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第31話

「ことりさんなんか知らない! ことりさんの嘘つき! 馬鹿! 呪ってやる!」  車内でも延々とそんなことを言われ続けて、小鳥遊はその小学生並みの語彙力に「可愛いなあ」などと浮かれていた。  麻陽は可愛い。何をしていても言っても可愛いが、特に小鳥遊に好きと言ったときや小鳥遊の言葉に泣いているときなんかは普段以上に可愛かった。  浮かれ心地で麻陽の言葉をうんうんと聞き流し、マンションに着いてすぐに抱き上げ部屋まで連れていく。歩かせると逃げられてしまいそうだったから、しっかりと抱きしめてやった。 「いや! 離して! ことりさんなんか嫌い! 離してよ!」 「嫌いって言った」 「戻らないってばー! 嫌だ! 馬鹿ー!」 「落ち着いて麻陽。ほら、帰ってきた」  玄関に入ってようやく、麻陽は解放された。  扉の前に小鳥遊が立っているため逃げ道はない。麻陽はまたしてもぷくっと頬を膨らませて不機嫌になると、部屋の奥へと逃げていく。 「麻陽。話をしよう」 「…………したくない」 「どうして」 「……ことりさんの嘘、僕分からない。信じるしかない。怒られるのも怖い。見たくない」  寝室に入った麻陽は、すぐに布団の中に潜り込んだ。  麻陽のいつもの癖だ。布団の中に入れば丸くなる。小鳥遊はそれを知っているから、その行動を不思議だとは思わなかった。 「俺は嘘をつかないよ」 「つくもん。結婚するって言ってた」 「どこで何を聞いたか知らないけど、言ってない。俺には麻陽だけだ。……父にも了承を得た」  もぞもぞとするばかりで、麻陽は布団から出てこない。  小鳥遊がベッドに腰掛けると、それに気付いたのかピタリと動きを止めたが、それだけだった。 「麻陽の不安を無くしたい。教えて、ほかに俺はなんて言えば麻陽は安心できる?」  ――沈黙が降りる。  布団は身じろぎに揺れることもなく、小鳥遊から次の言葉を奪っていく。  麻陽が何かを言ってくれない限り、小鳥遊にはどうしようもない。  どうか顔だけでも出してくれないかと。小鳥遊は半ば祈るようにそんなことを考えていた。 「……僕、嘘は嫌い」 「嘘はこれまでにもついていないが、これからもそうするよ」 「本当は、一人でお風呂に入るのも嫌い」 「そうか。出来るだけ一緒に入ろう」 「……人が部屋から出て行くのを見るのも嫌い。扉が閉まる瞬間も嫌い。振り返らないのも嫌い。怒るのも嫌い」 「……うん。分かった」  だから麻陽は、毎朝小鳥遊の見送りをしてくれなかったのか。  そんなことに納得をして、落ち着いた声を出す。 「……本当は、"結婚"も怖い」  緊張したような、少しだけ固い声音だった。  珍しいなと「うん」と先をうながすと、震えるような言葉が続く。 「結婚ってよく分からない。"家族"も分からないのに、結婚なんかできるわけない。……ツクモさんとこみたいに、きちんとできる自信もない。あんな優しい場所になんかできない。……赤ちゃんの接し方も分からないのに」  麻陽は皇紀が苦手だ。同じほど、新しく生まれた赤ん坊も苦手だった。画像を見て可愛いと思うのと実際に会うのとでは違う。目の当たりにしてどんなことをしてやれば良いのかも分からなかったから顔を見に行くこともなかったし、皇紀にも積極的に話しかけることはなかった。  麻陽には"家族"の中での立ち振る舞いが分からない。  意識すればするほどおかしくなって、何もできずに動けなくなってしまう。 「別に、きちんとしなくていいよ」  小鳥遊が足を組むと、ベッドが微かに揺らいだ。 「結婚っていいことばかりじゃない。今までよりもっと喧嘩もするし、合わないこともあると思う。もしかしたら麻陽にとっては窮屈で、居心地が悪くて、逃げ出したくなるかもしれない。でもそれは俺も同じ。だから、そういうときには二人で『どうしようか』って話し合って、二人で選んでいけばいい」 「……ことりさんも、分からない?」 「分からないよ。俺だって結婚は初めてだ。……前にも言ったと思うけど、俺の家は厳しくてね。あまり家族の交流もなかった。だけど仲が悪いわけじゃない。ただ関係が希薄ってだけで、顔を合わせれば普通に話もする。麻陽よりは"家族"ってものが分かるけど、俺もそれほど詳しいわけじゃない」  小鳥遊の言葉に、丸まった布団が動き出す。 「俺だって初心者だろ? でも麻陽と結婚したい。麻陽と結婚して、麻陽と家族になりたい」  麻陽はゆっくりと布団を剥いで、ようやく起き上がった。  ベッドに座り、小鳥遊をじっと窺っている。やっぱり小動物が警戒しているような目だ。 「麻陽は?」 「……僕も、同じ」 「本当に?」 「うん。僕も、ことりさんと一緒に居たいもん」 「…………はー、良かった」  小鳥遊はベッドに上がると、安堵したように優しく麻陽を抱き寄せた。  腕の中で、麻陽が体をふにゃりと委ねる。抵抗はない。強張ってもいない。小鳥遊に体を預けてくれている。  その様子にまた一つ気持ちが解れた小鳥遊は、さらに強く抱きしめた。 「好きだよ、麻陽。結婚を決めてくれて嬉しい」 「ん、うん」 「これからはずっとここに居てくれ。風俗も辞めて、俺の帰りを待っていてくれたらいい。もちろん外に出ることは構わない。九十九さんに会うのは控えてほしいし、無闇に注目されるのも不本意ではあるんだけど……」 「え? 僕、お店辞めるの?」 「当たり前だろ? 結婚するんだから」  腕を緩めて距離を開くと、小鳥遊は腕の中に居る麻陽をそっと見つめる。  なんでそこまでするの? とでも言いたげな顔だ。麻陽は"結婚"を深く理解できていないのかもしれない。だがもう今更説明も面倒くさい。やっと麻陽が手に入ったのだ、うだうだ言わずにこのまま抱きしめていたいものである。  ひとまず細かなことを言うのは放棄した。きっと言っても伝わらないし、小鳥遊も考える体力を使いたくはない。 「……セックスの相手なら俺が居るだろ」 「ことりさんエッチできるの?」 「できるよ」 「え! そーなんだ! できないのかと思ってた!」 「俺が今まで何もしなかったのは、俺はほかの客とは違うって思ってほしかったからだよ。体が目的で麻陽と一緒に居るわけじゃない。好きだから居るんだって、分かってほしかった」 「…………そーなの?」 「俺なりにね、大事にしてただけ」  やっぱり伝わっていなかったかと、小鳥遊はため息しか出ない。  だがいいのだ。これから分かってもらえればいい。麻陽を相手に選んだ時点で、このくらいの認識の違いは目に見えていた。  改めて麻陽を抱きしめると、今度は麻陽も小鳥遊の背に手を回した。  それがなんだかいじらしくて、少し前の焦りやたった今呆れたことなんか、小鳥遊の頭の中から一瞬で消え失せていた。

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