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第27話
小鳥遊が自宅に帰ったのは、午後五時を過ぎた頃だった。
麻陽の異変に気付いてすぐに家に戻りたかったのだが、外せない会議があり結局通常通りに退社した。
駆け足でマンションのエントランスホールを突き抜け、焦るままにエレベーターのボタンを連打する。こんなに行儀の悪いことをしたのは初めてだ。繰り返し押したからといってエレベーターが早く着くわけでもない。しかし焦りが行動に出たのか、乗り込んでからも同じようにボタンを連打して、増えていく数字を見上げる。
今はひとまず、麻陽に会いたかった。
麻陽は寂しがりやだ。ひとりぼっちであんなに広い家に置かれて、もしかしたら泣いているかもしれない。外に人肌を求めた可能性は低いだろう。小鳥遊への怯えかたを見れば、きっと小鳥遊を刺激するようなことは選ばないはずである。
連絡をしてくれたら良かったのに、とも思うが、それもまた、麻陽が小鳥遊に怒られることを危惧していたなら気軽にできることでもない。
自身の浅はかさにほとほと呆れる。自分のことばかりを考えて、麻陽のことをまったく考えていなかった。
誰かと結婚をしたら嫌か、なんて、あの質問にも麻陽なりに考えがあってのことだろう。しかしそれはきっと試すようなものではない。麻陽は純粋に何かを確認したかったのだ。
エレベーターが到着すると、開いた瞬間に飛び出した。玄関に行くまでの大理石の廊下を走ったのもまた、お上品に育った小鳥遊には初めてのことである。革靴を打ち鳴らしながら走り抜け、カードキーを差して玄関を思いきり開いた。
「麻陽!」
靴を脱ぎ捨てて突き進む。真っ暗な中には、鍵の閉まる機械音だけが響いていた。
「麻陽! 俺が悪かった!」
ダイニングにもリビングにも居ない。それならばと寝室を見てももぬけの殻だ。風呂にも姿はない。トイレも違う。どこにも人の気配はなくて、家のすべてがひんやりとした空気に包まれていた。
「……麻陽? どこに……」
そこでようやく電気をつけた。そうして一度連絡をしようとスマートフォンを取り出して、ダイニングテーブルの書き置きに気付く。どうしてわざわざ書き置きなんて。連絡をしてくれたら良かったものを。自分勝手にそう思ったが、それは少し前に小鳥遊自身も思った「麻陽が小鳥遊に怒られることを危惧していた」ということを思い出せば、気軽に連絡なんかできるはずがないと分かる。
自身の思考に嫌気が差した。いつでも小鳥遊は自分のことばかりだ。それで周囲から距離を置かれ、押し付けがましいだの偏見の塊だのと言われてきたというのに。
小鳥遊は書き置きを奪うように手にとり、麻陽の拙い文字に目を滑らせる。
『少し出ます。ことりさんが買い上げたシフト分は出勤しません』
読み終えた直後。ぐしゃりと、自然とそれを握り潰していた。
(少し? 少しとはどれほどの期間だ。店に戻ったということか?)
察してすぐに家を飛び出す。
向かうのはもちろん、麻陽が勤める"Lavish ーラビッシュー"である。シフトに出ていないとはいえ、麻陽はあの店に住んでいるのだから、小鳥遊の家に居ないとすればそこにしか居ないだろう。
車を停めて、努めて冷静に店に入った。
ロビーに立っていた早乙女の顔つきが変わる。小鳥遊がアルファであるとなんとなく察したのかもしれない。
「お兄さん新顔ですね。バース性をお聞きしても?」
「神田麻陽を出してくれ。彼の一ヶ月を買った者だ」
「……ああ、あの特例の」
「特例?」
「あなたアルファですよね。うちはアルファお断りですから、どんだけ金積まれても基本的にはアルファにキャストは振りませんよ。でもあなたの場合はオーナーが直接許可出したから通っちゃったんですよね」
「…………九十九さんが?」
小鳥遊も当然"Lavish ーラビッシュー"がアルファお断りなことは知っていた。だから麻陽のシフトを一ヶ月買い上げるなんて無茶なことは絶対に認められるわけがないと思っていた。それでも一度は真正面から申し出て、ダメだったら次の手を考えようとしていた小鳥遊にとって、一ヶ月の買い上げの許可が下りたことは驚きだった。
九十九自らが許可したともなれば、ますます驚きを隠せない。
