に、全員に公平に行き渡るか目を光らせておく係もいる。さもないと力に物を言わせ、弱者からぶんどる不心得者が必ずでるのだ。 調理係のシスターエリザはいうに及ばず、配膳や給仕の他にも生来の気性の荒さに加え空腹で気が立った住民たちのお目付け役も必要ときて、大人数で分担しなければとても回らない。 「教会で作った物を配るだけじゃ限度がありますわ」 「配給量も多いし、とても全部は持ってこれない」 「まるで戦争ね。それも野戦」 「どうせならできたての温かいものを召し上がってほしいわよね」 姦しく囀って、順番がきた浮浪者の皿にスープやパンをよそっていく修道女たち。 会釈して去っていく親子連れを見送る眼差しは温かい。 吹きさらしの広場で可能な調理は簡単なものに尽きるが、火を焚いて鍋をかければスープを作れるし、先代から使い込んだパン焼き窯もある。 「この窯は誰が作ったんですか?」 「先代の神父とシスター達が」 「いちから煉瓦を積み上げるの大変だったろうに」 「頭が下がります。我々も改良を加えたのですよ、リヤカーで煉瓦を運んで……腰を痛めました」 神父が得意げに胸を張り、テントの後方にある煉瓦造りのパン焼き窯を振り返る。 先代の手製らしい窯は煉瓦とセメントで塗り固めてある。大きさは然程でもないが土台の造りはしっかりしており、あと十年は現役で使えそうだ。 「そろそろ拡張したいのですけど手が回らなくて」 「言ってくれれば手伝いますよ」 「まあ嬉しい、本当にブラザーピジョンは働き者ね」 「真面目ないい子だこと」 「俺も焼きたてのパン食べたいですし」 「いっそ教会の子になってしまいなさいな」 「はは……考えておきます」 修道女たちに口々に褒められ、頭をかいて照れる。魅力的な提案に正直誘惑されるが、返事は保留しておく。 なにせ詰めかける人出が多いので、人手は少しでも多い方が有り難い。ピジョンの参戦はシスターたちに諸手をあげて歓迎された。 物欲しそうに指をくわえる子供たちと痩せさらばえた女たち、不機嫌と無気力、あるいはその両方の男たち。 上空に犇めく夥しい洗濯物と無秩序に密集する殺風景な建物群。 バスケットコートほどの広さの空地には始終赤子や子供の泣き声、いらだった怒声が響き渡る。 「たっぷり召し上がって」 「腕によりをかけましたのよ」 シスターたちは区別なく差別せず、困難が鍛えた気丈な微笑みを浮かべ、人と亜人ともに公平に糧を分け与えていく。 洗濯物に占拠され極端に面積が狭い空の下、仄白い湯気に乗じて広がるスープのいい香り。 長時間の行列と寒風に耐え、皿を受け取った人々の顔にかすかな微笑が咲く。パンを取り分けた瞬間の笑顔に応じ、ピジョンの胸にささやかな喜びが灯る。 屋根の破れた小屋が並ぶ陰鬱に寂れた風景から、老若男女ごった返す手前の行列に目を転じ、ピジョンが呟く。 「色々な人がいますね。子供にお年寄り、女性に男性……」 「炊き出しに許可証はいりません。列に並ぶ条件は空腹か否か、行儀よく待てるか否かに尽きます」 「子連れの人もちらほら」 「娼婦でしょうね」 あっさりと口に出し、泣き喚く赤子をあやす若い女を同情的に見る。 「向こうの角や通りで商売している方々です。お店に属せれば安全なのですが、なかなかそうもいかない事情があるのが辛い所です」 「店にとられる分を考えれば、道端で商売した方が割がいいですもんね」 娼婦の母を持ったピジョンが訳知り顔で頷く。 「ウチは流しでしたけど……トレーラーハウスで街から街へ旅するんです、行く先々でよそ者って嫌われたな。長くて三か月かそこらかな、滞在したのは」 「大変でしたね」 「今じゃいい思い出です。色んな所へ行けたし、少ないけれど友達もできた。母さんは俺たちを立派に育ててくれました、体を売って稼ぐのを恥じるのは間違いです」 神父が年齢不詳の顔にまどやかな達観を浮かべて頷く。 