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第20話

「じゃあ、行ってくるよ」  朝、すでにスーツに着替えた小鳥遊が寝室に戻ってくると、麻陽はベッドの中から手だけを覗かせた。  ふんわりとした布団の中。昨日も丸くなって眠っていたから、麻陽は今も体を丸めているのだろう。眠気の残る声音で「行ってらっしゃい」と答えると、その手はすぐに引っ込む。  顔を見れないのは残念だったが、小鳥遊はそれを聞いて部屋から出て行った。  足音が遠ざかる。玄関が閉まった音を聞いてようやく、麻陽はベッドから起き上がる。 「ねむー」  時計を見れば午前七時。小鳥遊はこんなに早くから働いているのかと感心しながら、麻陽はひとまず風呂に向かった。  昨晩は、本当に一緒に眠っただけだった。なんだかんだとセックスをするのかと伺っていた麻陽にとってそれは少しばかり意外で、だけどぎゅっと抱きしめてくれた腕が優しかったから、いつもよりも安心して寝入ることができた。  小鳥遊がことあるごとに麻陽に好きと言うから落ち着かない時間ばかりだったが、それも居心地が悪いわけではない。麻陽はただ、初めて感じた「恥ずかしい」という感情を持て余していただけである。  小鳥遊に好きと言われると、胸が痛くなる。落ち着かなくて苦しくて、小鳥遊のことを見てもいられないのにもっと言ってほしいと思うのだから、麻陽にも自分が分からなかった。  風呂から出てすぐ、麻陽は自身のスマートフォンを確認した。  一件、九十九からのメッセージが入っている。それを開くと、「十時に下な」とだけあった。  今は八時前。まだまだ余裕がありそうだ。  分かった、と返信してすぐ、別のトークルームが更新された。  小鳥遊のところである。 『おはよう。今日は早めに帰るようにするよ』  早めとは何時だろうか。麻陽は少し考えたが分からなくて、これにも「分かった」とだけ返しておいた。  そういえば着替えを持ってきていない。ようやくそれに気付いた麻陽は、いったん店に戻らなければと小鳥遊の家を出た。おそらく九十九の言う待ち合わせ場所も「店の下」ということである。九十九は麻陽が小鳥遊の家に居ることを知らないから、いつもどおりにそこを選んだのだろう。  現在地は地図アプリを起動した。そうして無事店に戻ってくると、早乙女がニヤニヤとした様子で迎え入れた。 「あっちゃん、朝帰りとはやるなぁ」 「ツクモさんに内緒にしてくれてありがとー」 「まあね、あっちゃんももう恋人作ってもいい頃だし。どこ行ってたの? やっぱあっちゃんの一ヶ月を買い取ったお客さんとこ?」 「そうそう」 「お熱いことで」  茶化す早乙女を置いて、麻陽はひとまず荷物をまとめに部屋に戻る。  十時前になる頃には荷物を持ってロビーに行くと、ちょうど九十九が来たところだった。 「お、麻陽ー……ってなんだその荷物」 「あ、僕ねえ、一ヶ月ことりさんとこでお世話になることにした」 「はあ!? だ、ダメだ! 嫁入り前で何言ってんだ!」 「嫁入り前もなにも風俗で働いてますよオーナー」 「うるせえ!」  すっかりいきりたつ九十九に、麻陽はぷくっと頬を膨らませる。 「だって僕、仕事もないのにここに居ても暇。退屈。ことりさんとこのほうが楽しい」 「……ま、まあそうかもしれないが……それなら俺のところに、」 「ツクモさんとこは嫌」 「嫌……嫌かぁ……」  しょぼんと肩を落として、九十九はすぐに麻陽の荷物を奪う。どうやらも小鳥遊のところに行くのは認めてくれたらしく、店の前に停めていた車に積んでくれた。  九十九だって分かっているのだ。どうして麻陽が小鳥遊のところに行くことを選んだのか。どうして九十九のところに来たがらないのか。分かっているから、何も言えなかった。 「ツクモさん、今日はどうしたの?」  麻陽が車に乗り込むと、九十九もすぐに運転席に乗車した。 「ん、ああ、ちょっと用事あったのと、おまえの様子が気になって」 「……様子?」 「……ことりにシフト買われたろ。だからどうなんかなって思ったんだが、案外平気そうだなあ」  心底残念そうにつぶやくと、九十九は重たいため息を吐き出す。  発進した車は街を抜けて、とある店にやってきた。  ずらりとオメガのチョーカーが並ぶ。専門店のようなそこを前に、麻陽はぽかんと見上げることしかできなかった。 