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第16話

 レストランに着くと、車を降りた小鳥遊はすぐに麻陽に手を差し出した。  何の手かと見上げた麻陽に、小鳥遊は照れたように笑う。 「ひっついてたいんだろ? 手、繋がない?」  そういえば、セックスのとき以外で手なんか繋いだことはない。なんとなく緊張しながら小鳥遊の手に自身のそれを重ねると、きゅっと握り締められて麻陽の背も自然と伸びる。  セックス中に繋いだ手のことなんか考えない。だけど今はなぜか手にばかり意識が集まって、麻陽の顔まで熱かった。 「いらっしゃいませ。久しぶり、和真」 「ああ、綿貫(わたぬき)。オープンおめでとう」 「ありがとう。……そちらは?」  レストランの店長兼シェフである綿貫が、小鳥遊と手を繋いでいる麻陽を見下ろす。  なかなか見ない可愛らしい顔立ちだ。身に付けているのはブランドものばかりで、ぼんやりとした雰囲気が妙にそそる。麻陽の大きな目が綿貫を見つめると、互いにペコリと頭を下げた。 「えー……今のところ、友人の、神田麻陽。……麻陽、こいつは俺の同級生の綿貫」 「? たぬき?」 「今のところ、ねえ……ガッツリ狙ってんだ?」 「……手ぇ出すなよ」 「分かってますって。よろしくね、麻陽くん」 「うん」  二人が案内されたのは、景色がよく見える窓際の席だった。  開けたガラスから海が見える。向かい合って座った二人は、少しばかりその光景に見入っていた。 「僕、海って初めて見たかも」 「え? 初めて?」 「うん。テレビでは見たけど、実際には初めて見た」 「……ご両親が亡くなる前は……?」 「二人とも過保護だったから、近くの公園によく行ったくらいかなぁ。六年生になったら海に行こうねって言ってた気がする」  麻陽の目がまっすぐに海を映して、キラキラと輝く。小鳥遊はそんな麻陽の横顔に目を細めると、胸のあたりが切なくなって、思わずそこをぎゅうと握り締めていた。 「あんなふうに動いてるんだね。本物だー」  ――麻陽は、この世界の“当たり前”を、何も知らない。  幼い頃から小さな世界の中、それが狭いと知らずに生かされてきた。九十九との出会いは麻陽にとって幸運だっただろう。それでも麻陽は遠慮して九十九に甘えることもせず、家族行事には一切参加しない。海にもバーベキューにも、ハイキングにもピクニックにも行かない。麻陽はずっと一人で店の中に閉じこもり、その世界だけで生きてきた。  これからは、これまで以上に大切にしてやろう。麻陽が嫌と言うほど、離れろと思うほど側にいて、もうずっと抱きしめて生きていこう。泣きそうになるのを堪えながら、小鳥遊は心の中でひっそりと決意する。 「このあと行ってみる?」 「えっ、いーの?」 「いいよ。触ってみるといい。今の時期は少し冷たいかもな」 「い、行く。行きたい。ありがとーことりさん!」 「いいえ」  麻陽が珍しく、生き生きと満面の笑みを浮かべていた。初めて見る顔だ。いつもぼんやりとしているから、思いきり笑えば年相応の少年になった。しかし麻陽の容姿は目立つ。美少年の笑顔に、気付いた客が見惚れていた。  連れて帰りたいのに、外に出してやりたい。相反する気持ちの間で、小鳥遊はまったく複雑である。 「お待たせしました」  コース料理が出てくると、麻陽はやっぱりマナーもめちゃくちゃに食べ始めた。特別汚いわけではないから咎めることもない。それに、時折嬉しそうに海を見つめる麻陽の横顔が眩しくて、食べ方なんてどうでもよかった。 「ことりさんは海に行ったことある?」 「あるよ。頻繁に行けたわけじゃないけどな。……家族では、一回だけ行った。一番上の兄さんが家を出る前に」 「ふーん」 「普段家族が揃うことなんかないのに、なぜかそのときはみんな都合良くてさ。……父さんも居た。俺たち兄弟はジェットスキーとかダイビングして遊んで、両親はクルーザーの上で寛いでた。最初で最後じゃないかな、あんな家族の時間」 「えー、海いーな、楽しそー」  もりもりと箸を進めながら、麻陽はいつもの淡々としたトーンで続ける。 「ジェットスキーって何?」 「ふはっ」 「え? 僕なんか変なこと言った?」 「いいや……ふふ、こんな話をして気を遣われなかったのは初めてだからつい。やっぱり麻陽の側は力が抜けるな。時間がいつもよりのんびり流れてる気がする」 「ことりさんカリカリしてるもんねいっつも」 「最近はしてないだろ」 「うん。ことりさん、柔らかくなった」  食べ終えると、麻陽は意外と丁寧な仕草で箸を置く。 「ん! あ、それだ! 顔が変わった。僕ずーっと不思議だったんだよね、今日ことりさん見たときからちょっと違うなって思ってて。何が違うんだろって思ったんだけど……ことりさん、顔がね、ふにゃーってなった」 「……ふ、ふにゃーって……?」 「よく分かんないけど」 「あー……それは……」  俺が麻陽を好きだからじゃないか?  なんて、小鳥遊には言えるわけもない。今そんなことを言ったって麻陽には正しく伝わらないだろう。なにせ相手は麻陽だ。「好き」という感情すら知らない気がする。だから小鳥遊もじっくりと距離を詰める方法を選んだのだ。  一緒に暮らすのは嬉しい誤算だったが。  ごほんと一つ咳払いをして、小鳥遊も料理を食べ終えた。  それと、同時だった。 「やっぱり和真だ」  聞き覚えのある声に、思わず振り返る。  麻陽も不思議そうに見つめる視線の先。二人のテーブルの側に立って小鳥遊を見下ろしていたのは、つい先日別れたばかりの、小鳥遊の元婚約者だった。  

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