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第6話

「頼るところなんかなかったもん。両親の葬式はやってくれたけど、僕を歓迎してくれる家なんかどっこもなかったよ。……泣いたって助けてくれないよ。無駄なんだよ。それなら楽しいほうがいいでしょ。それでいいじゃん」  ――まだ九歳だった麻陽に、その現実は重すぎた。  涙が枯れるほどに泣いた。両親が突然居なくなって悲しまない子どもなんかいない。麻陽は葬式中もずっと泣いていた。だけど周囲は目もくれなかった。ただ自分たちのことばかりを考えて、誰があの子を見るんだと押し付け合うだけだった。施設に行かせようという話も出た。しかし、叔父夫婦は麻陽の父に世話になることも多かったのだからこんな時に恩を返してやれと、結局麻陽はそこに押し付けられたのだ。 「楽しいって思い始めるとね、すっごい楽しくなる。泣いてたのがもったいなかったって思えるくらい。だから僕は今幸せなんだよね。すっごい楽しいし、この人生に感謝してる」  きっと麻陽は、頼ることも嘆くことも許されなかった。だから、楽しいと思うことで心を守るしか選べなかった。  それに気付いて、彼はきつく拳を握り締める。泣きそうな顔をしていた。そのタイミングで次の料理がきたものだから、店員が驚いたように彼を見ていた。  麻陽が無邪気に料理を喜んでいる間に店員が立ち去る。麻陽はすぐに箸を持った。 「すまなかった」  一口、料理を口に運んだ時だった。  彼がいきなり頭を下げた。 「……へ? どしたの?」 「俺はあまりにも無神経だった。きみの言うとおり、子どもが頼れるところなんかない。嘆いたってどうにもならないんだ。強く生きて、どうにか自分を守ってきみはこれまで生きてきたのに、そして今を大切に生きているのに、俺は欠損だとか可哀想だとか失礼なことを言った。……これまでも。俺はきみに"普通"を押し付けたな。そんなふうに生きてきたとは知らず、無神経だったと思う。本当にすまない」  相変わらずもりもりと箸を進める麻陽は、彼がおそるおそる顔を上げてようやく口の中のものを飲み込む。 「別に気にしてないけど」  それだけを言うと麻陽は一度飲み物を含み、そしてふたたび料理に手を伸ばした。 「きみが気にしていなくても……」  言いかけて、彼はふるふると頭を振る。 「そうだな。そうか。きみは気にしないのか。……俺なんかよりもうんと大人だ。きみはすごいな」 「そーなの?」 「そうだよ。素晴らしいと思う。俺もきみのようにあれたなら、婚約者にも捨てられなかっただろう」 「ことりさん、婚約者さんに捨てられたことショックだったんだ?」 「そりゃあね。出会いはお見合いだったけど、好きになろうと努力はしたし……彼となら良い家庭を築けるような気がしていたんだ」  そこでようやく、彼は箸を持った。  それからは彼は当たり障りのない話題を麻陽に振っていた。  普段はなにをしているのか。どんな食べ物が好きで、なにをするのが楽しいと思うのか。彼はとにかく麻陽に聞いてばかりだったが、麻陽はどれにも曖昧な答えを返すだけだった。  普段の彼なら「はっきり答えろ」とせっついてただろう。けれど麻陽のこれまでを考えて「好き」を決められるほど選択肢がなかったことを察すると、彼はただ「そうか」と笑うことしかできないようだった。  食事を終えて外に出ると、すでに時刻は二十三時を迎えていた。  普段の麻陽なら、この時間は仕事をしているかすでに就寝中である。今日は仕事もないし帰って寝るかとひっそりと決めて、くるりと彼に振り向いた。 「ことりさん、今日もありがとー」 「いや、これは俺の気持ちだから。……楽しかった?」 「うん。美味しかった」 「……まあ、うん。それでもいいよ」  どちらともなく歩み出して、自然と二人は隣に並ぶ。 「ことりさんなんでフラれちゃったんだろーね。こんなにいー人なのに」 「きみはそう言ってくれるが、俺は口やかましいぞ。すぐイライラするし、押し付けるし、無神経だし……」 「でも今日はカリカリしてないよ?」 「ん、そういえば」  彼はふっと微笑んで、麻陽を少し覗き込む。 「きみに話を聞いてもらったからかな。ちょっと余裕ができた気がする」 「ふーん?」  麻陽はパチパチと目を瞬いて、不思議そうに彼を見つめるだけだった。  麻陽は感情に流されない。物事の本質をとらえている。それが分かるから、穿つことなくまっすぐな目で麻陽を見ていられる。  だから気楽なのだろう。彼は気を張って生きてきた。麻陽の隣ではその必要もない。 「……麻陽、と呼んでもいいかな」 「いーよ」 「だろうな。きみはそう言うと思ったよ」  じゃあ聞かなきゃいいのに、とは言い返さなかった。  麻陽にはこの時間が心地よくて、彼も機嫌が良さそうだったから、なんとなく壊したくなかったのかもしれない。  ちらりと彼の横顔を見上げた麻陽は、すぐに前を向いた。 「……きみと水を被った日が、人生でどん底のピークだった。それまでにもポツポツと、親が倒れたり、大口の契約先と関係が悪くなったり、まあ嫌なことは続いていたんだけど……あの日の朝に犬が死んで、出社してすぐに友人が金を持ち逃げしたことを知った。最悪の気持ちの中商談に向かう途中で婚約者から別れを告げられて、その直後に水をぶっかけられた」 「えー。すごいね、そんなことってあるんだね」 「だから本当に、あの日に死ぬんだって思ったくらいだったんだよ」  彼が不意に足を止めた。一歩先で麻陽が振り返ると、優しい表情を浮かべた彼と視線がぶつかる。 「でもきみがあんな調子だっただろ。……正直気が抜けた。そしたら少し冷静になって、商談もうまくいったんだ。友人もその日のうちに見つけたし、犬も落ち着いた気持ちで弔ってやれた」 「よかったね」 「きみのおかげだ。ありがとう。……そう思ったから、また会いたかった」 「どーいたしまして」  麻陽は不思議な顔をしたままそう言うと、くるりと背を向けた。  きっと彼とはもう会うこともないだろう。すっきりとした顔をしていたし、これでお礼も謝罪も終わりだ。  麻陽は大きなあくびを漏らすと、夜の街に溶けていく。すると突然、背後から思いきり肩をつかまれた。 「また連絡をしてもいい?」  なぜか焦った様子の彼がそこに居た。麻陽を真剣に見下ろして、静かに答えを待っている。 「うん。別に、仕事ない時は暇だし」  麻陽の言葉に、彼はホッとしたのか、緩んだ笑みを漏らした。  

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