「同感ですね。なにも売る物がない時に自分を売るのは罪にあらず恥でもない、よしんば矜持を持って仕事している方々に失礼です。非難されるべきは他者を裏切り騙し傷付ける行いで、性と引き換えに金銭を受け取るのは間違っていません」 穏やかに同意する神父の横顔を少しだけ後ろめたげに窺い、長年の疑問を切りこむ。 「聖書は汝姦淫すべからずって」 「聖書が姦淫を禁じているのはそれがとても気持ちいい事だからですよ。欲に溺れる心の弱さを咎めるのはわかりますが、姦淫で生計を立てねば生きていけない人々の存在を見落としています。私は聖書の記述が絶対に正しいとは思いません。神の教えはその時代ごとに、それぞれの為政者に都合よく解釈されてきました。我々が行うのはただの翻訳で意訳、為政者に阿る思考停止は本質を損ないます」 神父になった理由は神様が嫌いだからと語る男が、空の彼方に遠い目を馳せる。 分厚い眼鏡が遮る横顔には、長い歳月に濾された神への不信や憎悪、そのはてに掴んだ一かけらの信仰心が浮かぶ。 「聖書にも不備はあり、それ故誤謬や矛盾が生じます。なればこそ迷える子羊により良く生きる道を説く解釈の柔軟さが求められます。聖書は神の為にあらず人の為に生まれた書物であるからして、カビの生えた記述をそのまま鵜呑みにせず、良心にくべて翻訳するのが我々の務めです」 聖書は生き方の規範を説くもので、異なる立場や環境におかれた人々に絶対的な正しさを押し付けるものであってはならない。 「信仰とは本来誰に強制されるものでもなく、自然に芽生えるものでなくばいけません」 「だから布教に消極的なんですか」 「礼拝への参加と引き換えに配給するようなまねはしませんよ、それではたんなる脅しです」 続いて子供の手を引く娼婦たちへ凪いだ視線を向ける。 自分のスープに吐息を吹きかけ、冷ましてから息子に含ませる母や、半分にちぎったパンのうち大きい方を娘に渡す母がいる。 皆貧しい身なりをしていたが、隙間風を避けて寄り添いあうすがたには親子の絆が感じられた。 「姦淫を悪と見なすか否かは人次第です。持論を述べさせていただきますと、体を張って家族を養うものたちが悪徳を働いてるとは思えません。それはおのれを売らずとも食べていける傲慢と、おのれを売る現実を想像だにしない怠惰が結び付いた罪ではないでしょうか」 売春を容認する神父の言葉は、娼婦の私生児として生まれ、父親が誰かもわからないピジョンの胸にじんわりしみた。 少なくとも神父は娼婦を蔑んではいない。その反対だ。 ままならない現実を知るからこそ優しく厳しい師の言葉は、自分の存在を肯定する勇気をなにかと卑下しがちなピジョンにもたらした。 「俺もそう思います。これまで出会ってきたのは強くて優しい人たちばかりでしたから」 スワローによくしてくれたキディやジェニーの母親も。 娼婦すなわち罪深いとは決め付けたくない弟子の純粋さを認め、神父が述懐する。 「職業に貴賤はない。貴賤を生むのは人の心です」 神父が何故娼婦に肩入れするのか、ふと聞いてみたくなる。 「お知り合いでもいるんですか」 「忘れられない人が」 「それってまさか……」 恋人だろうか。 思わせぶりな言い方に妄想を逞しくする。それ以上の詮索は自重し、何食わぬ素振りで引き下がる。 ろくに下水すら整備されてない劣悪なスラムでも、地べたの人々は逞しく生きている。 向こうのテントで野太い怒号が上がる。 「味がしねえぞこの粥、調味料ケチってんのか!ただの白湯じゃねえか、もっと濃いのにしやがれ!」 「無茶をお言いになさらないでくださいまし」 柄の悪い男にシスターが詰め寄られている。神父と顔を見合わせたピジョンが慌てて割り込む。 