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第34話

 目を覚ますと、隣で将星が眠っていた。少し開いた口から小さく寝息が漏れており、いつも見る顔より随分と幼く見えた。獣のように自分を求めた将星とは程遠い表情。その頬をそっと撫でた。  もうこの顔を見る事が出来ないのだと思うと鼻の奥がツンとし、込み上げてくるものに堪らず唇を噛んだ。  あれから二日間、将星に抱かれ続けた。  まだ少しヒートは残っているように思えたが、随分と体はマシになったと言えた。  喉の渇きを覚えベッドから降りようとしたが、将星の腕が理月の腰にがっちりと巻き付いていた。その腕をそっと解くと理月はキッチンのある冷蔵庫の扉を開け、ミネラルウォーターのボトルを取り出し一気に飲み干した。 「理月……?」  背中に越しに将星の少し掠れた声が聞こえた。 「おまえも飲むか?」  自分の声の方が余程掠れていて、思わず咳払いをした。 「ああ……後でもらう。ヒート、どうだ?」 「だいぶ抜けた……将星」 「んー?」  正面を向いたまま理月は将星を呼ぶと、欠伸混じりの間抜けな返事が返ってくる。 「今月中に提出しないとならない課題があって、それが片付くまで暫く会えない」  少し間があると、 「そうか……」  明らかにトーンの落ちた声。  将星を見る事ができない。  不意に後ろから抱きしめられ、理月の匂いを確かめる様に鼻を鳴らして匂いを嗅いでいる。 「まだ少し匂いがするな」 「……」  これが最後などと将星は思っていないのだ。そう思うと胸が締め付けられる。 「将星」  将星の方に体を向けると、理月は誤魔化すようにキスを仕掛けた──。  将星は、 『またな。落ち着いたら連絡してくれ』  そう言って帰っていった。  (もう……またはねえんだ、将星……)  将星を見送った後、崩れ落ちる様に理月はその場に蹲った──。  加奈子はあの日から日を置かず、大学まで理月を訪ねくるようになった。将星に別れ話をしてくれたか、と何度もしつこく聞いてくるのだ。  その日も大学の門を出ると加奈子が理月を待っていた。理月はわざと大きく溜め息を吐くと、 「そんな体で、長時間外で待ってるのはどうかと思うけど」  さすがに理月は心配になりそう声をかけた。  暦上、夏は終わったとは言えまだ残暑は続いているのだ。 「優しいのね。大丈夫よ」  そう言って彼女は笑みを溢す。 「三日後、将星の家で話をする」 「そう」  加奈子は理月の言葉に満足そうな笑みを浮かべると、帰っていった。 彼女は妊娠を告げていないように思う。おそらく自分が別れを切り出した後のタイミングで言うのかもしれない。  (したたかな女だな……)  そんな彼女の性格を将星は知っているのだろうか。  そして三日後──。  大学を終えると将星のアパートに向かった。いつものように駐輪場に自転車を止め、階段を登る。だが、酷く足が重い。このまま引き返し、何も告げず消えてしまいたいと思った。  空はどんよりと暗く、今にも降り出しそうだ。気圧もせいなのかそれとも、これから起こる事を脳が拒否しているのか、酷く頭が重かった。  呼び鈴を鳴らすといつも通りの将星が迎える。様子をうかがってみるも、いつもと変わりない様に見えた。まだ加奈子からは話はしていないようだ。 「? 理月?」  靴だけ脱ぎ、中に入って来ない理月を不思議に思った将星は理月に目を向けた。 「将星……」  一つ呼吸を置き、 「俺、スウェーデンに留学する事になった」  そう告げた。  将星の目は大きく見開かれている。 「留学? そうか……理月にとってはいいスキルアップにも繋がるもんな。いい話じゃねえか。まぁ、遠距離になっちまうけど……ああ、それとも俺もスウェーデン行けばいいのか。言葉を話せねぇけど、どうにかなるよな」  将星は動揺しているのか、一気に捲し立てるように言葉を発した。