「……どしたの? ここなに?」 「おまえ、出産祝いに赤ちゃんの靴下くれたろ」 「え? うん。あげた」 「だからお返し。あんまり高いもん買うとうるせえから、ここで好きなもん選べ」 「え! そんなのいいよ! マドカさんに使ってあげてよ!」 「そのマドカがもらってばっかで申し訳ないっていっつも言ってんだよ。ことりのとこ行くんならチョーカー新調しとけ。あいつアルファだろ。麻陽もそろそろ発情期だし、もうちっといいもんに変えろ」  そういえば、そろそろ三ヶ月。普段はアルファと接することもないし、店に居れば自然と仕事でセックスできたし、ベータ相手だと妊娠することもなかったから忘れがちなことである。 「…………忘れてた」 「忘れるなよ……。おまえは今アルファの家に居るんだからな。相手のためにもその辺考えろ」 「相手のため?」 「それで間違って妊娠したらどうなる。おまえ、一人で育てられるのか?」 「……一人で?」  だけど小鳥遊は、麻陽と結婚したいと言ってくれた。結婚の中にはきっと妊娠も含まれる。子どもが出来ても、麻陽と一緒に育ててくれるはずである。  九十九に続いて、麻陽も店に踏み入れた。九十九は真っ先に一番上質な物が揃うコーナーに足を運ぶ。 「でもツクモさん、ことりさんなら大丈夫だよ」 「子どもが出来ても? 馬鹿言うなよ。あいつの家を知ってるか?」 「ことりさんの家? 知らない」 「日本でも有名な名家の一つ。両親も息子も揃ってビッグネームな上に、ことりの兄貴の結婚相手は良家で育てられたオメガだってよ。無教養で野良のおまえが入れるような家じゃない」  そんなことを言われても、麻陽にはあまり理解ができなかった。  チョーカーを真剣に選ぶ九十九の横顔を、キョトンと静かに見つめている。それに気付いて、九十九は麻陽の頭をわしわしと乱暴に撫でた。 「大丈夫だよ、麻陽の結婚相手は俺が選んでやっから」 「……でもことりさんが、」 「ことりに惚れたのか? それなら諦めろ。ありゃおまえにはちょっと遠すぎる」 「遠いって?」 「これは噂に過ぎないが」  九十九は結局、その店で一番高いチョーカーを選んだようだった。  店員に渡して、支払いを済ませる。 「今までことりたち兄弟を狙ったオメガは、残らず排除されてるよ。あの家はあくまでも"良家"のオメガしか認めないのかもな。発情期《ヒート》を利用して既成事実作ろうとした野良オメガたちは全部排除対象だ」 「……でも……」 「麻陽」  店を出る九十九に、麻陽はぽてぽてと続く。その表情はどこかぼんやりとして、車に乗ってもまだはっきりしないようだった。 「ちっと予定より早いが、見合いでもしてみるか? いいアルファを紹介してやるから、ことりのことは忘れちまえ」  ――以前に小鳥遊と話をしてから、九十九は小鳥遊についてより深い事情を調べた。  小鳥遊は麻陽のことを気にしていたようだったし、今回の一ヶ月のシフトの買い上げだって、麻陽をほかの男に触れさせないための処置だろう。麻陽も小鳥遊が気になっているようだし九十九も二人の仲を認めたいところではあったのだが、"小鳥遊"という家を知れば知るほど、麻陽のためにならないのではないかと思えて仕方がない。  麻陽には学がない。中学から学校に行っていないのだ。教養もなく、小鳥遊が求めるオメガとは程遠い。  そんな麻陽が小鳥遊の家に運よく入れたとして、それからが大変だろう。二人の愛の力ではどうにもできないこともある。親兄弟からの風当たりを考えても、麻陽が本当に幸せになれる道とは思えなかった。  麻陽はぎゅっと眉を寄せて俯いていた。まだ納得がいっていないようだ。 「俺は麻陽に幸せになってほしいんだよ。……ずっと麻陽の側にいてくれる、麻陽に優しい男を見繕ってやるから」 「……いらない」 「顔を合わせてみたら案外気が合うかも知れないだろ。麻陽はことりしかアルファを知らないから分からないかもしれないがな。いい男ってのは案外多いもんだ」 「……でも、」 「いいか、このことはことりには内緒にしろよ。さっそく明日からアルファ紹介してやっから。……な? 会ってみるだけでいい。意外と楽しいかもしれないだろ?」 「……まあ、会うだけなら」  麻陽はやっぱり釈然としなかったけれど、九十九が言うことだしと、最後には渋々頷いた。  

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