「どうしたんですか」 「この方が粥の味がしないと苦情を申し立てて……小さい子供やお年寄りの事を考えると、どうしても無難な味付けにならざるえませんのに」 「こんな薄粥で満足できるか」 「そうだそうだ!」 「なら自分たちでお作りになればいかが?」 「お鍋や材料は貸しますことよ」 前々から粥の味に不満を抱いていた男たちが大合唱、怒髪天を突いたシスターが腕まくりして言い返す。 ピジョンは「まあまあ」と交互に宥め、憤懣やるかたないシスターエリザに耳打ちする。 「気持ちはすごいよくわかりますけど、鍋を分けるわけにはいきませんか」 「余計に手間が増えてしまいますわ、量の確保を優先するなら一度に作り置きする方が効率いいのに」 「皆それぞれ好き嫌いはあります、好みに合わせて調整していたらきりがないじゃない。栄養失調の人だっているのに、濃い味付けにしたら胃がびっくりしちゃうわ」 「小さい子だってわがまま言わず食べているのに、大人を依怙贔屓してどうしますか」 「ちょっと失礼」 深鍋の中身を小皿に移して味見する。 「確かに薄い気がしなくもないような……?」 「ブラザーピジョンはどちらの味方ですの!?」 「もちろんおいしいですよ、味が薄いって人には胡椒と塩を回してください、テントに瓶があるんで……今とってきます!」 反対側で怒号と悲鳴が炸裂。 振り返ればガタイのいい男が、赤ん坊を抱いた女を唾飛ばし罵っている。 「うるせえとっとと泣きやませろ、泣きやまねーなら出てけ!」 「お願いいい子にして、お母さんを困らせないで」 必死に腕を揺らし、顔真っ赤で反り返る子をあやす女。 しかし赤ん坊の泣き声は激しくなる一方で、男はどんどん苛立っていく。 「子供が怖がるから怒鳴らないでください」 「なんだテメエは、教会の関係者か?だったらこのガキなんとかしろ」 「あなたこそ列を乱さないで、この人は順番守ってるんだ」 赤子を抱いた女を庇い、微笑んで安心させるのも忘れない。 「大丈夫ですよ、すぐ済みますから」 「人が話してんのによそ見すんじゃねえ!」 男が腕を振り抜いて殴りかかるのと、ピジョンが足払いをかけるのは同時だ。 神父に叩きこまれた護身術が役に立った。 「ぶへあっ!?」 「先生!」 「心得ました」 すかさず加勢に入った神父が地面にスライディングした男を抱き起こす……と見せかけ、手首を掴んで後方へ誘導する。 「いけませんね、順番は守ってくださらないと。あなたはもっと後ろでしょうに」 「俺はただ赤ん坊がうるせえから」 「乳飲み子は泣くのが本能ですよ、摘まみだされたくなければルールに準じてください」 やんわり手を添えているようにしか見えないのに、男の手首に巻いた指には揺るがぬ決意がこめられていた。 元いた列の後方へ男を送って行く神父に安堵のため息、怯えきった母子に向き直る。 「ありがとうございます」 「お礼なら先生に。あの……おぶってましょうか」 「え?」 「子守りは慣れてるんで。配給終わるまでそのへん歩ってますよ、ぐるっと回ってくれば泣き止むかも」 「でも……」 「気にしないでください。どうせ俺なんかいても邪魔になるだけだし、サボる口実ができてかえって有り難いです」 半分本音で半分嘘だ。 調理と配膳はシスターたちで概ね間に合っており、ピジョンの仕事はトラブル処理が主となるが、そちらも神父が出張れば大体解決する。 神父は目と耳が素晴らしくいい。 広場の至る所で小競り合いを起こす輩を遠目に視認するや、素早く仲裁に入って場を丸め込む。炊き出しを主催する神父に咎められては、胃袋を握られた男たちは下手にでざるえない。 誠意のかたまりのようなピジョンの目を見詰め、信用に足ると判断した母親の顔から緊張がぬけていく。 「お言葉に甘えて……」 ただでさえ炊き出しの列は殺気立っている。腹がすくと凶暴な手合いも増える。 周囲に白眼視される親子を見かね、親切心から申し出たものの、元より子供好きなピジョンは相好を崩す。 