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第35話
だが次の瞬間、将星の腕の力が抜けたかと思うと抱きしめられた。
「殺せるわけねえだろ! もっと抵抗しろよ!」
将星の涙なのか理月の首に濡れた感触があった。
「嫌だ……! 仮の番だか何だか知らねえが、そんなもの関係ねえ! 好きなんだ……離れたくないんだ! 頼む、理月……」
将星が自分に泣いて縋る姿に、正直苛立ちを覚えた。
本来、将星はこんな男ではない。元々は冷静で荒くれ者をまとめ上げる力があって、自然と人を惹きつけるアルファらしい男だ。ケルベロスの頭をしていた頃は、悪ガキ達の憧れの的だった。それは今も変わらないだろう。引退した後も将星を訪ねて来る者も多い。
そんな将星に醜態を晒させてしまっている。
自分がオメガで将星がアルファだからなのか。自分がオメガである故に、将星を変えてしまったのか──。
「俺は……俺に執着して、みっともない姿を晒す将星の姿はもう見たくない」
その一言に将星の肩が大きく揺れた。
「理月……ま、待ってくれ……」
体を離し自分を見つめる将星は怯えたように震え、顔は更に血の気が引き白かった。
「俺はおまえの子供を産む気はないしな。おまえ、子供が欲しいんだろ? 本当は俺に子供を産んで欲しいんだろ?」
「何……言ってんだ。俺は別に子供を望んでなんか……」
「秋吉の子供抱きながら、言ってたじゃねえか。子供が欲しいって」
自分でも言った事を忘れている様で、将星は記憶の糸を辿っている様だった。そして、思い出したのか、
「あ、あれは! その場の雰囲気でそう言うべきだと思ったんだよ! 幸せそうな紅羽と秋吉の前で子供はいらない、なんて言えねえだろ?!」
それは将星の本音なのかもしれない。
だが、きっとどこかで将星は自分と番になり、子を生す事を望んでいるのだ。
「将星なら……いい父親になれるだろうよ」
少し声が震えているような気がした。
「な、に言ってんだ……」
次の言葉を口にしようとするも、それを拒むかの様に呼吸の仕方が分からなくなり、息を吸い込むと喉がヒュッと鳴った。もう一度深呼吸を試みる。ゆっくりと息を吸いゆっくり吐いた。それでも心臓はバクバクと大きく鳴り、その鼓動は頭にまで響いてくる。口内はすっかり乾ききり、酷く喉が乾いている。
そして──、
「おまえの元カノ……妊娠してるって。父親はおまえだよ、将星」
そう言うと、将星の目は大きく見開かれていく。
「嘘、だろ……? てか、なんでおまえがそんな事知ってるんだよ!」
将星は理月の腕を掴むと掴んだ腕を揺さぶった。
「そんな事はどうでもいいだろ……おまえは父親になるんだ。彼女と子供を……幸せにしてやれよ」
理月は掴まれていない方の手で将星の肩をポンッと叩いた。
「俺は……理月との子供以外いら……」
理月はその後に続くであろう言葉を遮る様に、将星の頬を力いっぱい殴った。将星は不意を突かれた為か、体がグラリと揺れる。思いきり殴ったはずなのに、倒れない事が力の差を見せつけられた様で、こんな状況だというのに悔しかった。
「これ以上、幻滅させんな! できる事ならおまえを嫌いにはなりたくねえ」
将星は呆然とその場に立ち尽くしている。殴られた頬を押さえたまま放心している将星に、
「幸せになれよ」
そう言うと将星の部屋を後にした。
扉が閉まると、堪えていたものが一気に溢れ出る。
「う……っ、う……うぅ……っ……!」
嗚咽が込み上げ、立っていられずその場に疼くまる。視界が歪み目から溢れ落ちる涙で、アスファルトが点々と濡れていく。
(これで……終わったんだ……)
ふと人の気配を感じ、理月はシャツの裾で涙を拭うとゆっくりと立ち上がった。階段を降りようとすると、そこに加奈子がいてギョッとする。