目は上下左右に動き、何とか冷静さを取り戻そうとしている様に見える。こんなに動揺している将星を見るのは初めてだった。 「留学は二年だけど、多分そのまま日本には戻って来る事はないと思う。だから……」  この先の言葉を発しようと口を開けたが、一瞬言葉が出なかった。  そして、大きく一つ深呼吸をすると、 「俺と別れてほしい」  そう告げた。  将星の顔はみるみる青白くなり、小刻みに体が震えている。将星は近付いてくると、理月の肩を掴んだ。 「別に……別れる必要ねえだろ……」 「……」  理月は首だけ横に振ると、将星は掴んだ肩を大きく揺らした。 「俺は別れねぇぞ……もう、おまえを離さないって、ずっと傍にいるって決めたんだ。何があっても離れねぇぞ! 遠距離が無理だっていうなら俺も行くしよ! だから別れるなんて言わないでくれよ! 理月!」  将星の目からは涙が溢れている。それを見た理月の心臓は抉れたかのように酷く痛み、込み上げてくるものにグッと堪える。 「それが……! 重いって言ってんだよ!」  将星を突き飛ばすと、将星はヨロヨロと力無く床に座り込んだ。 「俺にはやっぱり無理だ。おまえのそのクソ重い感情を受け止めてやる事もできないし、おまえといると嫌でもオメガとして自覚して生きていかないとならない。それに俺は耐えられないんだ」 「……近くにもいさせてもくれないのか?」  将星は縋るような目を向けている。 「俺がオメガで将星がアルファである限り……無理だ」  おそらくそんな理由で将星は納得しないだろう。理月は更に言葉を続ける。 「将星……何でおまえは俺に執着する? 俺のどこを好きだと言うんだ? おまえが俺に執着する理由、教えてやろうか?」  将星がゆっくりとこちらに目を向ける。その目は既に生気を失っている様に見えた。 「俺とおまえは……仮の番なんだ」  初めて聞く言葉に将星は面食らったような顔をしている。 「三年前のあの日、俺はおまえに手首を噛まれた」  そう言ってリストバンドを外し、将星に歯型の付いた手首を向ける。 「これのせいで、番の仮契約のようなものが結ばれてしまった。だから俺はおまえにしか反応しないし、おまえは俺に執着してるんだ」  そこまで言うと、理月は大きく息を吐いた。  将星は理月の言葉を受け入れ難いのか、理月に突き飛ばされた格好のまま、リビングで固まっている。  仮の番は本来、瓜生の推測でしかなかったが《仮の番》の話を聞いて将星はどう思うのか。 「好きだの愛してるだの、それは《仮の番》になって将星がそう思い込んでいるだけだ。仮の番になっていても俺は違う誰かに首を噛まれれば、その相手と本当の番になれる。あくまで仮だからな」 「違う……俺たちは運命の番だ」  将星の口から《運命の番》という言葉が出た事に理月は鼻で笑ってしまった。 「はっ!そんなお伽話、信じてんのかよ!」  そう言って将星は大きく横に首を振る。 「俺はあると思っている。俺と理月は運命の番だ……絶対にそうだ」  頑なに将星は自分との運命を信じているのか──。随分とロマンチストな男だと思った。  (きっと将星は……そう思い込みたいだけだ……仮の番になって、執着しているだけなんだ……運命の番だったなら、こんな結末になんかなるはずない……)  理月はきつく目を閉じた。  だが、気配を感じ目を開けると、据わった目をした将星が目の前に立っており理月はギョッとした。生気を失った中に殺気を含んだかのような将星の目に、理月はゾッとする。不意に将星の両手が理月の首にかかる。徐々に力が加わり、堪らず将星の腕を掴み爪を立てるがびくともしない。 「しょ……せ……」 「理月と離れるくらいなら……理月が他の誰かと番になるなら……おまえを殺して俺も死ぬ……」  意識が遠くなるのを感じながら、  (ああ……それもいいかもしれないな……)  そう思った。

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