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第8話

 彼との約束の日の朝。  麻陽はなぜか、目覚ましより早くに起きた。  朝の客は三人、それを迎え入れる準備をしようと、麻陽はすぐにシャワー室に入る。風呂から出ると、メッセージが届いていた。彼からだ。 『おはよう。今日の約束、忘れないように』  時間と場所は昨日のうちに送られてきた。  時間に厳しい彼のことだから心配になったのだろうかと、麻陽はつい口元が緩む。 『おけ』 『挨拶しなさい』 『おはよー』 『よろしい』  相変わらず返信が早い彼と、そんなどうでもいい会話を繰り返す。  この時間が、麻陽は案外嫌いじゃない。 (ことりさんってまめだなぁ)  既読も返信も早い。麻陽が返し続ける限り、彼も返信を続ける。いったいどこで終わるのかといつも麻陽は張り合うのだが、先に眠る麻陽が彼に勝てたことは一度もなかった。  彼とのメッセージのやりとりは、麻陽の生活の中にすっかり溶け込んでいる。起きてからと、仕事の合間、寝る前にも彼とのやりとりをして、ずっと会話をしている気分である。  彼は麻陽が寝落ちたことが分かると、「おやすみ」とメッセージを終わらせる。  朝起きたとき、その「おやすみ」と「おはよう」が並んでいるところを見て、麻陽は少しだけおかしくなるのだ。 「あっちゃん、お客さん」  しばらく彼とやりとりをしていると、ボーイに呼ばれた。どうやらもう仕事の時間になったらしい。  麻陽はスマートフォンをベッドに放り投げて、すぐに部屋を出た。  待ち合わせ場所に着いたのは、麻陽のほうが早かった。  移動中も彼はうるさく、メッセージは絶えず続いた。「場所は分かる?」「乗り継ぎ間違えないように」と、まるで麻陽が迷子になること前提のものばかりである。ツクモでさえここまで麻陽には干渉しなかった。だからなんだか新鮮で、麻陽は一つ一つにきちんと返信を続けていた。 『着いたよ』  そのメッセージを見て、麻陽が顔を上げる。  すると遠くから彼が小走りに向かってきているのが見えた。 「待たせたね」 「待つのは嫌いじゃないから大丈夫」 「はは、きみらしい答えだな」  苦笑気味にそう言って、彼はさっそく歩き出す。 「電車の移動になったな。大丈夫だった?」 「うん? あんまり乗らないから新鮮だった」  なんてことないように答える麻陽をちらりと見下ろして、彼は「あー」と微かな言葉を漏らす。 「……目立った、だろうな」 「見られるのは慣れてる」 「だろうな……そんな顔でチョーカーつけてブランドもんで固めてたらな……」 「変?」 「変ではない」  では何が言いたいのか。彼は微妙な顔をするばかりで教えてくれなかった。  着いたケーキ屋は予約してくれていたらしく、混んでいてもすんなりと席に通された。麻陽に気を遣ったのか自身が嫌だったのか、案内されたのはやはり店内ではなくテラス席である。 「好きなだけ食べてくれ」 「いーの? 今日は何のお礼?」 「これは礼じゃない。ちなみに謝罪でもないからな」 「? そーなの?」  メニュー表を差し出す彼は、それ以上は何も語らない。  ――てっきりまた何かのお礼か謝罪かと思っていた麻陽にとって、彼の行動は謎だった。  何もないなら麻陽に会う必要なんかない。彼は忙しいと言っていたし、連絡を取り合うのも面倒なはずだ。 (……何か用事がある……?)  だけど、彼が麻陽に、いったい何の用件で? 「麻陽、頼まないのか?」 「頼む」  彼が呼び出しベルを押すと、店員はすぐにやってきた。注文を告げて、メニュー表を元の場所に立てかける。その間も麻陽は彼の用事を考えてみたけれど、やっぱり思いつくことなんかない。  お金に困っている感じではないし、会話の中に核心があるわけでもない。だけど麻陽との連絡は長く続けるし、こうして時間を割いてわざわざ麻陽と顔を合わせる。  そこまで考えてピンときた。  そうだ、麻陽は風俗で働いている。