九十九は麻陽と小鳥遊を引き離そうとしていたはずだ。自身の愛人を守るためなのかほかに何か目的があるのかは分からないが、とにかく九十九はあまり小鳥遊を良く思っていなかった。
小鳥遊が訝しげな顔をして早乙女を見ていると、早乙女は「俺のことは敵視しないでくださいよ」と苦笑を漏らす。
「……オーナーはオーナーなりに、あっちゃんに幸せになってほしいんですよ、きっと」
「……どうだかな」
「あっちゃんね、ちっちゃいでしょ? 三年前はもっとヒョロくてこけてて、もう目も当てられなかったんですよ。そんなあっちゃんがフラフラしてんの見て、オーナーもほっとけなかったんでしょうね。オーナーのとこもお子さんが産まれてちょっと経つくらいだったから、男の子だったのもあって、自分の息子の行末みたいに重ねちゃったのかな……」
早乙女は思い出すように表情を緩めながら、予約の管理でもしているのか、ロビーに置いてあるパソコンを素早く操作している。
「あの頃のあっちゃんはもう酷かったんですよ。表情なんか動かない、何も話さない、何も食べようとしない。自分以外は全員敵だって思ってたのか、睨みつけることしかしない」
「……麻陽が? だけど麻陽はずっと『楽しかった』と言っていた。自分を犯した叔父にさえ感謝していたんだ」
「防衛本能でしょ。当時のこともあんまり覚えてないんじゃないかな? そうしないと、壊れそうだったから」
早乙女がちらりと小鳥遊を一瞥した。それに小鳥遊はほんの少し背を伸ばす。
「……酷いもんでしたよ、本当に。だからなのか、オーナーもあっちゃんには『店には出なくていい』と言っていたんです。俺たちも絶対に客は取らせるなと厳命されました」
早乙女たちから見ても、その判断は決して甘いものではなかった。
出会った頃の麻陽は、明らかに年相応の少年の様子ではなかった。それがあまりにも度を超えていたのだ。
「でもね、ある日勝手に客を部屋に連れて行っちゃったんですよ。ここに来て少し経った頃でした。たぶんあの子は優しさに慣れていないから、何かをしていないと捨てられると思ったんじゃないかってオーナーは言ってましたけど」
当時の麻陽の様子を思い出したのか、早乙女はぎゅうと眉を寄せる。
「あっちゃん、泣きそうな顔で笑って、『僕もお仕事できるよ』って言ったんです。あっちゃんにとってはやりたくもない仕事のはずなのに……。それからは、客に甘えたり、人肌に依存するみたいに仕事始めちゃって。どんなに止めても、邪魔をしてもダメでした。あっちゃんは愛に飢えてたから、自分でも止められなくなっちゃったのかも」
「……酷い扱いをされると聞いたが……」
「従っていれば客は喜んでくれるでしょ。自分を受け入れて、求めてくれるでしょ。……それだけですよ。あっちゃんにとって、セックスなんてその程度です」
沈黙が降りると、キーボードを打つ音が軽やかに響く。早乙女は手を止めない。視線も画面に向けられている。
「あっちゃんはね、俺たちにとっても家族になりました。オーナーと、ここら一帯のボーイとで見守ってきたんです。系列店の店長も、よその店の人間でさえあっちゃんを見たら声をかけるようにしてます。ここに来たばっかりのあっちゃんを知ってる奴らは、あっちゃんがいつ死のうとするかって冷や冷やしてたもんで」
「……それで。きみが麻陽を出さない理由はなんだ」
「勘違いしないでくださいよ。最近あっちゃんはずっと楽しそうだったし、顔色も良かった。それがあなたと関わり始めてからだってんなら、俺は応援していますよ。これはちょっとした時間稼ぎです」
「時間稼ぎ?」
「あなたが来たことをオーナーに報告していました」
それでパソコンをいじっていたのかと、小鳥遊はきつく早乙女を睨みつける。
「伝言です。『そこに麻陽は居ない。俺の電話にかけろ』だそうですよ。今から番号言うんで控えてもらえます?」
「……きみは本当に俺の味方か? それなら連絡なんかする必要はないだろ」
「味方とは言ってないでしょ。俺はあっちゃんの味方。んで、あなたのことは応援してるだけです」
せいぜい頑張って。
早乙女はにっこりと笑って、九十九の携帯番号を小鳥遊に伝えた。
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