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第19話

 玄関が開いてすぐ、麻陽は強く腕を引っ張られた。靴も脱ぎ散らかしたまま突き進み、連れられたのは広い脱衣所である。壁にある収納からバスタオルを取り出した小鳥遊は、ぼんやりと突っ立ったままの麻陽を見て、呆れたように目を細めた。 「とりあえず風呂に入って。風邪ひくぞ」 「海冷たかったね。ことりさんもお風呂入ろー」 「いや俺はあとでいい!」  レストランで食事を終えて、二人は約束どおり海に向かった。  そこで感動して大はしゃぎした麻陽は、躊躇いもなく海に飛び込んだ。最初はその冷たさにびっくりしていたがすぐに楽しくなったのか、麻陽はそれからはまるで子どものように遊びまわっていた。  つまり、麻陽は今全身がずぶ濡れである。長岡にかけられた水なんか比ではない。花屋の店員にかけられたときとも比べものにならない。頭の先から足の先まで、乾いている部分などないほどに濡れている。  だから風呂に入れと真っ先に連れてきたのだが、麻陽は小鳥遊も入ると思ったのか、小鳥遊の服を強引に脱がせようと奮闘していた。 「俺は脱がなくていいんだって!」 「ことりさんも海入ったのに」 「……そうだな、楽しかったな」 「楽しかった。ありがとー」  不意打ちのように抱きつかれて、小鳥遊は思わず動きを止めた。 「へへ。誰かとこんなに長く一緒に居るのなんか初めて。楽しー」  小鳥遊の胸元で、ふにゃりと麻陽の顔がとろける。そんな笑顔を見せられては、小鳥遊にはそれ以上拒絶することもできなかった。  麻陽はこれまで客とばかり接してきた。客は麻陽を抱けばすぐに帰るから長くは一緒に居ない。麻陽は客が帰る時間が一番嫌いで、立ち去る背中なんか見たくもなかった。  ――ヨウくんは甘えん坊で引っつきたがりで、時間ギリギリまで離してくれない。  九十九が言っていた、麻陽の客が口を揃えて言う言葉。それを思い出して、小鳥遊は覚悟を決める。 「ほら、入るぞ」 「一緒?」 「一緒に」 「やったー!」  無邪気に服を脱いでいく麻陽を見て満足な反面、小鳥遊の心にはほんの少しだけ後悔が残った。  麻陽の肌はきめ細やかで白く、体は見た目どおり細い。肌艶もよく湯に触れるとすぐにピンクになるものだから、小鳥遊はそのたびに目を奪われた。  ここからはもう理性との戦いである。いかに見ないか。いかに受け流すか。小鳥遊はそこに一点集中し、出来るだけ見ないようにと頭の中ではずっと仕事のことばかりを考えていた。麻陽がやけにひっつくものだから、そのたびに良い戦略が浮かんだものだ。  風呂を出る頃には体力もすべて奪われ、ようやく終わったかとリビングに向かう。ソファに腰掛けたところで、麻陽が当然のように小鳥遊の膝の上に向かい合うように座った。 「待て」 「え?」 「いや、びっくりした。な、なんで膝に……」 「……こーやって座らないの?」  逆になぜこう座るの? 反射的に出てきた疑問は、小鳥遊の頭の中で消える。  この状況をラッキーだと思ってしまった小鳥遊の本能が、麻陽を普通に座らせようとする選択を拒否したのかもしれない。  近い距離で視線がぶつかる。風呂上がりで上気した肌はやけに色っぽく、首筋に顔を寄せれば、甘いオメガの匂いが鼻腔をくすぐる。 「ことりさん?」 「ん、ちょっとだけ」 「エッチする?」 「しない」  麻陽の体をそっと抱き寄せると、麻陽も小鳥遊を優しく抱きしめる。  首元に数度擦り寄れば、麻陽はくすぐったそうに「ふふ」と声を漏らしていた。 「……麻陽、恋って分かる?」 