「よーしよし、元気だなあ」 「本当にありがとうございます」 母親から注意深く赤子を抱きとって、モッズコートの背中に結わえ付ける。結構重い。遠い昔、大して体格の変わらない弟をおぶって歩いた事を思い出してほっこりする。 列に戻る母親と別れて歩き出したピジョンは、背中の赤子を揺すって囁く。 「大丈夫。君はいい子だよ」 いい子にしてと執拗に言い聞かされた赤子をありのままに肯定すれば、次第に泣き声がボリュームを下げていく。 乳臭い匂いと柔いぬくもりを背中に感じ、幸福感に浸る。 炊き出しの列は当分途切れそうにない。あとからあとから人が湧いてくる。 「ブラザーピジョン、お匙が足りませんわ!」 「新しいパンが焼けました」 「お塩とってくださる?」 「今行きます!」 忙殺されるシスターらに雑用を頼まれ、行列の合間を縫って皿や匙を配り歩きがてら、むずがる赤子の尻を叩いて子守歌を口ずさむ。たまに背中を蹴られても笑って流す。 「Rock-a-bye baby, on the treetop,When the wind blows……小さい頃は気にせず唄ってたけど不吉だなこの歌」 「あ゛ァーーーーーだ」 「お母さんすぐ来るからね」 小さい握り拳を咥えて涎をたらす赤子。子守歌がきいたのか、まん丸く潤んだ瞳できょとんとする。いとけない愛くるしさに気持ちが和む。 「アイツもこの位の時は可愛かったな……」 いけない、また感傷がぶり返した。頭を振って現実に戻ると同時、人だかりで罵声が爆ぜる。 ふと視線を向ければ、豹の耳としっぽを生やしたミュータントと、人間の男が掴み合いの喧嘩をしていた。 「目障りなんだよ、イレギュラーは地べたの残飯あさってろ」 「爪も牙もねェただの人間サマが威張るんじゃねーよ、力じゃかなわねーくせに」 「言ったな野郎」 「殺るか?」 「また……懲りない人たちだな」 赤子をおぶったピジョンが向かうより早く、一触即発の両者へ黒ずくめの神父が歩み寄っていく。 「おやめなさい」 「コイツが因縁ふっかけてきたんだ」 「当たり前だ、イレギュラーと仲良く並ぶなんざ冗談じゃねェ」 殴り合いを期待する野次馬が盛り下がり、白けた一瞥よこすのにまるで臆した風なく、飄々とした微笑みを繕って続ける。 「神の糧は誰しも平等に分け与えられます。ご不満なら出直してくださって結構ですよ」 「引っ込んでろ偽善者、ぶっ殺されてェのか」 「炊き出しの場で殺人行為を働いて、無駄なカロリーを消費なさると?」 「てめぇ……」 「空疎な善より腹持ちする偽善を尊ぶ信条ですので。ここは私の顔を立てて、お互い譲歩してくださいませんか。うまし糧を得んと赴いた広場で諍い、放逐されるのは愚かしいです」 野暮ったい眼鏡のブリッジを押さえ、似ても焼いても食えない糸目で微笑む。 「毛皮や鱗、牙の有無は関係ありません。血と骨と臓物が詰まった肉袋を殴って拳を痛めるより、胃袋をぬくめるのを優先したほうが有意義と存じますが」 いきりたった男たちに脅しを噛み含める神父の姿は、痩身の優男とは思えぬ貫録を帯びていた。 見事に事態の収拾を付けた師の手際に、ピジョンは感服せざるえない。 「いざって時は肝が据わってるんだよな」 修行をはじめた今だからこそわかる、男たちを相手どる神父の身ごなしには無駄がない。 カソックの挙措は緩やかなれど付け入る隙を生まず、闇夜に紛れる梟の羽ばたきさながら敵を翻弄する。 普段気が抜けているのは芝居か。 シスターや子供たちの前で、とぼけた人柄を演じているだけなのか。 謎が深まる一方の師を見ていると、まだ一行だけしか読んでいない日記の記述が思い浮かぶ。 『バードバベルは地図から消えた。フェニクスに焼き滅ぼされたのだ』 あれはどういう意味だ? バートバベル……文脈から推理するに、おそらく地名だ。既に地図から消滅しているらしい。