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第3話

「……麓のガルズ村のクロウ・オブシディアンといいます。山頂へ向かう途中に、倒れているあなたを見つけたので、治療をしようと駆け寄ったところです。治癒魔法をかけますので、腕をこちらに――」  一刻も早く腕の傷を治さなければ、とクロウが手を伸ばしたが、その手は彼に届くまえにばしんと叩き落とされてしまった。 「勝手に俺の身体に触れるな」  そして、怒ったように彼が言い放った刹那、言いようのないざわめきがクロウを襲った。全身の肌が粟立ち、さらにはじわりと冷や汗が滲み出る。今まで感じていた頭痛はさらに痛みを増し、脳が揺さぶられるような感覚に、クロウは吐き気を催した。 「……っ」  気づけばクロウの身体は男から離れ、まるで服従するかのように腹を見せ、仰向けになっていた。 「何をやっているんだ?」  不可解そうに男が訊き、クロウを見つめる。 「すみません、身体が勝手に……」  どうしてこんな格好に、と痛みの中で戸惑っていると、視界の隅で男が立ち上がるのが見えた。 「あ、あの、治療を……」  立ち去られてしまうのでは、とクロウは声をかけた。自分も頭痛でそれどころではなかったが、致命的なものではない。だが、男の傷は深刻だ。早く治さなければ傷口から雑菌が入って膿んでしまうかもしれない。  しかし、心配していたようなことにはならず、男はクロウに近づいてくると、険しさを解いた目で、まじまじとクロウを観察した。  そして口を開いたかと思えば、 「〈身体を起こして座り直せ〉」  と命令した。  その途端、またも不思議な感覚がクロウを襲った。彼の言葉に是が非でも従わなければならないような気がして、痛みを堪えて地面に手をつき、起き上がる。  ぺたん、と正座になって男を見上げたときには、どうしてか痛みではなく、焦れるような甘い疼きが全身に広がっていた。  男をじっと見上げるクロウに、彼は一瞬目を見開いてから、考え込むように顎に手を当て、それから今度は反対に、彼のほうからクロウに向かって手を伸ばしてきた。  何をするかと思えば、男の大きな手はクロウの真っ黒な髪に乗せられ、わしゃわしゃと撫でるように左右に動いた。  そして男は言った。 「〈いい子だ〉」 「……っ!」  柔和に細められた赤い瞳に、クロウの心臓が、震えた。  かつてないほどの喜びが押し寄せてきて、そのあまりの大きさに、どうしていいかわからない。 「なん、で……?」  頭を撫でられた、たったそれだけのことで、こんなにも満たされるなど、思いもしていなかった。自分は一体、どうしてしまったのだろう。その戸惑いが、涙となって現れた。  突然泣き出したクロウを見て、男がはっとしたようにクロウの傍に跪き、袖でぐいっと目元を拭った。 「なぜ泣く」 「わかりません。でも、なんだかとても幸福で……」  それに、ずっと気怠かった身体も頭も、嘘のように軽くなっている。こんなにすっきりとした気持ちは、何年ぶりだろう。 「あなたも、治癒の魔法が使えるのですか?」  今まで治らなかった頭痛が、信じられないくらいよくなったと伝えると、男は「いや」と首を横に振り、また考えるように腕を組んだ。 「あっ、怪我を……」  腕の傷が目に入り、思い出す。早く彼を治療しなければ。だが不用意に触れて怒らせてはまずい。クロウは正座のまま、男に懇願するように言った。 「僕のことが恐くないのであれば、怪我を治させてください。きっとこのままでは膿んでしまう」  少し迷ってから、男は傷ついた腕をクロウに差し出した。  よく見ると大きな爪に引っ掻かれたような裂傷で、獣か何かに遭遇してついたものだろうかとクロウは首を傾けた。もしこんな大きな爪を持つ獣が近辺にいるのだとしたら、神竜と出会うまえにその獣に食べられてしまいそうだなと心配になる。  傷に手をかざし、クロウはぎゅっと目を瞑った。そして手のひらに魔力を巡らせ、じわじわと熱を集めていく。すると、見る見るうちに男の傷が塞がって、痕もなく消えていった。 「はあ……。終わりました。これでもう大丈夫」  どっと疲れがきて、クロウは後ろに倒れ込みそうになる。だがそれを治ったばかりの男の腕が支えた。 「すごいな、おまえ。こんなにも強力な治癒魔法は初めて見る」  腕の中という至近距離で囁くようにそう言われ、相手は同じ男だというのに、クロウの鼓動は鳴りを速めていく。きっと、両親以外にこんなふうに触れられたことがないからだろうとは思うが、こんなときの対処法を、クロウは知らない。 「……あ。雨が止んでる」  ふと逃げるように見上げた空は、いつの間にか雲ひとつなくなっていて、雷の音もしなくなっていた。クロウのつぶやきに、男も空を見上げた。 「……ああ。本当のことだったんだな」  感慨深げに、男が言った。その顔は少し泣きそうで、クロウはきゅうっと胸が締めつけられるのを感じた。  しばらく穏やかな薄明の空をふたりで眺めて、山の向こうに陽が完全に落ちるのを見届けた。辺りが闇に包まれ、今まで聞こえていた鳥の声がすっかり静かになる。  松明を点けなければ、と男の手から抜け出そうとすると、ふいに男が訊いた。 「ところでおまえ、どうしてこんなところにいる? 山頂に向かうと言っていたが、あそこには何もないぞ」 「……わかっています」 「わかっているなら、なおさらどうして……」  不可解そうに眉間にしわを寄せる男に、クロウは無理やり笑みをつくって答える。 「僕は、生贄なんです。この山の頂にいる、イオナドの神竜様のお怒りを鎮めるための」  選ばれたのは、光栄なことだ。そう自分に言い聞かせるように、クロウは続ける。 「僕の村には、古くからの伝承があるんです。天を操り恵みをもたらしてくださる神竜様がお怒りになったときには、生贄を差し出す必要があるのだと。このところ天気が悪く、水害も起こっているようで、きっと神竜様がお怒りなのだろうと。だからそれを鎮めるために、僕が選ばれたんです」  だから自分が神竜に捧げられれば、元の豊かなアレスに戻るのだろう。それを信じて、クロウは山頂に向かっているのだ。  そう説明すると、しかし男は不機嫌な顔になり、吐き捨てるように言った。 「生贄だと? そんなもの、俺は求めた覚えがない」  その途端、ぼっぼっと男の周りに炎が灯り、周囲を明るく照らし出した。男の金色の髪と、澄んだ赤い瞳が、灯りを弾いてより輝いてみえた。 「え……?」  その魔法に一瞬気を取られたが、クロウは聞き洩らさなかった。  今、この男は「俺は」と言っただろうか。  そこで、はっとする。  どうして気づかなかったのだろう。彼の容姿は、まさにヴィシが言っていた神竜の姿と重なる。  金色の鱗に、赤い瞳。  鱗ではなく髪の毛だが、その彩にヒントはあったはずだ。 「もしかして、あなたがイオナドの神竜様、ですか……?」  人型になるなど、知らなかった。クロウが恐る恐る訊くと、「今頃気づいたか」と男はふんっと鼻を鳴らした。 「人間からはそう呼ばれているな。だが、それは総称に過ぎん。俺の名はほかにある」 「お聞きしても?」 「――バラウルだ」

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