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第25話
二日が経っても、小鳥遊は家には帰ってこなかった。
一人で目覚める朝。広いベッドから起き上がると、麻陽は暗い気持ちで風呂に向かう。
頭が痛い。体が重たい。気分も悪くて、吐き気もしそうだ。
麻陽はそれに耐えながらなんとか風呂を終えて、またしてもベッドでごろりと横になっていた。
「あーあ……楽しくない……」
何もしようと思わない。どこにも行きたい気分じゃない。暇さえあれば誰かに会いたいと外に出ていたのに、今ではそんなやる気もない。
小鳥遊が出て行った翌日から、麻陽は体調不良を言い訳にして九十九の誘いを断っていた。もっと早くにこうしていれば良かったのだ。だけど麻陽には結婚なんてそんな気はまったくなかったし、九十九の誘いを断るのも気が引けた。まさか小鳥遊があんなに怒るとも思っていなかった。
(……今日も帰ってこないのかな……)
小鳥遊とのトークルームを何度眺めても、やはり三日前で止まっている。最後は、小鳥遊が仕事を終えたという旨を伝える内容だった。
いつ見ても同じだ。連絡が来るわけでもないし、麻陽からするわけでもない。
本当は「どこにいるの」と聞きたかった。指は何度も動いたけれど、送信ボタンだけは押せなかった。
小鳥遊の怒った顔を思い出して、どうしても動けなくなるのだ。
人の「怒り」を恐ろしいと思ったことが初めてな麻陽にとって、今の小鳥遊とどう接するのが正しいのかまったく分からなかった。
『体調はどうだ』
トークルームが更新された。九十九からだ。
そちらをタップしてすぐに「治った」と打ち込む。するとあっという間に既読がつき、良かったと返る。
――九十九にもはっきりと言っておくべきだろう。気を回してくれた九十九には申し訳ないが、麻陽だってこれ以上小鳥遊に怒られたいわけではない。
『ちょっと話がしたいんだけど』
麻陽からの言葉に何かを察したのか、九十九は何も聞かず、場所と時間だけを提示した。
会ってすぐ、九十九は麻陽の頭をガシガシと力強く撫でた。相変わらず乱暴だ。だけど嫌な気持ちではなくて、麻陽もホッと安堵の息を漏らす。
人に触れ合ったのは二日ぶりである。暗い気持ちだったから、変わらない九十九の態度が有り難かった。
手軽なレストランに入ると、個室に案内された。九十九と軽食をとるときによく来るレストランで、決して安いというわけではない。けれど九十九いわく「軽食にちょうど良い」らしく、麻陽にもしっかりとその価値観が染み付いていた。
臆することのない態度なのはそのせいだろう。麻陽は変わらない様子で注文を済ませると、さっそく九十九をじとっと見つめる。
「なんだよその目……つか話って?」
「僕もうアルファと会いたくない」
「やっぱりそれか……何だ、ことりに何か言われたか?」
「…………怒られた」
「そんだけか」
「そんだけって……」
まるで他人事のように言う九十九がなんだか憎らしくて、麻陽は睨むように目を細めた。
「僕はもともと紹介されたアルファの人と結婚するつもりなんかなかったし、いーでしょ。……僕ことりさんに怒られたくない。怖いもん。悲しくなる」
「……怖い? おまえがそう思うのか?」
「僕だって思うよ、当たり前でしょ。ことりさんすっごい怒って、もう二日も帰って来てないんだよ」
「……へー、それはそれは……連絡はねえの?」
「ないよ」
「麻陽からは?」
「……できるわけない。また怒られたくないし」
九十九は信じられない言葉の連続に、ぽかんと口を開けていた。
あの麻陽が……あの、何事にも動じず興味を持たない麻陽が、こと小鳥遊に関しては「怖い」「悲しくなる」ときた。さらに動き出すこともできずにもだもだとして、まるで年相応の少年である。
ある意味感情が死んでいた麻陽だったからこそ、その変化に驚きを隠せない。
――小鳥遊も麻陽を気に入っていたようだったし、麻陽の気持ちもそちらに傾いているのならば問題はないだろう。
しかし。
「……ことりに怒られたくないから他のアルファに会わないってんなら、俺は引けねえぞ」
「えー。じゃーなんだったらいーの?」
「麻陽がことりを好きだっつーんなら引いてやってもいい」
「……好き?」
「そう。それ以外は認めねえ」
「んー、好きって、恋ってこと?」
「そうだよ」
