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第17話

 小鳥遊和真の婚約者は、彼が三十のときに両親に決められた。  政略的なものはない。三十になっても仕事ばかりをしていた息子に良縁をと、両親からのせめてもの御膳立てである。しかし小鳥遊はあまり結婚に興味がなかったから、決められたのならその相手と結婚しようとあっさりと受け入れた。  相手は良家のオメガだった。  当時二十三になったばかりという長岡家の長男、長岡つぐみは、さすがは良家の子どもと言うべきか賢く、小鳥遊のことも上手に立てていた。交際期間は五年。その間何度か長岡から結婚をしようと話が出たが、小鳥遊はなんとなく「結婚」に縛られる自分が想像できなくて、そのたびに会話から逃げていた。  そうしてある日、あっさりとフラれた。  それが、小鳥遊の人生で一番最悪だったあの日である。 「つぐみ……偶然だな」  小鳥遊の声は少し固い。長岡はそれに気付いたが何も言わず、その美しい顔を歪めて麻陽を睨む。  長岡は長身で、麻陽とは違うジャンルの綺麗な顔立ちをしている。そのため睨むと迫力があり、だいたいの者は威圧されるのだが、麻陽はじっと長岡を見つめるばかりで何も思うことはないようだった。 「……ふぅん。もう新しい相手?」 「この子は友人だ。つぐみは?」 「僕は友達と来てるよ。……弁明の一つもないんだって呆れてたら、なるほどこういうことね。婚約期間と被ってたのかな? 僕を抱かない日はこの子に相手してもらってた?」 「つぐみ」  厳しい声音にさらに眉を寄せた長岡は、一歩、麻陽の席に近づく。 「ねえきみ、たぶんきみもすぐわかると思うんだけどね」  麻陽の眠たそうな目が、長岡を見ている。それを満足そうに見下ろして、長岡はにっこりと綺麗な笑顔を浮かべる。 「彼ってすごく淡白なんだよ。態度もセックスも甘いけど、心が全然ないの。形だけの婚約者を演じてるんだなーって丸わかりでね、虚しくなってくるんだよね。でも顔と体はいいでしょ? 隣に立てば僕も目立つし、小鳥遊の家のアルファがパートナーなんてみんなに自慢できるし。だってこの人、それくらいしか価値ないからさ。価値観は押し付ける、イライラしたら八つ当たりする、感情に振り回されてばっかり。きみもうんざりしてるんじゃない? 結婚するなら気をつけてね。絶対モラハラとかDVとかされちゃうからさ」  ――長岡とは、良い関係を築けていると思っていた。  小鳥遊は出来るだけ時間を作って側にいたつもりだ。長岡は賢く会話も楽しかった。だから惜しみなく時間も金も使ったし、望むことはなんでも叶えてやりたかった。彼となら結婚をするのも悪くはないと思えたが、それでもやっぱり「結婚」に縛られたくはなくて居心地の良い関係を保っていた。  互いを知るために甘く、優しい時間を過ごしていたと思う。恋情はなくとも、恋人のような関係だった。 (……そう思っていたのは俺だけだったか)  時折見せる不満そうな顔には気付いていた。けれど見ないふりをした。小鳥遊には関係がないと切り捨てた。  長岡にはそういった一つ一つが許せなかったのだろうか。 「きみも早く捨てたほうがいいよ。僕は今のほうが幸せなんだ。和真って疫病神だったのかな?」 「やくびょーがみ?」 「側にいたら不幸になるってこと」 「ふーん……」  麻陽の目が小鳥遊に向けられる。しかし自分を貶されていたたまれなくて、小鳥遊はそちらを見ることはできなかった。  あまりの情けなさに動けない。今更元婚約者からの自分の評価を知らされて、小鳥遊の頭の中は珍しく真っ白になっていた。  それほど小鳥遊は、長岡に対して真面目に接していたつもりだった。 