フェニクスとは何の隠喩だ?神話上の生物がまさか実現するわけない。 ピジョンにも知識はある。 フェニクスとは炎の中から甦る不死の鳥で、永遠や輪廻の象徴とされているはずだ。 物置の整理中に師の日記帳を偶然手に入れたものの、一行だけ目を通してから開く気が起きず、枕の下にしまってある。 好奇心に負けて持ち帰ったものの、いざ肉筆による記述を見てしまうと、師の信頼に背いて禁を破るのがどうにもためらわれたのだ。 それ以上読み進める事もできず持て余し、さりとて戻すタイミングも掴めず、枕に敷いて寝ている日記に思いを馳せてため息を吐く。 神父の過去を知りたいような、このままそっとしておきたいような複雑な気持ちのはざまで揺れ動く。 知ることで何かが決定的に、それも致命的に変わり果てる予感がし、あと一歩が踏み出せない。 空地にはドラム缶が焚かれ、皿を持った浮浪者が暖をとっていた。 ドラム缶を囲んでスープを啜りパンを齧る人々の顔に、先程の師の言葉が被さる。 『体を張って家族を養うものたちが悪徳を働いてるとは思えません。それはおのれを売らずとも食べていける傲慢と、おのれを売る現実を想像だにしない怠惰が結び付いた罪ではないでしょうか』 ピジョンも一歩間違えばあちら側にいたかもしれない、彼らと何ら変わらぬ人間だ。 ほんの少しの出会いと運に恵まれ、賞金稼ぎになる目標を叶えられたにすぎない。 なにより彼には血の繋がった相棒がいた。 子供の頃から二人で支え合い励まし合い、漸く夢を掴めたのだ。 「なんでだよ……」 あんなに怒る事ないじゃないか。 俺が何かしたか。 スワローが教会を訪れたのは一週間前だ。以降連絡はとってない。 ヴィクはすっかり新しい環境に馴染み、子供たちやシスターともうまくやっている。 ピジョンただ一人が、かくれんぼで見付けてもらえなかった子供のようにあの礼拝堂にとり残されていた。 理不尽な仕打ちには慣れている、物心付いた時からずっとスワローに振り回されてきたのだ。 が、今回は特にひどい。 せっかく会えるのを楽しみにしていたのに、礼拝堂で辱めた挙句に勝手にキレて出ていくとは…… どうしてこうなってしまうんだ。 なにもかもうまくいかない。 何日も前から会えるのを楽しみにして、のぼせあがってたのが馬鹿みたいじゃないか。 日常生活に障りが出るので考えないように努めても、気を抜くとすぐスワローへの怒りと不満、悲しみで頭が占められていく。 パン焼き窯にもたれて落ち込むピジョンの頬を、「あーだぁ」と赤子のてのひらが叩く。 「……慰めてくれるの?」 「だむ」 「いい子だね」 情けない苦笑いで感謝を告げる。そこへ神父がやってきて、ピジョンと並んで寄りかかる。 「見回りは終わったんですか」 「一休みですよ、君と同じくね」 「サボってるの見られちゃったな……」 「人も刷けてきましたし一息入れるには良い頃合いかと。シスターたちも交代で休憩してますよ、根の詰め過ぎは禁物です。この子は?」 「列に並んでた人から預かりました」 「かわいいですねえ」 小さな手に翳した人さし指を握らせ、神父はご満悦だ。本当に子供が好きなのだ。 「子守りなら任せてください、弟で鍛えられてます。アパートじゃ生活費の足しに近所の子の面倒見てたし」 「涎でべとべとですよ」 「あっ!」 赤ん坊が口を開け、滝のような涎がコートをしとどに濡らす。 濃く変色した肩を見返り、ピジョンが「あちゃー」と嘆く。 「おしっこじゃないだけマシかな」 「ポジティブですね」 「俺の血と汗と涙と色んな物がしみたコートです、赤ん坊の涎なんて大してばっちくないし今さらです」 自慢にならない。 しばらく神父と二人がかりで赤子と遊ぶ。 前後から覗き込む腑抜けた笑顔に警戒心をといたのか、神父が剽軽な仕草でいないいないばあを繰り返すと、甲高い声で笑いだす。 