9 / 41
第9話
彼にどれほど怒鳴られても、何が起きても飄々としていたあの麻陽が。
ツクモのことになるとこれほど簡単に傷つくのかと、彼はさらに苛立ちを募らせる。
「オーナーとはもう離れたほうがいい。仕事をやめて店を出ろ。俺が全部用意する。家もあるから」
「……嫌だ」
「麻陽」
「嫌」
むすっと眉を寄せて、唇を尖らせる。そんな表情も出来るのかと感心する反面、それを引き出したのがツクモなのだと思い出せば、彼はやはり穏やかではいられない。
なぜこんなにもイラついている。どうせいつものお節介だよ。でも今回は少し違う気がする。何が違うって言うんだ。分からないから困ってるんだろ。分からないなら考えるのなんかやめろよ。
心の中で矛盾する心が言い合っていた。だけど答えは見つからなくて、やっぱり苛立ちは残される。
その手首の跡だって。
本当は視界に入れたくもないくらい、気分が悪い。
「ことりさん、今日もカリカリしてる」
「カリカリ……ああ、してるかもな」
「忙しー?」
「それなりに」
「でもエッチはしたいの?」
二皿目を終えた麻陽が、ちらりと上目に彼を見た。
驚いたような瞳が麻陽を見ている。しかし彼は少し目を泳がせると、呆れたようにため息を吐いた。
「何の話だ? 俺は今麻陽とオーナーのことを、」
「僕、ことりさんになら抱かれてもいーよ」
ふたたび、ピタリとその場が動きを止めた。
「お店来なくてもいーし、このままホテル行こーよ。もちろん内緒にしとく」
「…………行かないぞ」
「そーなの?」
振り絞るように言うくせに、答えは麻陽が思っていたものと逆のものだった。
それではますます麻陽が今日ここに居る理由が分からない。店にも行かずお金も払わず手軽に抱ける相手が欲しかったのではないのかと、麻陽は微かに首を傾げる。
「とにかく、オーナーからは離れたほうがいい。お子さんが産まれたんなら尚更、番の人は今一番オーナーに側に居てほしいときだろ。それを麻陽が奪ってどうする」
「……奪ってなんかない」
「麻陽はそう思っていても、周りはそうじゃないかもしれない」
いつもは美味しく思えるケーキも、今日ばかりは不味く思えた。
それからは、すっかりしょんぼりしてしまった麻陽と特に気を遣うわけでもない彼との間には、会話という会話はなかった。麻陽はあまりケーキを食べることもなく「帰る」とすぐに立ち上がる。彼も引き留めることはない。帰り際に一度「また連絡する」と言っていたから、彼はまたいつものようにメッセージを送ってくるのだろう。
電車に乗っている間も、麻陽は気が気ではなかった。
麻陽は出来るだけ邪魔はしていなかったつもりだ。ツクモの家庭を叔父家族のような雰囲気にしたくなかった。だからいつもしっかりとした一線を引いていたし、どれほど呼ばれても家には一度も行ったことはない。プレゼントも控えてもらった。側に居たがるツクモをいつも強制的に家に帰していた。弱音も吐いたことはない。何かを求めることもない。麻陽は一人でも大丈夫なように、ツクモに迷惑をかけないように頑張っていたつもりだった。
(でももう、すでに迷惑だったのかな……)
麻陽がツクモの家に行かなくても、番にとっては麻陽の存在は邪魔だったのだろうか。
独り占めしたつもりはない。わきまえていたし、変に呼び出すことも、呼び止めることもない。連絡だって控えている。
ツクモから服やら食い扶持やらを貰っていたのだって、初めて給料が出たときにはやめてくれとお願いした。そんなお金があるのなら、家族のために使ってほしかったからだ。
麻陽は馬鹿で鈍くてマイペースだが、「家族」に関しては敏感である。だからこそ、麻陽を拾ってくれたツクモが相手ということもあり、過剰なほどに気を遣っていた。
店に戻ってくると、見慣れたボーイがロビーに居た。麻陽を見て「おかえりー」といつものように陽気に声をかける。
「ハヤテくん。ちょっと聞きたいんだけど……」
「俺のこといいかげん『はやて おんな』って思うのやめてくんない? 俺早乙女 だからね」
「たとえばハヤテくんに番が居たとしてね、ハヤテくんの近くにオメガが居ると、ハヤテくんの番の人って迷惑に思うのかな?」
「いきなりなんの話? んー、まあでもそうだなぁ、嫌なんじゃない? 面白くはないっしょ」
「…………面白くない」
「そりゃあね。逆の立場でも嫌だし。……つか何あっちゃん、番持ちに恋でもしたの?」
面白くない。嫌だと思う。ぶつぶつと言いながら、麻陽は早足に部屋に向かう。
「え、待ってあっちゃん!? どうなの!? 番持ちの愛人になんかなろうとしてないよね!?」
早乙女の必死な叫びはすべてスルーされて、とうとう麻陽の姿が見えなくなった。
ロビーに一人残された早乙女は、すぐにスマートフォンを取り出した。麻陽の普段の管理はボーイの役目だ。ツクモからキツく言われているし、逐一報告をしろとも言われている。
えらいこっちゃとすぐにツクモに電話をかけると、三コールほどで繋がった。
『おうハヤテー。なんかあったか』
「オーナーまで面白がってそう呼ぶからあっちゃんがいつまで経っても早乙女って呼んでくれないんですよぉー……ってそうじゃなくて! 大変なんですって!」
『麻陽に何かあったのか!?』
ツクモの声に怯えたのか、背後から赤ん坊の泣き声がした。それをなだめているのはツクモの側に居た番だろう。優しい声で赤ん坊をあやしながら、「あっちゃんがなんて? 何かあったの? 大丈夫?」としつこくツクモに問いかけている。
「さっきあっちゃんから『番持ちの側にオメガが居るのは迷惑か』って聞かれたんすよ。あのあっちゃんがやけに落ち込んでて、なんかめっちゃ考えてたみたいで……だから俺、あっちゃんが番持ちに恋でもして愛人になろうとしてんじゃないかって……」
『……何ぃ?』
「確証はないんすけど、何回聞いてもあっちゃん考えごとしてたから答えてくんなくて。一応オーナーに報告です」
『チッ。分かった』
ドスのきいた声を出すと、ツクモは一方的に電話を切った。
ともだちにシェアしよう!