「でもお兄さん、ことりさんのこと好きなんでしょ? それならやくびょーがみじゃないよ」  長岡がひゅっと息をのむ。 うっすらと開いた唇が微かに揺れて、何かを言いかけて止まった。 「だってお兄さん、ことりさんの話するときやさしー顔してる。言葉とちぐはぐでちょっと変」 「……な、何それ……僕は別に」 「あと僕、ことりさんの家のこと知らないから、価値とか分かんない。それに……価値観とか、モラハラ? DV? も分かんなくて、お兄さんの言ってることほとんど分かんなかった。お兄さん、カリカリしてるの?」 「麻陽、もういいから、」 「ことりさんとお話する? ご飯一緒に食べる?」  ぎゅっと眉を寄せ泣きそうになった長岡は、水の入ったグラスを素早く持ち上げた。小鳥遊は反応したが遅く、それは麻陽に向けてひっくり返される。  ばしゃりと、頭から水がかけられた。滴る水を不思議そうに見つめている麻陽はすぐに、長岡をぼんやりと見上げる。 「馬鹿にしないで! 本命の余裕!? 選ばれたのが自分だったからって同情なんかしないでくれない!? ……僕がどんなに頑張って和真の恋人でいたか知らないくせに……!」 「……同情……」 「ずっと好きだったんだよ……パーティーで見かけるたびにずっと目で追って、ある日突然婚約者になれてさ。夢みたいだった。和真と結婚できるんだって嬉しくて、毎日浮かれて、毎日幸せだった」  幸い客は少なかったが、その場に招待されていた客の目はすべて麻陽たちに向けられていた。騒ぎを聞きつけた綿貫はタオルを持っていたが、入ることもできずたちすくむ。 「好きだった。結婚したかった。僕だって、和真が欲しかった」  長岡の目から涙が溢れる。  これ以上は店に悪いと小鳥遊が立ち上がろうとしたのだが、それより早く、麻陽が口を開いた。 「ねー見て、びしょびしょ」  頭から水を被っている麻陽は、首元をつまんで濡れているところを見せ付ける。  なんともマイペースな言葉に、小鳥遊の体からはやっぱり力が抜けた。長岡も不意を突かれたのか、ぽかんと麻陽を見つめていた。 「僕がことりさんと初めて会ったときもびしょびしょだった。ことりさんも僕もびしょびしょ。ことりさん、ずーっとカリカリしててね、水かけた店員さんに怖い顔して噛み付いてね」 「……麻陽。麻陽、分かったから」  あのときのことを改めて言われると気恥ずかしい。小鳥遊は止めたが、麻陽はやめる気はないらしい。 「その日、嫌なことがたくさん重なって、カリカリしてたんだって」  麻陽は前髪のしずくをつんといじって、それが落ちるのを楽しそうに見つめている。 「お兄さんにフラれた日だったよ」 「……そんなわけ、」 「タオルちょーだい」  長岡の後ろに立っていた綿貫に気付いた麻陽が、そちらに手を差し出した。綿貫も慌てて歩み寄る。麻陽はすぐに床を見て、椅子の確認もしていた。 「たぬきさんのお店綺麗だ、よかったー」 「いやいや、麻陽くんがびしょ濡れじゃない」 「僕は濡れても死なないもん」 「そうかもしれないけど、お店のほうが濡れてもいいんだよ」  タオルを渡してさっそく、綿貫はすべての客にサービスのデザートを手配していた。  店内が元通りに明るく変わる。長岡と共に来ていた男だけが、長岡を気遣うように見ていた。 「ねーお兄さん、ここ座る? 僕あっちのテーブル行ってるから」 「麻陽?」 「ことりさんも、話したいって顔してる」  小鳥遊が思わず自身の頬に触れると、麻陽は席を立った。そうしてそれまで長岡が座っていたテーブルに向かう。  小鳥遊の正面におずおずと長岡が座ると、少しばかり重たい沈黙が落ちた。  

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