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第30話
それは、麻陽がケーキの最後の一口を食べたと同時だった。
来客のために玄関に向かったマドカが戻ってきたと思ったのだが、リビングに入ってきたのはなんと、ここに居るはずのない小鳥遊だった。
思わずケーキが喉に詰まりかける。
できればしばらく会いたくなかった相手である。麻陽はひとまず出されたジュースでケーキを流し込むと、隣に座る九十九にピタリと張り付いた。
「…………麻陽。帰るぞ」
「……戻らない。店には出ないからいーでしょ」
麻陽は小鳥遊を見ないようにと、九十九の肩に顔を押し付けている。
そんな様子を見たマドカも、すぐに麻陽の元に駆けつけた。
「……あんなふうに怒ったことは謝る。悪かった」
「……嫌」
「麻陽……」
「嫌だ。絶対嫌だ。帰りたくない。ことりさんなんか見たくない」
ぐいぐいと肩に顔を押し付けられている九十九は、渋い顔で小鳥遊を見つめる。その顔は「だからまだ会うなって言っただろうが」とでも言いたげだった。
「もう怒らないから」
「……僕、僕はただ、ツクモさんに言われたから会わなきゃって思っただけで、別に結婚なんかするつもりなかったもん。ことりさんがもし、僕が誰かと結婚するって言うのが嫌だって思うんなら、僕もしっかりツクモさんにお断りしなきゃって思ってたよ。でもことりさんいきなり怒った。怖かった。僕いっぱい泣いた」
「…………泣いた、のか……」
「悲しかった」
九十九の肩に埋もれるように、麻陽はそこで微かに俯く。
「僕、違うよって言ったのに……ことりさん、僕に期待したのが馬鹿だったって出てった」
「それは聞き捨てならねえな」
「……ちょ、散々引っ掻き回した張本人がそんなこと言わないでくださいよ……」
さすがに小鳥遊も、泣かせてしまった手前、強引に連れ戻すこともできないようだ。麻陽が泣きそうだったのは覚えていたが、まさかあのあと泣いたとは思わなかった。なにせあの麻陽である。まさかそこまで感情を動かしてくれたとは考えてもいなくて、九十九には怒られそうではあるが、小鳥遊は素直に嬉しいと思ってしまった。
「悪かった。麻陽、帰ろう。……麻陽が居ないと、俺が寂しい」
「嘘つき」
「嘘じゃない」
「二日も帰ってこなかったもん。僕ひとりで寝てた」
「…………それは、落ち着きたくて……」
「それに、前の婚約者の人と結婚するって話してた。ことりさんは僕と結婚したいって言ってたのに……僕がことりさんを怒らせたから、もう要らなくなったんでしょ」
「麻陽、」
「あっち行って」
マドカが気遣うように麻陽の背を撫でる。皇紀も麻陽の足にひっついて、この場で小鳥遊だけがひとり浮いていた。
九十九からの援護射撃も望めない。こうなることも見越して引っ掻き回していたのだろう。ここで離れるようならそれまでだと、小鳥遊のことを認めていながら、それでもあっさりと切り捨てるに違いない。
「……俺は、麻陽が好きだよ」
言ってみても、麻陽は九十九の肩に額を押し付けて、俯いたまま動かなかった。
「いろんなことを言って、麻陽を傷つけて悪かった。俺も冷静でいられなかったんだ。言い訳にはなるが……好きだからこそ、裏切られたと思って悲しくて、酷い言い方をしてしまった。二度としない」
シンと、重たい間が落ちる。
誰も何も言わない。麻陽はやはり動かない。
「俺が麻陽以外の人と結婚なんかするわけないだろ。気になることがあるなら全部聞いてくれ、麻陽の不安が消えるならどんなことでも隠さず話すよ。……なあ、麻陽」
ずっ、と、鼻をすする音が聞こえた。九十九の肩が微かに揺れる。しかし退くことはなく、小鳥遊から隠すように座ったままだ。
「もう信じてくれなくてもいいから……そうやって縋るのは、俺だけにしてくれないか」
麻陽の手が、九十九の腕に触れた。そうして力が入ると、ゆっくりと距離を開く。
悲しげに歪んだ顔が痛々しい。涙を流している麻陽は、それでも小鳥遊のことは見ようとしない。
「……僕も、ことりさんが好き」
そっぽを向いて、照れた様子もなく、それはあっさりと吐き出された。
だから一瞬何を言われたのかが分からなくて、しっかりと聞き入ってから数秒後、小鳥遊はようやくその意味を理解する。
「でもことりさん、別の人と結婚するって話してた!」
「ち、違う! 麻陽聞いて、よく話し合おう。絶対誤解だから。というか待て、え、麻陽今俺のこと好きって、」
「結婚詐欺だ! ツクモさん、これが結婚詐欺っていうんだよね!」
「そうそう。気を付けろよー麻陽」
「違うだろ! というか九十九さんこれ以上は勘弁してくださいよ!」
小鳥遊は麻陽の元にやってくると、信じられない心地で手を差し出す。
麻陽はムッと頬を膨らませていたが、渋い顔をしながらも、しっかりとその手をとってくれた。
「ああ、良かった。麻陽!」
「わ! 何!?」
繋いだ手を引き寄せられたかと思えば、麻陽はあっという間に小鳥遊に抱き上げられていた。
「好きだよ、結婚しよう。今すぐ」
「っ、い、嫌! しない! 離して!」
「じゃあ俺たち帰ります。失礼します」
「待って! ツクモさん助けて!」
「おーおー、幸せになれよ麻陽ー」
小鳥遊は麻陽を抱き上げたまま、騒がしくリビングを出て行った。
言い合う声が遠のいていく。やがて玄関の外にその姿が見えると、レースカーテンの隙間から覗いていた九十九は軽く息を吐き出した。
「寂しいの?」
同じく覗いていたマドカがニヤニヤとしながら問いかける。
小鳥遊に抱き上げられていた麻陽は強引に助手席に押し込まれて、車は静かに発進した。
「……そうだなぁ。あいつ、マキに似てきたしな」
「本当にね。マキちゃん可愛かったよねえ」
「マキがユキトと結婚したのもあんな感じだったっけか」
「そうそう。逃げるマキちゃんをユキトくんが追っかけ回してた。……結局さ、マキちゃんは幸せそうだったよ」
幼馴染とかつての旧友を思い出して、九十九はふっと笑みをこぼす。そうしてもう一人の幼馴染であるマドカを見下ろし数度頷くと、レースカーテンをしっかりとしめた。
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