「恋?」  小鳥遊が腕に力を込めると、二人の距離はさらに縮まる。  麻陽からの拒否はない。それどころか同じほど小鳥遊を抱きしめている。 「楽しくて幸せで、触りたくて、離れたくなくて、ずっと一緒に居たいって思う気持ち」 「恋したら、そう思うの?」 「思うよ。俺は思ってる」 「……ことりさんが?」 「うん」  麻陽が少しだけ体を離した。しかし小鳥遊はそれを許さず、すぐに引き寄せて隙間を埋める。 「俺は、麻陽に恋をしてる」  ドッ、と、心臓が早く脈打つ。改まって誰かに告白なんかしたことはない。小鳥遊は深呼吸を繰り返し、緊張をなんとか解していく。 「麻陽のことが好きだよ。だから、麻陽とずっと一緒に居たい。離れたくない。側にいたい。結婚したい」 「ずっと……?」 「あ、待て、返事は今すぐとかじゃなく、これからじっくり俺のことを知ってくれたあとでいいから」  麻陽のことだ。深く考えず「ずっと一緒にいられるならいーよ」とでも言いそうで、小鳥遊は思わず引き留めた。  それでは意味がないのだ。小鳥遊だけが好きで、小鳥遊だけが麻陽を求める関係なんて、そこに麻陽の幸福はない。麻陽にある日本当に好きな相手が現れたとき、すぐにそちらに逃げられるだろう。今だって九十九という強敵が居るのに、ここで強引に囲い込んではこの先何かがあったとき簡単に関係は崩される。  一つ一つ理解させて、ゆっくりと馴染んでくれたらいい。  まずは九十九よりも小鳥遊を選ばせる。それが目下の目標である。  好きだと口に出してしまえばさらに気持ちは深まって、小鳥遊は甘えるようにぐりぐりと麻陽にすり寄った。体がピタリとくっついて心地がいい。麻陽がずっと側にいて小鳥遊を抱きしめてくれるなら、小鳥遊の毎日はどれほど鮮やかに美しく変わるだろう。  心臓の音がうるさい。初めての告白なんかして、柄にもなく緊張してしまった。  小鳥遊は誤魔化すようにさらに麻陽を抱きしめて、そこで気付く。  麻陽の心臓が、やけに早く動いている。 「……麻陽?」  大丈夫かと覗き込むように体を離すと、麻陽の体がびくりと震えた。  驚いたような顔をして、真っ赤になって俯いている。麻陽は急に覗き込まれて驚いたのか「へ?」と気の抜けた声を出すと、避けようとして後ろにぐらりと傾いた。とっさに小鳥遊が支えてことなきを得たが、そのまま麻陽を抱き寄せようにも、なぜか遠ざかるように力を入れられる。 「……あ、麻陽さん? 抱きしめたいんだが」 「や、えっと……ちょっと、落ち着かない」 「落ち着かない?」 「ごめん……あの、ことりさん……えっと……恥ずかしい、かも」 「恥ずかしい…………?」  あの、麻陽が?  あんなにもいやらしく男を求めていた麻陽が。誰に対しても飄々と接して感情を動かすこともない麻陽が。いつも淡々として冷静な麻陽が。 (恥ずかしい?)  真っ赤になって眉を下げていた。気まずそうな顔をして、上目に小鳥遊を見つめている。  それはもしかしたら、麻陽の中ではとんでもない変化なのではないだろうか。 (……これって……)  小鳥遊はスタートラインには立てた、ということか。 「麻陽!」 「わー! な、え!? 何ことりさん!」 「好きだ、麻陽。好きだよ。おまえを幸せにしたい」 「や、やめてってば!」  強引に抱き寄せて、抵抗する麻陽を捕まえた。  麻陽はずっと真っ赤だった。必死に離れようとしていたけれど、小鳥遊はずっと、それからの食事のときもベッドの中でも麻陽を抱きしめたままだった。  

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