「かわいいなあ」 「本当ですねえ」 ピジョンはすっかりめろめろだ。雰囲気が和んだ所で、赤子とじゃれる神父に向き直る。 「ヴィクは皆と仲良くやってますね」 「あの年代の子供は吸収力が高い。あっというまに適応してしまいました」 「ミュータントかどうかなんて関係ないですね。変に気を回してたのが恥ずかしいや」 「毛皮や鱗の有無よりも一緒に遊んで面白いかどうかのほうが余程重要ですよ。ヴィク君はよく気が付くし年下の面倒見もいい、実に思いやりにあふれた子です。新しい遊びのアイディアも豊富だし、なにより物怖じしないのが素晴らしい。子供たちの仲間入りも苦になりませんでした」 「スワローやドギーさんに揉まれればいやでもそうなるでしょうね」 二人一緒にいる所を見る夢は叶わなかったが、ピジョンの直感が正しければ、ヴィクがスワローの世話を焼いていたにちがいない。 二日酔いで寝込むスワローにコップの水を運ぶヴィクの姿が自分とだぶり、兄としていたたまれない。 神父は口調を改めてヴィクの経過を説明する。 「現在の所悪夢にうなされている様子もありません。フラッシュバックと無縁ならよいのですが、彼がした体験をおもうとむずかしいでしょうね。記憶は落ち着いた頃にぶり返しますから」 「俺も気を付けます、夜の見回りを強化して」 「君は修行に専念なさい、年季明けが迫っているのですから」 「……ですね」 師の口から修行の期限に言及され、一抹の寂しさが胸を締め付ける。 狙撃手として生計を立てるのに必要な一通りの知識と技術、護身術は体得した。 あとは師の指導のもとブラッシュアップしていくだけだ。 「でも、俺が無理言って引き取ってもらったんだから責任を果たしたい」 「できると判断して受け入れたのを無理無体とは言いません、本当に無理なら断るだけです。承諾した以上その責任は後見人の私が負うべきもの、気に病む必要はありませんよ」 「それはそうかもしれないけど、関わらせてほしいんです」 承諾した人間に責任があるというなら、スワローの無茶振りを引き受けたピジョンにもヴィクを見守る義務があるのだ。 「スワローが助けた子なんだ、幸せになってもらいたい」 他人のことなどまるで考えない、自分さえよければそれでいいスワローが救った子供という一点において、ヴィクには特別な思い入れがある。 「未熟で、修行中で、付いててやれなかったから……アイツひとり死地に送り込んでのうのうとしてたんだから、後になって頼ってきたことはできるかぎりしてやりたいんです。たとえ自己満足でも」 依頼に同行できなかった引け目を、ヴィクの世話を焼いて中和しようとする自分のずるさに嫌気がさす。 「あぅーだ、だーむ」 赤子がご機嫌にこぶしを振り回す。横顔に胡乱な視線を感じる。 「弟さんと何かありましたか」 「どうしてですか」 唐突な質問に心臓が鼓動を打ち、確認をとる声が上擦りかける。 「ヴィク君が来た日から様子がおかしいので。皆が持ち場へ戻ったあとドギー氏と別れて教会へ向かうのを見ましたよ、午後の授業は身が入りませんでしたね」 ニアミスの危険性に冷や汗をかく。さらに師は指摘する。 「君の身体から香油の良い香りが漂っていました」 「シャワー浴びたのに……じゃない、すいません零しちゃって。俺じゃないんですスワローが悪いんです、アイツが香油の入った皿をひっくり返して、その匂いがコートにしみちゃって、洗ってもとれなくて」 「君の血と汗と涙と色んな成分ですね」 弟を売り渡すピジョンをぬるい笑みで許し、優しい眼差しで先を促す。 「喧嘩でもしたんですか」 「あはは……はあ」 「よければ話してみませんか、相談にのりますよ」 「先生を煩わせるほどのことじゃ……」 「一人で抱えるのは重たいでしょ」 ピジョンは観念し、スワローと仲違いした経緯を深呼吸を入れて語り始める。 