――麻陽、恋って分かる? 楽しくて幸せで、触りたくて、離れたくなくて、ずっと一緒に居たいって思う気持ち。
かつての小鳥遊の言葉を思い出し、少しばかり考える。
麻陽にとって、小鳥遊はすでに大切な人だ。明確な理由はない。ただ気がつけば一番側にいて、一番麻陽を大切にしてくれた。麻陽のことが好きだと言って、麻陽を抱きしめて、惜しみなく言葉をくれる。
これまではセックスで保たれていた人との触れ合いが、小鳥遊相手だと抱きしめられるだけでそれ以上に満たされるのだ。
怒られたときには悲しくなった。小鳥遊に怒られたことが怖かったからではない。明らかに失望した目を向けられて、もう麻陽のことを嫌いになってしまったのではないかと思ったからだ。
小鳥遊と居ると落ち着かないこともある。触れられて恥ずかしいと思うこともある。逃げたくなったりもする。だけどそれは嫌いだからではなくて、そういったとき、麻陽の心の中はずっと温かいままだ。
楽しくて幸せで、ずっと一緒に居たいと思ったかもしれない。
一ヶ月なんて言わず、ずっとあの家で小鳥遊と一緒に暮らせたならどれほど幸せだろうかと、心の奥底ではそれを期待していたかもしれない。
どんなにアルファと会ってもつまらなかった。どんなに優しくされてもやっぱり感情は動かなかった。
ずっと小鳥遊に会いたくて、早く見合いが終わらないかなと、麻陽は家に帰ることばかりを考えていた。
「麻陽? どうした、固まって」
「……僕、ことりさんのことが好き。あのね、ことりさんとずっと一緒に居たい。離れたくないって思う」
嫌われたくない。好きでいてほしい。
また、結婚をしたいと思ってほしい。
初めての感情に不安そうな麻陽を見て、九十九は言葉をのみ込んだ。
――相手はあの"小鳥遊"だ。どう転ぶかは分からない。なにせ、小鳥遊兄弟に不用意に近づくオメガを軒並み排除するような、過保護な親が居る家である。バース性以前に、麻陽のように教養のない者が入れるとも思えない。
うまくいけば万々歳。小鳥遊が親の説得に成功したなら、その漢気を認めてやっても良いだろう。
上手くいかずとも、麻陽に人間らしい感情を教えただけでも小鳥遊は良い働きをしてくれた。今の麻陽ならば失恋を乗り越えてまた一つ人間らしさを覚えるのだろうし、次はさらに良い恋愛ができるかもしれない。
小鳥遊とのことに特別反対するわけではない。小鳥遊家さえ良ければ諸手を挙げて見送るものだが、現段階では喜ぶにはまだ早いのだ。
九十九はいくつかのパターンを考え、麻陽の言葉を受け入れるように頷いた。
麻陽は不思議そうな顔をしていた。まるで他人事だ。それが少しおかしくて、九十九はため息まじりに言葉を吐き出す。
「分かったよ、それならいい。応援する。……うまくやれよ」
「う、うん! ありがとーツクモさん!」
パッと明るくなった麻陽の表情に、九十九はもうそれ以上は何も言わなかった。
それからは普通に料理を楽しんで、二人で店を出た。麻陽はなんだか前向きな気持ちだった。帰ったら小鳥遊に連絡をしてみようかなとさえ思えていた。九十九が応援してくれたからだろうか。なんだかうまくいく気がして、麻陽の心は浮き足立っていた。
そんなときだった。
「ありがとうつぐみ。助かったよ」
「ううん。僕もまた会えて楽しかった」
どこからか小鳥遊の声が聞こえた。それに麻陽と九十九は反応してすぐ、黒塗りの外車から降りて話をしている姿を見つける。
麻陽も乗ったことがある車だ。小鳥遊の隣には長岡が居て、自然な表情で連れ立っていた。
「……お父様、結婚のこと納得してくれるかな」
「大丈夫だろ。つぐみがあれだけ言ってくれたんだから」
「本当さぁ……いきなり連絡して来たと思ったら結婚したいって、びっくりしたんだけど。僕の気持ち分かる?」
「悪かったよ。必死だったんだ」
二人は麻陽たちに気付かない。二人だけの世界の中で、楽しそうに笑っている。
麻陽は動けなかった。
長岡の言葉を聞いて、頭が真っ白になったからだ。
――ああ、だから二日も帰ってこなかったのか。
頭のどこかで納得した。麻陽に対して怒ったあのときに、小鳥遊は麻陽を見限っていたのだ。
「行こう」
九十九が麻陽を庇うように、小鳥遊たちとは反対方向に歩き出す。
麻陽の心はまた、ぐちゃぐちゃになっていた。
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