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8-安藤
今から22年前。誰もが羨む、番のおしどり夫婦が居た。
夫はαで議員。妻はΩの専業主婦で、3つになったばかりの一人息子を目に入れても痛くないといった様子でとても可愛がっていた。夫はΩである妻を心配し、たった一度でも心無い言葉を向けられる事の無いよういつも傍で見守っていた。
しかし僅かその数か月後、彼らの関係は大きく変わってしまったのだ。
突如発生した謎のウイルスと流行病により、αが恐怖に震える世界。人々はそれを“パンデミック”と呼び、毎日感染者や死亡者を報道した。
ウイルスへの耐性を持っていないのは三つの性別のうちα性だけであり、αは勿論、身内にαを持つβやΩでさえも簡単には外を出歩けない日々に苦しめられたのである。そして、ウイルスは例外なく彼らの元へも襲い来る──。
病にむしばまれ、日に日に弱っていく夫を前にし、妻は祈り続けた。
「あぁ、神よ…どうかお救いください」
そう呟きながら。
薬も無く、ただ死ぬのを待つしか出来ない地獄の中で、とある噂が広まったのがちょうどその頃だ。とても信じ難い、しかし本当ならば運命の繋がりなんかよりよほどロマンチックな美しい物語だ。絶望的な致命率の病に打ち勝ったごく少数のαは、口々にこんな事を言い出したのだ。
『愛するΩの涙に救われた』と。
夫は妻に泣き縋った。殆ど力の入らない腕で妻を抱きしめ、自分を助けられるのは君しか居ないのだと何度でも聞かせた。しかし──
「神よ…ありがとうございます。あと少しで、私は自由になる事が出来ます。神よ、私をお救いくださりありがとうございます…」
妻は夫の為に泣く事は無かった。もっとも、涙を流したところで初めからそこに愛など無いのだから、夫の命を救う事は不可能だっただろう。
妻は夫を愛していなかったのだ。地位を確立させた夫は彼女を自分勝手に愛し、番い、隣に置いた。αの、それも地元では有名な男に逆らう勇気がΩの彼女にある筈が無く、『幸せな家庭』を演じ続けていただけだったのだ。
夫が死ねば、番は自動的に解消される。再び誰かと番う事は出来ずとも、発情期から逃げる事が出来ずとも、妻は幸せだった。誰にも縛られず、自由の身になれたのだ。
その後、妻ではなく独りの女に戻った彼女は住んでいた家を捨て、実家で以前の生活を取り戻す。家の外まで漏れる幼い子の泣き声を聞いた人々が家の扉をこじ開ける頃には、腐り始めた父の隣に座る一人息子も随分と衰弱していたそうだ。
施設に引き取られた“安藤虎和”という少年は、のちに器用な生き方を覚えてゆく。来るものは拒まず、去る者も追わない。縋ってくる者はゆっくりと距離を取って、決して自分に執着されないように。縛られることも、縛る事も無いように。父のような虚しい人生を歩まずに済むように。
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