「アイツほんと無茶苦茶なんです、気まぐれ自分勝手で全然変わってない、半年たったらちょっとは大人になってるって期待したのが馬鹿だった。先生たちへの挨拶すっぽかしてフイにいなくなったと思ったら礼拝堂にもぐりこんで二日酔いで寝てたんですよ、信じられますか罰あたりな」 「ああ、だからかすかに煙草と香水くさかったんですね」 「離れてた間のこと色々話したんですけど、なんか急にキレて当たり散らして。通り名間違えたのは悪かったけど、わざとじゃないんだからあんなに怒ることないのに」 「通り名?」 「正式名はヤング・スワロー・バードなのに、ストレイ・スワロー・バードって言っちゃったんです」 「ああ……」 神父が合点して口を噤む。 ピジョンはくたびれたスニーカーで地面を蹴り付け、やりきれない心情を吐露する。 「そっちのほうが馴染んでたから……って、言い訳にもならないんですけど。普段呼びあったりしないせいかうっかり忘れちゃって」 だからって、コンビ解消はひどい。 あまりに短絡的だ。 『あばよ、|だれかさんの小鳩《サムワンズピジョン》』 別れ際の捨て台詞が胸に刺さり、俯く。 「俺の通り名のリトル・ピジョン・バードも勝手に決めたんですよ、一緒に保安局の窓口で登録して……|小鳩《リトルピジョン》なんて恥ずかしくてすごい嫌だったけど仕方ないから許してやったのに、自分はたった一度の間違いも許してくれないなんて不公平じゃないか」 追いかけようとした。 できなかった。 スワローは大股に教会の敷地を出て行ってしまい、礼拝堂のポーチに立ったピジョンは、午後に詰まった修行をサボってまで、遠のく背中を追いかけるのを断念した。 だって、俺は悪くない。 言ってることは間違ってない、絶対に。 「うぬぼれて無茶やらかすなって、そんなんじゃまわりから人がいなくなるぞって、誰かが言ってやらないと。その誰かはアイツの兄さんの俺しかいません」 スワローの兄として生まれ、スワローのことを母に頼まれたピジョンしか、弟に苦言を呈す嫌われ役をまっとうできない。 「だからそうしたんです」 スワローが心配だから。 ひとりぼっちになってほしくないから。 誰とも群れずに独り飛ぶ野良ツバメになるなよと、あえてその名を口にした。 「呼び止めようと思えば呼び止められた、追いかけようと思えばそうできた、しなかったのは俺の意志です。喧嘩別れは毎度の事で、アイツは絶対折れないってわかってる。だけどホントは俺だって引き下がりたくない、名前を間違えたのは悪かったよ反省してる、だったらもっとマメに声を聞かせてくれればいい、用がなくても顔を見せに来たらいいじゃないか、お互い仕事や修行の邪魔になるとかただの建前ですよ、実際の所ツマらない意地の張り合いです、自分から会いに行ったら負けだって思ってるんです」 ピジョンは常に不安だ。 自分しか呼ばないスワローの通り名から、いずれ価値が薄れて永遠に失われてしまうのが怖くてたまらない。 弟の通り名を忘れる兄貴がどこにいると責められて、離れて暮らしたこの半年で、いかにスワローと溝ができてしまったか痛感した。 「なんで忘れてたんだろ……」 毎日アイツの事を考えてたのに、アイツを想わない日はなかったのに。 雑誌で、戯れ歌で、世間の評判で。 さんざんストレイ・スワロー・バードの名前を刷り込まれて、自分と一緒に飛んでいたはずの、本当のスワローを見失ってしまった。 スワローが遠くへ行ってしまうのが怖い。 置き去りにされるのが、とても怖い。 無意識にモッズコートの袖を握り締め、自己嫌悪にうなだれるピジョンの頬を赤子がやさしくなでる。 神父は正面に顔を固定し、炊き出しの列を眺めて口を開く。 「昔話をしましょうか」

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