加奈子も理月の泣き腫らした目を見て驚いている。
「なんで……泣いているの?」
いい加減、加奈子のデリカシーのない言葉に腹が立ってくる。
「好きな男と……別れたんだ……! 泣くに決まってんだろ! クソが!」
そう加奈子に言い放つと一気に階段を駆け下り、駐輪場に止めてある自転車に跨り荒っぽく発進させた。
ポツポツと雨が降っていた。次第にその雨は激しくなり最終的には雷を伴う豪雨になった。更に不運は続き、前輪が小石のような物を踏んだ感触を感じると、そのままバランスを崩し理月は自転車ごと倒れた。一瞬、全身に痛みを感じたが、すぐ起き上がり自転車を再び漕ごうとペダルに足をかけたが進まなかった。どうやらパンクをしてしまったようだった。
「最悪だ……」
頬辺りと膝に痛みを感じ、頬に触れると濡れたその指に血が付きそして、すぐ雨に流された。
大雨が降りしきる中、仕方なく理月は自転車を押して帰る事になってしまった。
(そういえば、将星と再会した時……こいつがパンクして将星に直してもらったんだよな……)
あれからたった四ヶ月程しか経っていないのだ。
(色んな事があったな……)
三年振りにヒートを起こし、将星に抱かれた。将星に酷く執着され、なし崩しのように付き合う事になった。
将星の気持ちはいつも真っ直ぐだった。それこそ理月の存在しか目に入っていないかのように、将星の想いは真っ直ぐ自分に向けられた。
ケルベロスという荒くれ者を纏める程のカリスマ性があるくせに、少し天然でマイペースなところがあり、そんな将星にいつも理月はペースを乱された。プライドの高い自分の性格を理解し、プライドが傷つくような事は決して言わず、傍にいられなくなる事に酷く怯えていたに違いない。
それでも、自分の隣に居られる事に幸せを感じてくれているかのように、
『好きだ、愛してる』
と、聞いているこっちが恥ずかしくなる歯の浮く様な言葉を、何度も何度も告げてきた。
いつしかそんな将星の隣に居心地の良さを感じ始め、この男の隣が自分の居場所なのだと思えるようになっていた。将星とならば、いつかオメガの自分を受け入れられる日が訪れ、この先の人生も将星と共に歩んで行けるのではないか。
何より──、
将星の隣にいる幸せを知ってしまった。
心のどこかで理月自身も《運命に番》の存在を信じていたのかもしれない。将星が運命の番ではないのか、でなければオメガである自分を受け入れようとするはずがないと。
それが運命 というのなら、受け入れようと──。
「何が……運命の番だよ……!」
思わず押していた自転車を放り投げようと、自転車を両手に高く掲げた。だがすぐ冷静になった理月は、そっと自転車を下ろすとその場にじっと立ち尽くす。人がいたならば、理月のそんな行動に、気が触れた人間がいると思われただろう。幸いこんな大雨の中、周囲に人などいなかったし、この激しい雨のお陰で流れる涙が誤魔化せるのがせめてもの救いだ。
本当に運命の番があるのならば、こんな結末になどなるはずがない。少しでも期待した自分が酷く惨めに思えた。
惨めだと思えるだけなら良かった。将星と出会い、今まで味わった事のない感情を知った。怒りや苛立ちだけではない。将星の優しさに触れ、将星と過ごす日々に居心地の良さと幸せも知った。それと同時に、大切な人を失う悲しみも知ってしまった。
出会わなければ良かった──、そう思いたくても思えない。それ程、将星に惹かれているのだと、失った今、気付いてしまった。
「将星……愛してる……」
口に出した途端、その感情は涙として堰を切ったように次から次に溢れてくる。
(もう……終わったんだ……せめて、将星たちの幸せを願おう……)
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