彼は難色を示していたが、もしかしたら気が変わって麻陽を抱きたいと思っているのかもしれない。風俗を悪く言った手前店に行くのも気が引けるのか、あるいは立場上行きづらいのか。どちらにせよ店に行かずに誰かを抱きたいと思っているということに間違いはないだろう。  たまたま側にいた麻陽なんて、彼にとっては都合のいい相手である。  幸い麻陽は彼が嫌いではないから、そんな目的かと思っても嫌ではなかった。 「……麻陽は、今朝も仕事を?」 「うん」 「その跡もそのときに?」  麻陽の手首を見つめた彼が、気遣うような声を出す。  そこには縛られたようなアザが残っていた。 「オメガってベータにも人気なんだよ。なんか、オメガを抱いてるとアルファになった気持ちになれるんだって。だからこういうこともされる」 「殴られたり、痛いこととか……」 「どーだろ。僕エッチしてる間は気持ちいってことしか分からなくなるから。でも痛いって思ったことはないよ。全部気持ちい」  あ、また何か言われるかも。  だんだんと彼を理解してきた麻陽は、そんなことを思いながらもちらりと彼を窺った。  しかし彼はただ難しい顔をしているだけである。眉を寄せ、何かを考えているようだ。  そうしてうんと間を置いて、ケーキの皿も六つほど届いた頃。  彼はまるで振り絞るように小さくつぶやいた。 「……仕事を変えないか」  麻陽には特別驚きはない。ただ突然何を言い出したのかと、「なんで?」とすぐに言葉を返す。 「今のままというのはダメだろ。職場なら紹介してやる。無理に体を開く必要もないところだよ」 「僕、別に無理してないよ」 「それは……そうかもしれないが……」 「それに僕、あの店やめたくない。みんないー人だし、ツクモさんとも離れたくないもん」 「……ツクモ? ああ、オーナーか」  冷静にコーヒーを飲んだのかと思ったが、彼は存外力強くカップをソーサーに戻した。  ガチャン、と行儀の悪い音が鳴る。彼がそんな大きな音を立てるのは初めてで、麻陽は少し驚いた。 「まさか、その服もオーナーに?」 「服?」 「ブランド。オーナーの趣味?」 「ああ、うん。僕これ以外知らないかも」  麻陽が店に入った頃、ツクモは大量の服を麻陽に与えた。  ツクモの第一子がちょうど生まれた頃だったから、麻陽が息子に思えて可哀想だったのかもしれない。オーナーは麻陽に「好きなだけ着ろよ」と涙まじりに押し付けて、その後もぽつぽつと洋服のプレゼントをしてくれた。  これが有名なブランドだと知ったのは、客に言われてからだった。いつもそのブランドだね、と言われて初めて、それって有名なの? と聞き返した。調べることなんかわざわざしない。麻陽は面倒くさがりである。 「……オーナーには番が居ただろ」 「なんで知ってんの? そーだよ、この間二人目が産まれたんだってー。すごい可愛かった」 「だったら! 麻陽が側に居たらダメだろ!」  彼の強い言葉に、麻陽は意味を考えて動きを止めた。 「オーナーと麻陽の中では関係が決まってんのかもしれないけど、番の人の気持ちはどうなるんだよ。自分が良ければそれでいいのか?」 「……え、でも……ツクモさんの番の人は僕のことを理解してくれてるって、」 「そう言うしかないだろ。……その人だって、オーナーと離れたくないんだから」  むしゃくしゃとした胸中を吐き出すように、彼は苛立ちのままに深く息を吐く。  なぜこんなにも苛立つのか。どうして麻陽の言動が許せないのか。彼は自分のことが何も分からなくて、紛らわせるように髪をかきあげる。  落ち着けと何度も言い聞かせた。感情的になったって麻陽には何も届かない。意味がない。それを思い出し、次の言葉を探すためにも落ち着くべきだと何度も何度も胸中で繰り返す。  やがて彼は、何気なく麻陽を見上げてようやく、麻陽が傷ついていることに気がついた。

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